声が小さい

 

声が小さい。

日常で基本とされる発声が5だとするなら、2くらいで過ごそうとする。

そして、声をかけて気づいてもらおうという意気込みも小さい。

自分としては意を決して発した声が、大方相手まで届かない。

 

声が小さいという自覚があるので、店員さんが目視でも確認出来るように、カウンターで注文する時にはメニューの指差しも合わせてする。

なんとかして伝えようという気概は見せたいので、手の動きでジェスチャーをつけてしまう。

 

大きい音が得意ではない。

テレビの音、物音、人の声。

踏み切りの前で待つ時、あの音が来るといまだに身構える。

電車の過ぎるあの音は、大人になったら平気になるのだと、子供心に何でもなさそうな顔をしている大人を見上げて思っていた。

身長が変わり、車輪からはほんの少し遠くなったので、聞こえる音量は多少マシなのかもしれない。でも本当は耳栓がほしい。

 

ちょっとした音を聞き取ってしまう。

何かが落ちた。誰かが話した。

自分軸で思い込むのは相手に優しくないと思いつつ、聞こえているから、必要最低限のこの声量で聞こえるはずと思ってしまう。

むしろそれ以上の声量で話すことが、大げさで周りに迷惑のかかることなのではと考えてしまう。

 

ハキハキと、はつらつと、話すことができたらと思うこともある。

どちらかと言うと低音で、ゆっくり話しているのであろう私は、せめて聞き取ってもらえる声の大きさで話せるようになりたい。

 

舞台「またここか」2026 ー ガソリンスタンドに居合わせる4人の会話が辿り着く道は

 

軽快な会話のよう。微笑んでしまったりもする。

でもどこか、なにか。

 

舞台「またここか

作:坂元裕二さん
演出:荒井遼さん

出演:奥野壮さん、馬場ふみかさん、永瀬莉子さん、浅利陽介さん

 

座・高円寺 ホール1

2026年 2月6日 19時開演


不穏で、切実で、

安易な感情移入を許容しないかのよう。

 

坂元裕二さんの書く舞台。ドラマとも映画とも、きっと変わる。

実際にそうだった。立体化した坂元裕二さんの言葉と空間。

直に音になる声になる坂元裕二さんの戯曲を聴けたことも嬉しかった。役者さんが目の前で演じてくれるなんて、こんなに贅沢なことはない。

浅利陽介さんが演じる姿を観られること。馬場ふみかさんがいらっしゃること。「またここか」に坂元裕二さんの思い入れがあること。その要素でもって観に行こうと思った。

情熱大陸」で公演の一部を見た時から、独特な空気にコートの後ろをずっと引っ張られているような感覚があって、忘れることがなかった。

8年も経っていた。8年ぶりの再演を、座・高円寺で観られる。

 

【舞台内容、構成に触れて感想を書きます。】

 

 

劇場へと入ってまず驚いたのは、“舞台”の位置だった。

ここにそんな作り方が出来る?いやまさかと文字では信じられなかった空間が出来上がっていた。

地上であるはずのフラットな場所に、ど真ん中に、縦長にあるのが“舞台”。芝居空間。

サンドイッチするように、両向かいに座席が段をつけて作られている。

 

観に行きたい気持ち一心で取った回が、アフタートークありという贅沢さで、そこで永瀬莉子さんが(お客さんの眼差しからの)「圧が」(構成演出上)「目が合ってしまいかねない」とお話されていた通り、演者さんにはどれほどの難題かと思う。

集中してお芝居をするという意味では、視線の向けどころにきっと困る。不意に向けた視線の先に、お客さんがいる状況になる。

浅利陽介さんも、アフタートークで「目線が一緒だもん」と言いながら見渡していた。

 

ガソリンスタンドがそこにある。

手を洗う蛇口からは頼りなさげに水が出る。そこで手を洗う。

タオルを洗濯機に入れる。干していたタオルを洗濯バサミから外す。カゴに入れる。

タオルを畳む。行動ひとつひとつを眺めていると、不思議な没入感があった。

 

どんな顔をして見ていていいかわからない、が全体で持ち続けた感情だった。

どんな顔をして観ていようといいはずなのに、自意識なのか、心にある倫理観なのか、はたまたこの舞台が生み出す舞台構成による視線の交差によるものなのか。

今の言葉を、目の前の行動を、どう受け止める?と問われているようで。

面白い微笑ましい怖いあらゆる感情がマーブル模様で、でも目を離す隙なく、視覚、聴覚、嗅覚で居合わせる舞台だった。

 

