私宛の手紙

 

10年前の私も文章を書いていた。

そして今も書いている。

エヴァンが窓越しに手を振るように、ここにいるから誰か気づいてくれないかと願っていた気持ちは、少しずつでも大丈夫に変わっていく。

気になるテーマをはてなブログで見つけたので、今あらためて自分の中にある思いと向き合ってみたい。

 

10年前の私に、毎日がどちらかといえば楽しく、落ち着いて居られる場所に辿り着いていると話しても、そんなはずないと聞き入れないと思う。

今の自分自身が、こんなに心穏やかにいていいのだろうかと未だ驚いているくらいだから。

それなら10年後の私に、何を伝えたいだろう。

 

変化を恐れる私は、先々に起こりそうな状況の心配はするのに、自分のことは考えたがらない。

想像できた年齢を過ぎて何年も経っているから、今は想定外を生きている。

 

想定外の先に来てみて言えることは、

書きつづけてきたことは、大きな変化を起こさなくても、それぞれの場面で役に立って誰かの心には届くようになる。

だからこの先も、ペースが変わったり書くテーマが変わるとしても、楽しみながら文章をつづけてほしい。

その時その時の支えにして握り締めてきた音楽は、今も新たな音楽との出会いに繋がっているし、

今しかないと思った大阪でのウィークリーマンションでの暮らしは、本当に今しかないから行った方がいい。

その体験でエッセイを書いて、自分で本を作って、文学フリマで売る経験をする。

形になった本は今もどこかにある。そう思えることがちゃんと糧になる。

 

恐る恐るでもやってきたことに後悔はないから、迷ったらやってみてほしい。

自分の扱いがわかってきても、不甲斐なさに潰されそうになることはあるから、変わらず私は私の保護者であってあげてほしい。

 

はじめましてを楽しめるようになる。

職種が変わっても案外やっていける。

思う以上に、周りはあなたのことを考えてくれている。その予想外を楽しんで。

 

日本版「ディア・エヴァン・ハンセン」 - 間違える主人公に、私たちは何を思うのか【後編】

 

舞台ではコナーの存在がしっかりと視覚で印象に残った。

立石俊樹さんが演じるコナーは、大きくて、エヴァンと並ぶとなおさら圧倒的で。だけど、内心はすごく小さく縮こまって恐れているように見えた。

 

【この先、日本版公演と映画版の内容に触れているため、ご了承ください】

(前編はこちらです。日本版「ディア・エヴァン・ハンセン」 - 間違える主人公に、私たちは何を思うのか【前編】 - 宛名のないファンレター

 

手足が長く、ザンッと舞台に立つと凛々しさがあった立石俊樹さんが演じるコナー。

手荒に腕のギプスを掴まれ引っ張られるエヴァンが、“いー”だったか、高音の何とも言えない音を発して怯えて痛がる様子が微笑ましくさえ見えてしまった。

「Sincerely, Me」でのコミカルさが劇中で光る。

リプライズでやってくる、2度目の「Sincerely, Me」で、ジャレッドが暴走するのをエヴァンが止めた時に、ジャレッドと一緒にちょっと不服そうなのが可愛かった。

 

コナーのことを考えて、エヴァンが嘘をはじめてしまう時、影が躍動して、森のなかでのことがまるで本当にあったかのように鮮明に色づいてしまう。

木から落ちたエヴァンが痛々しく腕をかばいながら転がるところに、コナーがそっとやって来て、手を差し伸べる。

舞台上で実際にその姿を見て、稲妻に打たれるみたいな衝撃が走った。

エヴァンが望んでいた、もしも。

あの時の“僕”に、駆け寄って、手を差し伸べてくれる人がいたら。“僕”を見つけてくれる人。“僕”が“落ちた”ことを知っていてくれる人。

 

 

