この時間ずっと、夜々さんの心がどうあるかを少しでも知りたくて、じっと見つめていた。
女の子らしくいればいいのにと育てられたことはなくて、ランドセルの色こそ選べる時代ではなかったけど、
ピンクは別に好きじゃない。水色が好き。と言える場所にいた。キャッチボールなら何時間でもしていられる。
夜々さん、外で会う人たちとの関係に傷ついてきたのかと思っていた。
兄たちとの関係でもつらい言葉を受けて、罪悪感に苛まれていたなら、それはもう夜々さんの避難場所がない…
だから安心できる場所に、椿さんの家まで来ることが、どんなに大事だったかを思う。
それぞれの器みたいに、それぞれの形で抱えてると思うから、一緒とも同じとも言わずにいたいなと思うけど、
この性別でなければこうしなくて済んだかもしれないと思ったり。守ろうとしたものを守れたのではと思ったりして、やるせなくて仕方なかった時期はある。
でもどうあっても、抱えるものがある。
職場で気まずくなるのは夜々さんの責任ではないはずなのに、円滑な仕事さえままならない。
仮にもお客様の要望を伝えているのに、どの席?でもなく「どれ?」と言う。
同僚の相良さん…同僚じゃないですか…あと言い方…と思ってしまう。
その美容室のシーンで、「アシスタントに言ってよ」と言われていた時に映ったのが、
「いちばんすきな花」放送開始前のPOP UPとして表参道のイベントでお花を配ってくださっていた俳優さんの木坂藍さんで、みかさんを演じていた。
ドラマの中でみかさんとしてお会いできた感じがしてうれしい。あの美容室で働くみかさんの様子を想像できることが楽しい。
3人が、椿さんの家にいる。
おいでと言ってくれる人がいる。その楽しい場所に、自分はいない。目の前には一生懸命にがっかりさせないよう期待に応えないといけない相手がいて。
あの席を立つことが、どんなにエネルギーのいることだっただろう。
ピザの、「4枚でかくない?直角だよ?」に数学的ゆくえさんを感じて、すきと思った。
何となくだけど、4人だから4等分にする必要は無いし、4人で食べるからパイの実を割り切らないといけない訳でも無いのかなと思いながら見ていた。
安心できる場所に、椿さんの家まで来ることが、どんなに大事だったか。
「大丈夫?」に「大丈夫です」と微笑みをつくって言った夜々さんの行動は、崩れてしまわないための極限の防御だと感じる。
「ピザでいい?」
「ピザがいいです」
“で”いいより、“が”いいで応えたい気持ち、知ってるなと思う。
ゆくえさんと夜々さんでバスに乗って、
ゆくえさんが言葉にした「お人形にならないでね。夜々ちゃんでいてね。」
夜々さんを映しながら、バスの窓に映る夜々さんの方にピントを合わせて映したところ、素晴らしきセンスだと思う。
分離しかけている心が可視化されているみたいだった。
それを繋ぎ止めた、ゆくえさんの言葉。
帰った家には居ない母に電話をかけたシーンで、
母の気持ちを慮(おもんばか)れてしまって、愛?されてることもわかってて、でもそれは望んでるものではない。
ずっと言えなかった“嫌い”が、電話越しでようやく言えた安堵と、応えられないという気持ちにはっきり向き合ってしまった心細さ寂しさが伝わってきて、ジクジク痛んだ。
戸棚からカップ麺を見つけたお母さん。
それをたしなめることなく、煮物だけをそっと冷蔵庫にしまって帰ったことが、お母さんの今できる思いやりだったと思う。
CMとCMの間に入る、スポンサーロゴの後ろでも、少しずつ物語が進んでいるから見逃せない。
夜々さんと紅葉さん。マスコットにされてきた二人なんだと浮き彫りになって、なんでかなとやるせなかった。
小5だった紅葉さんと、高3だったゆくえさん。
その距離で見ていたことを、紅葉さんの言葉で知った。
「椿さんのことは好きだけど」の一瞬で見せた紅葉さんの表情に、心の奥がくっと狭くなった。
パイの実食べて牛乳飲む椿さん。
パイの実食べて、牛乳飲む、椿さん。2度書き記したくなるほど、すっごい良いよなあ。
2度目の美容室に来た、椿さんと夜々さんのやり取りに、ようやく安心できた。
緊張がギュッて手に出る椿さん、最高のかわいさだった。
「うるさくさせたんだよ」の言い方、すごく好きで何度でも聞きたい。
夜々さん、椿さんに写真を見せて、“でんでんむし”って言うのか“カタツムリ”って言うのか、どっちかなって思ったんだろうなと、「これなんでしょう」と見せた夜々さんに思った。
藤井風さんの「花」が、今回は夜更けの空に溶け込んでいくメロディーみたいで、夜々さんに寄り添うように聞こえてきた。
羨ましがられることが、本人にとって嬉しい特別とは限らない。
そう思うから、普段私は“羨ましい”という言葉を使いたくない。
夜々さんは、紫がすき。紫陽花もすき。
この時間ずっと見つめていたから、それを覚えられた。何がすきで、きらいか、すぐに知ることができなくても、気づけるタイミングはやってくるのかもしれない。