温かい夕陽に照らされていたガソリンスタンドが、気づくと冷たい白の蛍光灯の明かりになっている。

それは時にヒヤッとする一言をきっかけとしていたり、時間の流れを表していたり。

雨が降る音も印象的。大きな缶からの煙も。

タバコの煙と匂いは、ガソリンの危うさと重なったときにリアルさを増して嗅覚までも刺激される感覚だった。

タバコは、健康を害さない代用品を使用していると劇場入り口に貼り紙がしてあった。

 

公式サイトに載っているあらすじが必要最低限であることを感じたので、それ以上を調べようとしなかった。

話もキャストも知りすぎずに行くことにしたのが、想像を上回って楽しかった。

観ていない8年前を語ることはできないけれど、キャストの印象の違いを感じた。だからこそ、映像では多分見たことのある奥野壮さんを、「またここか」の役を通して観るまではそれ以上知らないようにした。

わからないまま世界観に入り込めることは最高の経験だと考えた。

 

こういう話だと括ることは出来るだけしたくない。

ただ、彼の持つ特性や、そばにいようとする兄の姿が自分にとってフィクションではなかった。

介護の現実がどんなものであるか。物語に感化されること。書くこと。

“僕だって被害者です”の言葉。

森の中で倒れた木の音について語られた時、真っ先に「ディア・エヴァン・ハンセン」のフレーズを思い浮かべた。

 

浅利陽介さんの演じる、兄という者は、終始目で追いたくなる愛すべき人間味とずるさを持っていた。

タクシー運転手、ローソン、紫のポロシャツ。着る服、着る服を的確にいじられる。

役としてもお芝居としても、振り回されるのは簡単ではないと思うからこそ、ドラマなどでも見てきた親しみやすさのある雰囲気と同時に、直に受け取る台詞や佇まいや眼差しから圧倒的な安定感と存在感を目の当たりにした。

観に来てよかった。観られてよかった。

 

奥野壮さんの演じる、背も高く、端正な顔立ちに見えた彼が段々と不穏さを増して、浮世離れするかのように美しく見えたシルバーとブラウンの艶のある後ろ髪が、その背中をますます掴めないものにして怖かった。

ふえるわかめの袋をどうしても立てて置きたい様子を可愛く思わずにいるのは難しい。それも彼のこだわり行動だと気づいていくことで、気持ちは複雑さを増したものの。

はじめは静かに物腰柔らかく。徐々に純粋さと不安感がグラデーションで見えたり隠れたりするのを、奥野壮さんがスッと一本、森に立つ木のように表現していた。

舞台を観る時に、この役柄、この方のお芝居が好きだと直感すると目で追う時間が多くなるのはいつもだけど、今回は途中で、意図せず視線を持って行かれていると自覚する新鮮さだった。

 

永瀬莉子さんの役としての立ち振る舞いの緩急と、通る声にも着目した。

スクラブを着たまま連れてこられた看護師さんのふてぶてしさと、

グレーのトップス、ピンクのチュールスカートを着てシルバーの少しかかとのあるミュールを履いて来た時の目を引く華やかさ。

 

馬場ふみかさんの堂々たる佇まいは舞台の始めから揺るがなかった。

毅然とした態度、歯に衣着せぬ物言い。

それを許してしまう、成立させる役としての表現を観た。

2公演目だったなかでも、自由に演じている部分もあるとアフタートークで話されていて、ある台詞は可愛いバージョンとブチ切れバージョンがあり、今回はブチ切れバージョンだったそう。

可愛いバージョンは浅利陽介さんも気づいていたと話していて、1歩前に踏み出して近づいたもんと言っていた。

終盤のある部分で、役の上で永瀬莉子さんのところへと馬場ふみかさんがこれ見てという感じで仲良く近づいていく様子を見られたことが、私の心には救いだった。

 

 

“あの子”のシャープペンを放ったものの、拾いに行く兄。

目の前のシーンだったけれど、ほぼノールックで投げたシャープペンは大きな缶の向こうの床に落ちていて、ホイールをどかしてみて物の影を確認しながら、シャープペンを見つけた時に固まる姿は印象深かった。

確か口元に手を当ててから、ゆっくりと手に取った。

 