声を張るのに、肩を落として猫背で首を前にした姿勢のエヴァンを演じるすごさ。なぜその姿勢でその声量が出るのか。

ユニークさチャーミングさもあるエヴァンが時折顔を出す。

メールを作ろう!のシーンで、光る眼鏡を装着する友人ジャレッドをまじまじ見つめて、自然に笑っているように見えた柿澤さん演じるエヴァン。


ゾーイのキュートさ。

食卓でツンケンしていた声のトーン。

エヴァンと思いが通じた後で、学校で手を引いてうれしそうにエヴァンに話しかける表情が、舞台左からはけるぎりぎりまで見えて、エヴァンもうれしそうに反応していて、その微笑ましさに胸がいっぱいになった。

ゾーイの家でも、お父さんを前にしつつ、すっかりエヴァンの恋人な話し方、声のトーン、振る舞いが可愛くて。

その前のエヴァンの部屋での「もう一回謝りたい?」「…変なひと」の微笑みを含んだ声も、もうひとつひとつが愛おしかった。

 

メールのやり取りをコピーされた束を見てと母親のシンシアから手渡されたゾーイ。

1枚がくしゃくしゃになって、ゾーイがソファーに勢いよく座った拍子に落ちたのもリアルだった。苛つく様子で拾い上げ、握り締めていた気がする。

 

エヴァンのユーモアに心惹かれた瞬間は、

別れの挨拶かと動揺したエヴァンが、ひと通り取り乱した後で嬉しい言葉を聞いて、
エヴァンがゾーイにとてとてと近づいたと思ったら、「よしっ」(両手ペンギンポーズ)をしてからの「ありがとっ」と軽快に、ゾーイの両手をぎこちなくぽんっと握って行った時。

えっお茶目。と心ギュンと掴まれて、コミカルさに思わず笑った。

 

最も印象的だった演出は、エヴァンとゾーイが近づくシーンで、ゾーイとエヴァンの間に降りてくる黄色いランプ。

降りてきたライトが下がるにつれて背景の影が大きく浮き上がってきた瞬間だった。素晴らしかった。

止まるのではなく、降りるランプが二人を影にして大きく映し出す演出に鳥肌だった。

この作品のなかで、最も好きな光の演出だと言える。

 

オケピが無くても、ステージ横で生演奏されていることが嬉しかった。

楽器の音色が素晴らしかった。8人の奏者さんが同じ空間で奏でてくれている音楽。

ドラムが躍動するロックなビートも、繊細な旋律も、ビオラ、チェロ、どの音も大切なメロディー。

音が劇場を震わせ、包む様子は劇場に来てこそ感じられる体験だった。

 

やっぱり私は「You Will Be Found」のエネルギーがこわい。

舞台で観たことで、1度目の善意の拡散と、2度目のコナー家を攻撃する拡散の変貌を可視化していた。

赤い照明。

でも善意の拡散も、本当に良いこと?考えてみて?と問いかけられているようだと思った。

映画の時の印象よりも感動ムードに走らず、どこか張り詰めたリアルなトーンの冷たさも感じられた。

 

 

言い争いが止まないマーフィー家族に、話そうと決めて来たエヴァンは何度も小さな声で、でも一生懸命に声を発していた。

あの、違う、そうじゃないんです。どうにかして伝えなくちゃと、話しかけていた。

赤い照明の中、ゾーイ、コナー、お母さん、に責められるシーンは、実際にはそんなふうには言われていないはずで、エヴァンがエヴァン自身を心の声で責めていることが、円形のステージの真ん中でうずくまるときに伝わってきた。

「ひとりにしてくれ!」

そう叫んだエヴァンの声が今も耳に残っている。

 

エヴァンが上のモニターに押しつぶされていくかのようだった。

自分の書いた言葉。手紙。“Dear Evan Hansen,”の文字に。

凄い演出だと目を離せなかった。それまで頭上に掲げられていたモニターが、あんなふうに降りてくるとは。

避けようと手をかざして、しゃがみ込み苦しむエヴァンを見て、物事に圧倒される心情が可視化されて届いた。


アラナとテレビ電話越しで責められる時、エヴァンの影は膝を抱えてうずくまっていた。

だけどアラナも、私みんなに嘘をついたの?とアラナ自身がしたことの重大さを心から恐れていた。

 

