どんな作品?と聞かれたら、間違える主人公の話だと伝えると思う。
主人公になりたがらない彼を、主人公にするのはどれだけ難しいことだろう。
私が劇作家なら、逃げ回る彼を前に、ペンで追うのを諦めてしまうかもしれない。
陽の目を見たいなどと思わない彼の話だからこそ、彼の話が聞きたい。彼を物語の中心へと連れてきたことに驚いて、目が離せなくなった。
目立つことをとてつもなく恐れて、
でも見つからないままでいることも恐れている。
「Dear Even Hansen」(ディアエヴァンハンセン)
ようやく日本公演初演となったミュージカルを観に行ってきた。
制作決定、キャスト発表と追ってはいたけれど、観に行けるとまでは思っていなかった。
1公演、手にしたチケット。その1度を心に刻むと決意して、EXシアター有明へとやって来た。
「Dear Even Hansen」(ディア・エヴァン・ハンセン)
EXシアター有明
2026年8月8日 12時開演
エヴァン:柿澤勇人さん
ハイディ・ハンセン:堀内敬子さん
ゾーイ・マーフィー:松岡茉優さん
コナー・マーフィー:立石俊樹さん
シンシア・マーフィー:瀬奈じゅんさん
ラリー・マーフィー:石井一孝さん
ジャレッド:上口耕平さん
アラナ:宮澤佐江さん
ダンサー:十川大希さん、尾関晃輔さん、福島玖宇也さん、渡邊南さん、藤田実里さん
【この先、日本版公演と映画版の内容に触れているため、ご了承ください】

観劇翌日の朝6時。興奮冷めやらぬ頭でベッドに座って、久しぶりにノートパソコンを充電しながらこの文を打っている。
長くなりそうだからキーボードを選んでいるだけでは勿論ない。完全に影響を受けて、エヴァンの行動をトレースしてみたかった。
真っ暗な中から照明が当たって、ぽっとそこに表れるエヴァン。ベッドの上に座っている。
あぐらをかいて、ノートパソコンを膝の上に置いて。爪を噛んだり。
思考に口が追いつかないスピードで、自己弁護が止まらない。それでも自分宛の手紙という課題に向き合って、キーボードに指を置く。
“Dear Even Hansen,
今日はいい日になる、理由はこうだ。”
エヴァンは自分へ宛てて、そう手紙を打つ。
自分へ宛てる手紙は、私にとって感覚の遠いものではなかった。
整理したい頭の中。言いたかったけど言えなかったこと。書き残したい嬉しいこと、どれもをここ【宛名のないファンレター】に書き始める前は、ノートに手書きでひたすら書き残してきた。
ノートに書いていたそれは、もっぱら自分宛てだったと思う。
ノートが山のようになってきた頃、誰かにもしかしたら読んでもらえるのではと希望を持てる、ブログに書いて載せてみるのもいいかもしれないと、宛名のないファンレターを書き始めた。
映画「ディア・エヴァン・ハンセン」を知って、短い上映期間でも観に行きたいと映画予告に心動いても、身体を動かすわけにいかなかった2019年。
Blu-rayの発売が2022年4月8日。
映画で好きになるほどに、舞台でこの作品がどう誕生して、どう表現されているのかを観たくなった。
いつか日本で。日本語版となった歌詞、台詞。キャストで観られる日を待ちわびてきた。
“今日はいい日になる”どころではなかった。
私にとって、最高の一日になった。
舞台で表現されていたこと、映画で表現されたこと。それぞれの意味を考えながら、柿澤勇人さんの演じるエヴァンを前に、ようやく会えた。と思った。
ダブルキャストの今回。
チケットが当たるかどうかさえ高難度なのに、組み合わせの多様さにくらくらした。
主演、エヴァン・ハンセンは柿澤勇人さん、吉沢亮さん。
観られるのなら、どちらも観たい。全ての組み合わせで観たい。でもそうもいかないから。
キャスト発表の驚きのなかで、松岡茉優さんのお名前を見た時。その世界に入ると決めた心を思った。勝手ながら思ったからこそ、私は観に行きたいと考えてもいいのだろうかと葛藤した。
でも舞台に立つと決めた松岡茉優さんを、ミュージカルにもゾーイという役にも向き合う姿を見ないでいることは選びたくなかった。
どんなお仕事に対しても誠心誠意過ぎるほどに向き合う印象だから、作品に役にどうか飲み込まれず、健やかにその世界を歩ききってほしいと願わずにいられなかった。

松岡茉優さんの演じるゾーイを観られたこと、記憶の大切な宝箱に入れる。
ツンケンしたところも、揺らぎ崩れそうな心も、可愛い笑顔も。