うずくまって悲鳴のような声で泣く彼の悲痛さに、見つめるだけの自分がひどく冷淡なのではと感じた。

ライターを吹き消してから放り投げる兄の姿。

弟に万年筆を握らせる兄の必死さに。

これでいいの?と顔を上げて、少年のように笑う弟の表情に。


わからなくて怖かったのに、幼い子供のように縋り泣き笑う彼の挙動に目が離せなくなっていく。

誰に感情移入をとか、誰の目線でという境目が曖昧になって、居合わせている実感が押し寄せてきた。

 

茫然とした弟がライトも浴びずに階段を降りて行く。

兄は小説を手に読みながら階段を上がって行く。

 

4人のこと、2人のことをしばらく考えつづけると思う。

2026年の初めのうちに、行ってみたいを実行できてよかった。

ケガのないようにとアフタートーク浅利陽介さんが言っていた。本当に。

物が物で、挙動が挙動なので。

 

公演後に10分か15分ほどあったアフタートーク

夜公演にも関わらず、劇場のタイムリミットもあるはずのなかでよくぞ企画してくださいました。ありがとうございます。と伝えたい。

4人が変わらず自然にセットの椅子に向かい合って座って話すのが新鮮で楽しかった。

しかしあの喋りっぱなしの舞台からの合間無くトークは、息切れして当然と思う。テンションで最後の力を振り絞っている浅利陽介さんがいた。

トークが長くなりそうになったタイミングで、車が通る効果音が入った。

あまりにリアルで、演者さんも驚きつつ見渡していたように見えた。

効果音と言えば、開演前にありとあらゆるスマホや電子機器の通知音が鳴る演出も面白かった。

確実にマナーモード、アラーム解除、機内モード、からの電源オフにしているのだけど、それでも自分ではないかと不安になる。

注意喚起として、必然的にチェックしてもらうことのできる誘導がユーモアを交えていて上手いと感じた。

 

公演は短いものの2月15日まで行われていて、当日券もあるそう。

公演を重ねて浸透していく役を、後半にも観に行きたかった。

お手紙を書きたいとも思った。お手紙BOXに届けることは難しそうだけど、感じたことはここに残しておきたかった。

関心が湧いた方は観に行ってほしい。

 

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【開演前の撮影可能だった舞台写真】

「ダディ・ロング・レッグズ」 - あなたはどんな顔をして、この手紙を読んでくれるだろう

 

舞台に立つ役者さんは二人だというのに、目が足りないとは。

ステージにあるのは小さな世界観。年季の入ったいくつかのトランクと、いくつもの本と、薄暗い部屋でもスズランのような形でぽっと灯るライト。

革張りの存在感ある椅子と、グリーンのランプシェードがこの部屋の主人を知らせる。

 

夢のようだった。

いつかそんなことが叶う?と雲のように漂っていた、「ダディ・ロング・レッグズ」を観たいという願いが、ついに叶う夜だった。

【舞台全体の内容に触れています。】

 

ミュージカル「ダディ・ロング・レッグズ」

2025年12月20日 日曜日 18時公演

 

翻訳・訳詞:今井麻緒子さん

脚本・演出:ジョン・ケアードさん

ジャーヴィス・ペンドルトン役:井上芳雄さん

ジルーシャ・アボット役:上白石萌音さん

 

この一公演。心に刻むと決めて訪れた日。

やっと迎えた日だから、早く観たい気持ちとこのまま直前の嬉しさのなかにいたいという気持ちを反復横跳び。

 

日生劇場には来たことがあっても、シアタークリエを目指すのは初めてだった。

B1階に劇場という独特な造り。小さくはありつつ、真っ赤な椅子が素敵な劇場だった。

列によるのか、程よい座布団が置かれていて、極力微動だにせず観るためにも視界のためにも心遣いのある座席だと感じた。傘を差すコンパクトなホルダーまであった。

お手洗いも綺麗で、ある程度の数がある。

 

スタッフさんのすみやかな案内と丁寧さは日生劇場と繋がるものを感じた。

この作品を観に来ることができると決まってから、それならばお手紙を書かない選択はないと、思いの丈を込めて書いた上白石萌音さんへのお手紙。

赤いシーリングスタンプを押して、封をした。

お手紙を入れるボックスがあると知って喜んだものの、入場して探すも焦りすぎたのか見つけられず、困って劇場スタッフのお姉さんに目線を向けていたら気づいてくださって、

「お手紙ですね。お預かりいたします。」と優しく両手で受け取っていただいた。

舞台を観る前の、お手紙を預けるやり取り。それだけで、もう感無量だった。

 