マーフィー家に、エヴァンのお母さんハイディとエヴァンを呼んだ時の、ソファーに座るエヴァンの肩に両手を滑らせるゾーイは、すっかり心を許した恋人だった。

マーフィー家のソファーでワインを飲んで、自然な所作でいつものようにグラスのフチを拭くシンシアと、そのまま飲み続けるハイディの対比にも心がズキッとした。

 

舞台版で初めて聴いた、グローブの歌。心に響く。

グローブの育て方まで学んでしまった。

 

家のソファーで2人話す、エヴァンと母親ハイディのシーン。

それまでに何度も繰り返されてきた、エヴァンの部屋でハイディが来るとパタンと閉じられてきたノートパソコン。もしかするとそれは、エヴァンの心と繋がっていたのかもしれない。

でも決壊した感情のなかで、2人が力の限り対話する。

自分の座っている席がとても近いわけでなくても、エヴァンの鼻が耳が赤くなっているのが見てわかった。

お母さんの肩に顔を埋めるエヴァン。それをしっかりと掴んで離さないハイディの姿に、舞台には舞台の描写でしっかりと、ある意味で落ちてきたエヴァンを今度こそ抱き止めたと思った。

 

ある時から、あのポロシャツを着るのをやめたエヴァンが印象的に見える。白のシャツに白のインナー。

立ち去るゾーイにかけた「そうだね」が、とても、エヴァンだった。

かつてのように少しぎこちなく、でもゾーイとの会話には馴染みがあって、相手に届く勢いでは投げかけられていなくてぽとりと地に落とすような。そんな一言だった。

舞台上から見えなくなる最後の最後までゾーイはゾーイで、歩きながらりんごの木の葉にそっと触れて行ったのを見て、胸打たれた。

エヴァンはゾーイという大切な恋人と一緒にはいられなくなった。彼女からの信頼を取り戻すこともできない。

それでも、りんごの木の葉を撫でたゾーイは、このりんご園を愛せるようになっているように見えた。

それはつまり、エヴァンとの出会いが何も変えなかったということではなく、痛みを伴ってでも、変わった何かを残したということだと思う。

私はゾーイのそのひとつの仕草が、堪らなく愛おしかった。

 

それぞれが向き合い、抱えた葛藤のなかで、
影とみんなが別れたのは、りんごの木のシーンだと思っている。

 

それぞれが語ること、心の内に持つもの。

それは一色で表現できるものではなくて、後悔や葛藤がある。全てが言葉通りで本心とも限らない。

不安定さは作品全体の歌にも表れていると思っていて、「ディア・エヴァン・ハンセン」を映画で初めて観た時の音楽への感想は、なんて覚えづらいナンバーばかりなんだろうだった。

バチッとはまる、ここが正解の音!と言えるメロディーラインが約束されていないような、正解を掴めているのはベン・プラットさんだけなのではと思うくらいに難解だった。

常にふわふわと揺れて、上がって下がって、彷徨っている。そんなイメージ。

「Waving Through a Window」が唯一、最初に記憶できた歌だった。

 

舞台美術で表現される「ディア・エヴァン・ハンセン」にも感動した。

それぞれの場所で、モニターに映る外壁や壁紙に違いがあった。
エヴァンの家は、温もりと素朴さがある木目。

コナーのいるマーフィー家は、固く城壁のようなレンガ。

学校は、タイル。そして時計。ブルーのタイルは、冷ややかさを感じる。

 

コナーの両親として、ラリーとシンシアが職場やスーパーマーケットで送られる視線が、映画では印象深かった。

終盤のストーリーは、原型である舞台ではこうだったのかと知ることができて、なるほどと思う部分も、後味の感想が変わることも、咀嚼することができた。

きっとブロードウェイでベンプラットさんの公演を観て、そのベン・プラットさんが映画でもエヴァンを演じる感慨深さをしっかり味わいながら、今回の日本初演にたどり着くのもまた素敵な経験になるのだろうと想像する。

私は私なりの出会いで、あのタイミング、あの状態の私で受け取ったことが大切で、必要だった。

 

エヴァンは文才を褒められる。

エッセイコンテストに応募して、大学のための奨学金をと提案されるほど。お母さんは誇らしげで、エヴァンにはそれが出来ると信じている。

スピーチで人の心を動かしたのも、確かにスムーズとは言えない話し方だったとしても、彼のことだから考えに考えて用意した言葉が聴衆に届けたものがあったのではと思う。

だって自分へ宛てた手紙の書き出しがすでに文章として光っている。

“今日はいい日になる、理由はこうだ。”

 

開演前、モニターに映るお客さんからのメッセージを見上げていて、自分のものがあるかなとはじめは見つめていたけど、

「ディア・エヴァン・ハンセン」を愛して、メッセージを送っている人たちの言葉に、共鳴するものがあることに気がついた。

ワクワクする素敵な企画だったと思う。どこで誰のメッセージが映し出されているかはわからないけど、どこかで私のメッセージも誰かの目に届いているのかもしれない。

この公演期間、そんなふうにイメージしながら過ごせる毎日はなんかいい。

何とメッセージを送ったかは、公演が終わったらここに残しておきたい。

 

今の自分で「ディアエヴァンハンセン」を観に行けたことはやっぱり大きかった。

映画が公開された当時、不安では括れないものに飲み込まれてきていた自分に響いたメッセージは、今も変わらず浸透して、それでもなにか大丈夫と掴めている足元の実感がありながら観る舞台は、一層心強いものとして響いた。

 

有明の非日常の景色から日常へと帰り、寝支度をしながら思ったのは、

今日のなかにずっと居たいけど、寝なくては。明日が待ってる。という、かつての自分には想像もつかない、明日に向けた思いだった。

待ってると思えるようになったことが、物凄い変化だと実感しながら眠りについたことを忘れないと思う。

窓越しに手を振るエヴァンに共鳴していたあの頃から、少しずつでも私も動くことができた。

たまに換気をして、窓を開けて、数回に一回は勇気を持って大きく手を振れるのかもしれない。

 

約3時間の舞台が、あっという間にカーテンコールになる。

3回目で客電が点いてスタンディングオベーションに。

かなりの割合、演者さんが出て来る前に立ち上がっている状態になっていた客席の様子に、この感動は自分ひとりで感じたものではないとわかって嬉しかった。


エヴァンだけ舞台袖に立って、大きな拍手と共にふうー!と上がる声を、耳に手を当てるジェスチャーで“もっと?”からの、

両手で煽って、“もっと” “もっともっと!”で噛みしめてから、ぴしっと深々とおじぎをして行った柿澤勇人さん。

息を飲むように幕を開けた「ディア・エヴァン・ハンセン」は、静かに、確かな余韻を残して幕を閉じた。

 

ブロードウェイ初演キャストで、映画でもエヴァンを演じてくれたベン・プラットさんのエヴァンを見ていて、エヴァンに必要なのは若さではないと感じていた。

柿澤勇人さんが演じても、吉沢亮さんが演じても、唯一無二のエヴァンがそこに生まれる。

ダブルで観ていなくてイメージになってしまって申し訳なく思いつつ、海外のハイスクールにいるエヴァンとして観たい時には柿澤勇人さんのエヴァン。

日本版として内向的な感性を溶け込ませたエヴァンを観たい時に、吉沢亮さんのエヴァンに会いたくなるのではと想像した。

年齢関係なく、これからどんなキャスティングが生まれていくのか楽しみにしながら、私は森崎ウィンさんのエヴァンが観たい。エヴァンを必ず演じると信じていつまでも待つ。

 