もう二度と無いと胸に刻む席に、すぐそこにはあのセットが存在している。

配信で見た時は、奥行きがV字のセットなのかなと思っていたけど、思う以上にきゅっとまとまったセットがそこにあった。

劇場自体がコンパクト。それは分かっているつもりだったものの、予想を上回っていた。

端の席で、これなら緊張やお手洗いの不安も和らぐと思いつつ、見切れることもあるだろうという考えは要らなかった。

柱やセットの都合で見切れることはなく、角度でどちらの表情を見る視点になるかという変化だけで、演出としても主演のお二人は右に左に行き来するので、十分。

むしろ、カメラの構図でステージを見ることの多い私はジルーシャ越しのジャーヴィスジャーヴィス越しのジルーシャとフォーカスを行ったり来たりしながら観られるのが嬉しかった。

 

まもなく開演。ステージセットの端に見える形で生演奏の奏者さんたちがスタンバイする場所があって、それが見えた。

ギタリストの方が、丁寧に静かにチューニングをする。何本かのギターが置かれている。「ダディ・ロング・レッグズ」の時計の針を動かす大切な音楽。

アコースティックギター、バイオリン、ピアノ。

オケピとも違う心躍る空間がそこにある。

 

座った席のそばに、扉があった。

劇場スタッフさんが閉じた両開きの扉。照明が落ち着き、静けさが増した瞬間にスワッと開いた扉。

扉を開けたのは、ジルーシャだった。

颯爽と、ラベンダー色のワンピースでドスドスと足音を立てつつ走って行く背中には、ジルーシャ・アボットとして孤児院で年下の子供たちのお世話をする役目に追われる忙しさと苛立ちと諦めを含んでいるように見えた。

 

小さな子たちの髪をといて、視察に合わせた働きに迷いがない。

右へ流れ左へ流れ、大人を見送る慣れてしまった愛想笑い。膝を曲げておしとやかにお辞儀。ゆっくりと遠く振る手。

自分より、幼い子たちをほら見てあげてというような手振り。


眩しい車のヘッドライトに目を細め、手をかざす。

くっきりと大きく壁に映し出される影。小柄なジルーシャさえ大きく見える。腕をゆっくりと振り遊ぶ仕草に、可愛げと孤児院での暮らしのある意味での恐ろしさを感じる。

完璧にやな日。水曜日。最年長としてここにいることの意味を知りながら、ジルーシャはテキパキと今日も生きている。

 

ボトルとグラスが部屋の一部として自然に置いてあり、時折そこでお水を飲んで透明な蓋をのせて、グラスをそっと置くジルーシャ。

ウイスキーを飲むことで、おそらくお茶を飲むジャーヴィス

基本、舞台に出っぱなしのなかで、ひとつひとつの仕草が役に馴染んだまま続けられる演出になっているのが素敵だった。

お酒は控えてと手紙を書くジルーシャに、美味しく飲んでますとばかりにグラスを掲げた表情も。とてもいい。

 

ぽっと灯るグリーンのランプ。

机に当たるペン先の音。閉じた万年筆のキャップの音。カランと小さく机に転がる音。

本当に、そこに、ダディの背中がある。

顔は見えない。でも確かに、あの脚の長さ、ペンを走らせる腕は、ダディだ。

 

 

第二幕。

幕間に小道具が増える。手紙も貼られる。

やはりうっすらハートにも見える。

 

二人で窓を開けた時の開放感に、はっとした。

開けた、と感じた。日差し。白いカーテン。二人の心のありようを表現しているように見えた。

それ以降、窓は開いている。


「幸せの秘密」を歌うジルーシャの後ろで、“見つけた”のあたりでハシゴを登ったまま、高く貼り付けたジルーシャからの手紙を見つめてもたれ掛かるようにじっとしたままのジャーヴィスが印象に残っている。

顔こそ見えないけれど、こんなにも手紙を愛おしく見つめる人がいるだろうか?と背中から思う。

 