「Waving Through a Window」を思い浮かべるたび、森の中で倒れた木のことを考える。

歌詞のなかでも畳み掛けてエヴァンが問う、“物音”について。

それで私は今、舞台であのりんご園を目の前にした今。エヴァンとゾーイの言葉に、やはり何も作用しない木は無いのだと思いたい。

知られていると本人が自覚していないとしても、そこにいるだけで、空気が息ひとつぶん動くだけで、何かを動かしている。

そこにいなくなっても、やはり動かしている。

 

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日本版「ディア・エヴァン・ハンセン」 - 間違える主人公に、私たちは何を思うのか【前編】

 

どんな作品?と聞かれたら、間違える主人公の話だと伝えると思う。

主人公になりたがらない彼を、主人公にするのはどれだけ難しいことだろう。

私が劇作家なら、逃げ回る彼を前に、ペンで追うのを諦めてしまうかもしれない。

陽の目を見たいなどと思わない彼の話だからこそ、彼の話が聞きたい。彼を物語の中心へと連れてきたことに驚いて、目が離せなくなった。

 

目立つことをとてつもなく恐れて、

でも見つからないままでいることも恐れている。

 

Dear Even Hansen」(ディアエヴァンハンセン)

ようやく日本公演初演となったミュージカルを観に行ってきた。

制作決定、キャスト発表と追ってはいたけれど、観に行けるとまでは思っていなかった。

1公演、手にしたチケット。その1度を心に刻むと決意して、EXシアター有明へとやって来た。

 

Dear Even Hansen」(ディア・エヴァン・ハンセン)

EXシアター有明

2026年8月8日 12時開演

 

エヴァン:柿澤勇人さん

ハイディ・ハンセン:堀内敬子さん

ゾーイ・マーフィー:松岡茉優さん

コナー・マーフィー:立石俊樹さん

シンシア・マーフィー:瀬奈じゅんさん

ラリー・マーフィー:石井一孝さん

ジャレッド:上口耕平さん

アラナ:宮澤佐江さん

ダンサー:十川大希さん、尾関晃輔さん、福島玖宇也さん、渡邊南さん、藤田実里さん

【この先、日本版公演と映画版の内容に触れているため、ご了承ください】

 

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観劇翌日の朝6時。興奮冷めやらぬ頭でベッドに座って、久しぶりにノートパソコンを充電しながらこの文を打っている。

長くなりそうだからキーボードを選んでいるだけでは勿論ない。完全に影響を受けて、エヴァンの行動をトレースしてみたかった。

 

真っ暗な中から照明が当たって、ぽっとそこに表れるエヴァン。ベッドの上に座っている。

あぐらをかいて、ノートパソコンを膝の上に置いて。爪を噛んだり。

思考に口が追いつかないスピードで、自己弁護が止まらない。それでも自分宛の手紙という課題に向き合って、キーボードに指を置く。

“Dear Even Hansen,

今日はいい日になる、理由はこうだ。”

 

エヴァンは自分へ宛てて、そう手紙を打つ。

自分へ宛てる手紙は、私にとって感覚の遠いものではなかった。

整理したい頭の中。言いたかったけど言えなかったこと。書き残したい嬉しいこと、どれもをここ【宛名のないファンレター】に書き始める前は、ノートに手書きでひたすら書き残してきた。

ノートに書いていたそれは、もっぱら自分宛てだったと思う。

ノートが山のようになってきた頃、誰かにもしかしたら読んでもらえるのではと希望を持てる、ブログに書いて載せてみるのもいいかもしれないと、宛名のないファンレターを書き始めた。

 