手紙を真っ二つに破くタイミング。歌。音楽。全てが完璧に揃う。

手紙をめくる音もタイミングも、二人で揃う。

せっかく書いた手紙をくしゃくしゃに丸めて捨ててしまうジャーヴィスを見るたび、それを!送りなさいと何度言ったら!と、じっとしていられなくなる。

4年。手紙を書いて送りつづけたジルーシャにとって、ダディが期待を込めて進学させてくれた大学の卒業式に、とうとう来てくれなかった。

落胆がどれほどのものか。来てはいるのだと、観客だからわかる行き違いが切なかった。


床に伏せながら手紙を書いているジルーシャ。

スポットが当たるのはジャーヴィスになるシーンだけれど、ペンを手に腕を伸ばして頭も床につけてごろーんと伸びているジルーシャがとても等身大に見えて、愛くるしかった。

 


「チャリティー」で、はじめは座っていてキーが最も高くなって感情も高まるシーンで、立ち上がって歌っていたジャーヴィスである井上芳雄さん。

家に馴染めていたとは思えないジャーヴィス。会話の通じない家族といるのは、どんな孤独だっただろう。

ジルーシャからの手紙をダディとして受け取って、恥ずかしさや壁を感じたのではないか。

その後に左の窓へと歩いていくジルーシャは、そっと背中を向けて涙を拭っていた。


ジルーシャからの小切手。

本が出来上がって、売れたこと。その報告をうれしさを噛み締めながら、よくやった、やはりやってくれたというような表情で便箋を握り読むジャーヴィスの姿。

 

ジルーシャは、ダディを知ろうとすることを諦めない。
海外の感覚にある、瞳の色を知っているということにある特別さについて思う。

シンデレラも、“同じ瞳もつあなたを夢見る”と歌う。(この歌詞においては、同じ色のということではなくて、同じ物事を見つめられる目をもつという意味だと思っている。)

あなたについて知りたいと伝え続けるジルーシャに胸を打たれる。

 

来てほしいと手紙に書かれた水曜日。その笑顔。
ジルーシャからジャーヴィスへの「…続けて」が、こわいけど優しめになっていた。

3年前に徹底した気迫で「おおう…」と怯えていたジャーヴィスも、今回はがんばって謝りつつ、気持ちを強く持ってジルーシャと向き合っている様子だった。

意気消沈しているジャーヴィスの背中に語りかけ、歌う大好きなメロディーが、このシーンの前にジャーヴィスの歌の中で登場していることに気づいて感動も増した。

メロディーラインが完全に同じではなくて、それぞれの音階のアレンジが違っているところが素敵だった。

 

耳から離れることのなかった、

“目の前に ヒントはあった。そばにいたのに全然気づかなかったの いつもダディだったの”

からはじまる歌の美しさを、ついに直接聴くことができた。

手紙を読まれていたこと、打ち明けてくれなかったこと、恥ずかしさよりも前にきたのが、“失っていたのよ”という言葉だったことが、ジルーシャの思慮深さと恐れを表していて、忘れられない。

“なぜなにも 見えなかったの 驚くなんて”

そう歌うジルーシャは切実で美しかった。

 

プロポーズの典型に、ある意味で囚われているジャーヴィスの姿勢に、手を差し伸べられる側で受けるのではなく、すっと両膝をついて近づくジルーシャ。

それを見て、嬉しそうに微笑んだように見えたジャーヴィス。同じように両膝をついて、手を取り合う二人の穏やかさが心に染み込んだ。

 

最後のシーン。“ハゲ”、“じゃない…”のところ。

ジャーヴィスが今回はこちらへ顔を向ける形で苦笑いの表情をしていた。

配信の時は、落ち込んで頭を下げていたので、3年前は反省と謝る気持ちが見えるシーンだったところが、今回は対等に手を取り合い笑い合うシーンの印象へと変わった。

圧倒的劣勢のジャーヴィスも好きなので、どちらの表現もいい。

 

二人のハグが、とても好きだ。

Loveでもあるのだけど、同士を励まし合うときのようなガシッと受け止め合うハグであるところが好き。

振り返ると、ジルーシャからの手紙で同志と書かれていたときに嬉しそうだったジャーヴィスを思い出す。二人はきっと、お互いにとってベストな同志でいられる。

 

終わらないでと思っても、やってくる物語の終わり。

でも見届けられたうれしさが上回った。うれし泣きで拍手を贈った。

拍手が手拍子になる楽しさを体感しながら、最後は迷いなく立ち上がって心のありったけを込めた。


2、3度目?のカーテンコールで、井上芳雄さんが「ありがとうございました」と声を聞かせてくださって、お辞儀している時から萌音ちゃんが笑顔でちょいちょいと手を握ろうの合図をしていたのが可愛かった。