映画「ディア・エヴァン・ハンセン」を知って、短い上映期間でも観に行きたいと映画予告に心動いても、身体を動かすわけにいかなかった2019年。

Blu-rayの発売が2022年4月8日。

映画で好きになるほどに、舞台でこの作品がどう誕生して、どう表現されているのかを観たくなった。

いつか日本で。日本語版となった歌詞、台詞。キャストで観られる日を待ちわびてきた。

“今日はいい日になる”どころではなかった。

私にとって、最高の一日になった。

舞台で表現されていたこと、映画で表現されたこと。それぞれの意味を考えながら、柿澤勇人さんの演じるエヴァンを前に、ようやく会えた。と思った。

 

ダブルキャストの今回。

チケットが当たるかどうかさえ高難度なのに、組み合わせの多様さにくらくらした。

主演、エヴァン・ハンセンは柿澤勇人さん、吉沢亮さん。

観られるのなら、どちらも観たい。全ての組み合わせで観たい。でもそうもいかないから。

キャスト発表の驚きのなかで、松岡茉優さんのお名前を見た時。その世界に入ると決めた心を思った。勝手ながら思ったからこそ、私は観に行きたいと考えてもいいのだろうかと葛藤した。

でも舞台に立つと決めた松岡茉優さんを、ミュージカルにもゾーイという役にも向き合う姿を見ないでいることは選びたくなかった。

どんなお仕事に対しても誠心誠意過ぎるほどに向き合う印象だから、作品に役にどうか飲み込まれず、健やかにその世界を歩ききってほしいと願わずにいられなかった。


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松岡茉優さんの演じるゾーイを観られたこと、記憶の大切な宝箱に入れる。

ツンケンしたところも、揺らぎ崩れそうな心も、可愛い笑顔も。

「Requiem」で消え入りそうな始まりから、3人の声が重なるときに柱のように芯を通し突き抜ける歌声がダイレクトに胸にきて、全身を覆ったことも鮮明に覚えておく。

映画やドラマで、画面越しであることなど関係なく揺さぶられ続けてきた演じる姿が、実際に同じ空間で観せられている衝撃。

「問題のあるレストラン」のパーカーちゃん。「初恋の悪魔」の星砂さん。もちろんそれだけではない、私の見る先にはいつも松岡茉優さんの演じる役があった。

 

柿澤勇人さんの演じるエヴァンを目の前に、“生きている”と思った。

エヴァンがここに。私はそれを目の当たりにしている。

 

SNSが巻き起こす渦を表現している「ディア・エヴァン・ハンセン」

映画で映像として先に見たからこそ、これを一体、舞台でどうやって?と思っていた。

ブロードウェイでのオリジナル版、韓国版など、各国での公演があり、日本版がどう違うかまで見比べることは出来ていないけれど、

デジタルの世界を、モニターやプロジェクションマッピングを駆使して表現することに振り切るのかと想像していたら、囲うように回る窓。円形の床。

特殊なモニター配置で表す演出にも見入るなかで、囲うように回る窓は、ダンサーさんが踊るように静かに動かしていて、人力でもあるところに演出のバランスを感じた。

無機質ではない、舞台の温度を感じる演出だった。

 

登場人物たちのそばで影のように着いて歩く存在があることに気づいてから、背丈も身なりもそっくりなそれぞれの2つが、本人と内面を表していると注意深く見つめた。

ダンサーさんがコンテンポラリーにも見える動きも含めて、心情を観せる。学校内で、ゾーイの後ろを嬉々として着いて歩くアラナと影が可愛らしかった。

本人と影とが揃っている時、ああ今は本心のままに動いているのだなと認識することができた。

常に張り切っていて、背筋をピンと伸ばして、きっちりしているアラナ。

台詞で説明や設定をつけずに、見る側の感性に委ねる舞台もいいと思ったし、映画で話されるアラナの背景にもそれはそれでシンパシーがあった。

影もしっかりと同じ形を保っていて、アラナの影はリュックもお団子頭も、ノートを抱えて弾む姿勢の良い足取りもぴったり合っていた。

影とじゃれるジャレッドもいた。とてもジャレッドらしさを感じた。

カーテンコールの時にも、2人で手でわちゃわちゃしていた。

 

ポーンと光が舞台の周囲を走って縁取る映像演出や、通話中の画面、波長、オンラインの文字とグリーンのランプ。どれも細かく、そしてリアル。

テレビ電話用のカメラが降りてくる仕組みにも驚いた。舞台袖で映り、お芝居をしてるのかと思いきや、エヴァンはアラナとの通話の時には舞台上の窓の向こうにいて、実際にその場で話していた。

カメラは客席側を向いてエヴァンを映していて、窓が動くと同時に吊り下げられたカメラは上がっていく。

舞台装置ひとつひとつが繊細に動いていた。

 

Waving Through a Window

英語詞で聴き続けてきた。日本詞として耳に響く時、どんな感覚になるのだろうと思っていた。

静かに語り、切実さを帯び、窓越しの願いと叫びが最高潮に達する熱量。

それは日本語になっても実感できた。

特に、“tap tap”と歌われていた部分を、日本語歌詞のなかで唯一と言える貴重さで『タップ タップ』と音感をそのままにしてくれたこと。

これは大きな感動だった。窓に手が触れる、力の無さがその音に表れていると思っていてそれが好きだった。

ノックでもなく、呼びかけるにも弱々しい手の力で鳴らす音。

私は窓のことばかり考えていたけれど、『タップ』にダブルミーニングがあるとパンフレットから理解して、そのままに表現された重要さを一層感じた。

 

“I'm Waving”のしゃくりのある音の上げ方が、英語版のベン・プラットさんの声で聴き入った部分で、

日本語になって、“窓を”の部分がその旋律にきていた。

柿澤さんが歌った“窓を”は、ベースに忠実に音が下がってから下から上へとしゃくる節回しになって聴こえて感動した。

真っ直ぐ前に“窓を”と歌っても音は当たりそうなものの、細部において丁寧だった。

その細やかなスタートから、最後のナンバーまで、耳が馴染んでしまったベン・プラットさんのエヴァンとしての歌唱に丁寧に寄り添った歌い方だったように感じて、

日本語での譜面割りや、途切れる音があるなかで、きっと稽古で練習し肉づけしたご本人の歌い方がありつつ、出典はオリジナルキャストというようなリスペクトが伝わる表現だった。

 

エヴァンの象徴的なブルーのポロシャツも、視覚的に印象に残る。

舞台版では、心の底に沈む気持ちを表すかのようなブルーのグラデーションのポロシャツや、ボーダーの服を着る。

映画内でもボーダーの服をよく着ているエヴァン。

もしかして、ボーダーラインを常に意識して、人と距離を保って生活する彼の内心を表している?と思ってからは、彼にとってお気に入りの安心する服でもあり、心情でもあるのかもしれないと見つめた。

だからこそ、彼がボーダーを着るのをやめた時、明らかな変化があったと感じられた。

 

コナーに取り上げられてしまった手紙。

「返して!!」と叫ぶエヴァンの声、必死で伸ばす腕が悲痛で忘れられない。

気が進まなかった、自分と向き合う素直な気持ちを書いたのに、一番知られたくない人に知られてしまった。ゾーイの兄で、あのコナーに。

 

立石俊樹さんの演じるコナーを見た時、エヴァンの視点で見上げる気分でいるからか、体格大きい…こわ…と思った。

圧倒的で、不機嫌そうに近づかれると、後退りさえためらってロッカー前で身を縮めるしかないと最初は思う。

だけど、エヴァンの理想だったとしても、こんな空想での振り回し方していいのかな…と躊躇しつつ「Sincerely, Me」でのコミカルな姿は目を離せないし、ダンスの躍動感にワクワクした。

どこか凛として、威圧して人を遠ざけるけど見捨てられることを恐れていて。

エヴァンに微かでもシンパシーを持ったかもしれない、その空気を感じたからこそ、コナーが手紙を捨てなかった理由がはじめて少しわかる気がした。

表面の彼だけを見たら、その場で破り捨てそうなのに。

 