手を引いてジルーシャエスコートで退場。二人でぴょこんと両手を振る様子に劇場全体が笑顔になる。

井上芳雄さんを初めて舞台に観るのが「ダディ・ロング・レッグズ」なのは、とてつもなく贅沢な最初なのではと実感した。

「マイ・マンハッタン」の伸びやかな歌声、ジルーシャの言葉を読む乙女な語尾、ムキになった語気までも。

腕立てを見せつけようとする動きからの、反りすぎでは?!という独特のストレッチや、長ーーーい脚を机にかけて裾のインアウトをする動き。

目の前にするジャーヴィスは、まさにダディロングレッグズで、ジャーヴィー坊っちゃんで、こんなにチャーミングなのかと魅了された。


夢中で観ながら、ジルーシャと目が時折合うような感覚は、実際にはどうであっても貴重な劇場体験だった。

それが生まれるのは上白石萌音さんが、二人だけの世界のお芝居にせずに、本の登場人物が読者に語りかけるみたいに、客席に語りかけるような空気を漂わせてくれていたからだと思った。

ジルーシャを見つめ続けていると、自己投影しているような感覚になることもあれば、同級生に、ジャーヴィスに。

ジルーシャがふっと振り向けば目が合う気持ちの距離感で、二人のいる場所に私も居るみたいだった。

 

そして大切な楽器の音色。

劇伴の音楽だけではない、心の機微までメロディーが映して、止め跳ねも表現するかのような、ギターにバイオリンにピアノの音色がずっと心地良かった。

役者さんとぴたっと息を合わせて、二人の暮らす世界が動きだすのを音楽からも感じた。

開演を待ち遠しく思いながら、いくつものギターが並ぶステージ横に注目せずにいられなくて、チューニングを静かに丁寧に行う様子や、幕間が開けて再び鳴るギターの音は印象的に響いた。

カーテンコールも終わった最後、素晴らしかった演奏に両手を振って拍手のジェスチャーで伝えられたこと、嬉しかった。

 

ついに二人の手紙と会話を、目の前に観た。

何もかもが愛おしかった。ジルーシャがペンを走らせる姿も、困惑しながら面白がりながら手紙を読むジャーヴィスも愛おしくて仕方なかった。

言葉を紡ぐことはわくわくすると、その感覚は風変わりではなく魅力あることだと知らせてくれる。

手紙が伝え繋ぐものがあると信じさせてくれる。

会って話すなら、心ざわついたり跳ねたりしながら、目の前のあなたの瞳を見ながら伝えて受け取ることができる。

 

3年待てたことをうれしく思う。

井上芳雄さん。坂本真綾さん。上白石萌音さん。

常に備えつづけて、ジャーヴィスを演じた佐野眞介さん。

アンダースタディとして担う、働き、体力、精神。いつ呼ばれるかわからないなかで、ベストを磨きつづける努力の深さ。

アンダースタディもスウィングも、演劇に必要な役で、それを実際に日々行っていることを近く知った今、どの稽古場においても大切にされる存在でいてほしいと強く思った。

Wキャストのそれぞれの組み合わせを見たいとは思っても、贅沢は言えない。今回のチケットを持ったことさえ貴重なので、これ以上に望むことはない。

 

私はやっぱり文章というものが好きだ。

ブログに載せられる頻度は減って、書くことをジルーシャのように形にしていくと突き進める勢いが変わらずあるとは言いにくいとしても。

それでも、書くとなったときに本気になるのも、寝食さえ惜しくなるのも変わらない。

ジルーシャがあんなに書くことを愛していて、それを読むことをジャーヴィスが楽しんでいるのを見たら、言葉そのものへの希望を握りしめたくなる。

 

手紙を書くとき、相手のことを心いっぱいに広げるけれど、どんな顔をして読んでくれているかを見ることはない。

返事を受け取っても、読んだ瞬間の感情は見えないからこそ、「ダディ・ロング・レッグズ」では二人の文通を聞くだけでなくて、こんなにも感情豊かに読んでいる様子を見せてもらえる舞台演出が素敵なものとして届く。

 

彼女がずっと書きたかった宛名。

『ジルーシャより ジャーヴィスへ』

すべてを覆い許せるほどの愛おしい名前。

二人がその温かさを届けてくれた。

 

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