善意の連鎖のように拡散されていくSNS。

大団円、カタルシスになるはずのシーンが、それ一色ではないのだから思いは複雑になる。

映画の時から、あのシーンが怖かった。

“ひとりじゃない”と歌も団結して手と手を取り合っているように見えるのに、得体の知れない渦になった感情が、中心にいたはずの本人にも手の付けられない生き物になっていくようで、希望には見えなかった。

日本でエヴァンに触れた私は、コロナ禍でこのストーリーを見たけれど、ブロードウェイ初演は2016年で、コロナ禍でさらにSNSが勢いづいてZoomなどのリモートが当たり前になる前に完成されていた作品だということに改めて驚く。

 

失敗した、間違えたと相手に思わせることを恐れて、だから“鍵を回す前に、ブレーキの踏み方を覚えた”エヴァン。

醜態を晒すくらいなら、何もせず何にも接さずにいようと決めた日に、エヴァンはコナーと出会ってしまう。

エヴァンが言葉を発するのには、待ってくれる相手が必要。

なのに、校長室に呼ばれたあの時からずっと、周囲はエヴァンの言葉を待たない。

期待や憶測、そうだろうという決めつけで、喉まで出かかっている彼の言葉を飲み込ませてしまう。

私にはそれが、言わなかったことだとは思えない。

もちろん、重要なタイミングは何度もやってくるのだけど、エヴァンにとっての弱さや希望がそこで自らの口を閉じさせてしまう。

だからエヴァンがしたことも正しくはないと思う。

 

エヴァンの抱える不安や怯えや孤独を、舞台、映画、それぞれのベストな形で表現していたこともわかって、感動している。

オープニング曲が違うことで、映画では学校という大きなコミュニティーにただひとりというコントラストが生まれる。

舞台で際立つのは、やはりスピーチのシーン。

震える手でネクタイを締めるエヴァン。ネクタイを結んだ瞬間、あのエヴァンだと息を飲む。

実態に真っ直ぐなネクタイを手渡されて、エヴァンとしてネクタイを結ぶあの時間がどれだけ緊張するかを思う。

そのバランスでは前がやたら長くならないかななんて見守る気持ちで、やっぱりいくらか長いままのネクタイは余裕などゼロなことの表れだとわかる。

映画で段階を追って、日を跨いでいる感覚で見るスピーチと違って、繋ぎ目なくスピーチの瞬間がやってくるところが、心の準備さえままならず前に出されたエヴァンの心情をよりリアルに見せていると感じた。

 

映画では、学校の舞台上からどんな景色を見ているかが映る。

コナーのご家族、ゾーイも。アラナもいて、どんなもんかと見物に来たような仲良くもない同級生たちもいる。

舞台になると途端に、ここがその会場になる。椅子も空間も照明も、劇場だったものが学校のホールへと変わる。

私たちが、エヴァンを見に来たひとりひとりに。観劇しに来た自分たちの場所ごと場面転換をされるのは初めての感覚で、これが「ディア・エヴァン・ハンセン」の醍醐味なのかと体感した。

注目して見ていた視線が、エヴァンにのしかかる。

観る回やお客さんによって、エヴァンのスピーチへのリアクションも変わると読んだ。

笑いが起きることもあれば、静寂もある。それによって、エヴァンが追い込まれていく状況理由が変わるというのもすごい。

客席の空気をその場で受け止める役者さんのエヴァンとしての反応の真骨頂だと思う。

今回は、固唾を飲む空気感のように感じた。見守りたいから注目になる。少なくとも私がそうだった。

でもそれがエヴァンの目には恐ろしく映る。反応が無く、沈黙とただ広がる暗闇に追いやられているような重々しさに崩れた姿が苦しかった。

追い詰めたくなどないのに、この眼差しがエヴァンを追い詰めている。

 

 

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日本版「ディア・エヴァン・ハンセン」 - 間違える主人公に、私たちは何を思うのか【後編】 - 宛名のないファンレター