「Requiem」で消え入りそうな始まりから、3人の声が重なるときに柱のように芯を通し突き抜ける歌声がダイレクトに胸にきて、全身を覆ったことも鮮明に覚えておく。
映画やドラマで、画面越しであることなど関係なく揺さぶられ続けてきた演じる姿が、実際に同じ空間で観せられている衝撃。
「問題のあるレストラン」のパーカーちゃん。「初恋の悪魔」の星砂さん。もちろんそれだけではない、私の見る先にはいつも松岡茉優さんの演じる役があった。
柿澤勇人さんの演じるエヴァンを目の前に、“生きている”と思った。
エヴァンがここに。私はそれを目の当たりにしている。
SNSが巻き起こす渦を表現している「ディア・エヴァン・ハンセン」
映画で映像として先に見たからこそ、これを一体、舞台でどうやって?と思っていた。
ブロードウェイでのオリジナル版、韓国版など、各国での公演があり、日本版がどう違うかまで見比べることは出来ていないけれど、
デジタルの世界を、モニターやプロジェクションマッピングを駆使して表現することに振り切るのかと想像していたら、囲うように回る窓。円形の床。
特殊なモニター配置で表す演出にも見入るなかで、囲うように回る窓は、ダンサーさんが踊るように静かに動かしていて、人力でもあるところに演出のバランスを感じた。
無機質ではない、舞台の温度を感じる演出だった。
登場人物たちのそばで影のように着いて歩く存在があることに気づいてから、背丈も身なりもそっくりなそれぞれの2つが、本人と内面を表していると注意深く見つめた。
ダンサーさんがコンテンポラリーにも見える動きも含めて、心情を観せる。学校内で、ゾーイの後ろを嬉々として着いて歩くアラナと影が可愛らしかった。
本人と影とが揃っている時、ああ今は本心のままに動いているのだなと認識することができた。
常に張り切っていて、背筋をピンと伸ばして、きっちりしているアラナ。
台詞で説明や設定をつけずに、見る側の感性に委ねる舞台もいいと思ったし、映画で話されるアラナの背景にもそれはそれでシンパシーがあった。
影もしっかりと同じ形を保っていて、アラナの影はリュックもお団子頭も、ノートを抱えて弾む姿勢の良い足取りもぴったり合っていた。
影とじゃれるジャレッドもいた。とてもジャレッドらしさを感じた。
カーテンコールの時にも、2人で手でわちゃわちゃしていた。
ポーンと光が舞台の周囲を走って縁取る映像演出や、通話中の画面、波長、オンラインの文字とグリーンのランプ。どれも細かく、そしてリアル。
テレビ電話用のカメラが降りてくる仕組みにも驚いた。舞台袖で映り、お芝居をしてるのかと思いきや、エヴァンはアラナとの通話の時には舞台上の窓の向こうにいて、実際にその場で話していた。
カメラは客席側を向いてエヴァンを映していて、窓が動くと同時に吊り下げられたカメラは上がっていく。
舞台装置ひとつひとつが繊細に動いていた。
「Waving Through a Window」
英語詞で聴き続けてきた。日本詞として耳に響く時、どんな感覚になるのだろうと思っていた。
静かに語り、切実さを帯び、窓越しの願いと叫びが最高潮に達する熱量。
それは日本語になっても実感できた。
特に、“tap tap”と歌われていた部分を、日本語歌詞のなかで唯一と言える貴重さで『タップ タップ』と音感をそのままにしてくれたこと。
これは大きな感動だった。窓に手が触れる、力の無さがその音に表れていると思っていてそれが好きだった。
ノックでもなく、呼びかけるにも弱々しい手の力で鳴らす音。
私は窓のことばかり考えていたけれど、『タップ』にダブルミーニングがあるとパンフレットから理解して、そのままに表現された重要さを一層感じた。
“I'm Waving”のしゃくりのある音の上げ方が、英語版のベン・プラットさんの声で聴き入った部分で、
日本語になって、“窓を”の部分がその旋律にきていた。
柿澤さんが歌った“窓を”は、ベースに忠実に音が下がってから下から上へとしゃくる節回しになって聴こえて感動した。
真っ直ぐ前に“窓を”と歌っても音は当たりそうなものの、細部において丁寧だった。
その細やかなスタートから、最後のナンバーまで、耳が馴染んでしまったベン・プラットさんのエヴァンとしての歌唱に丁寧に寄り添った歌い方だったように感じて、
日本語での譜面割りや、途切れる音があるなかで、きっと稽古で練習し肉づけしたご本人の歌い方がありつつ、出典はオリジナルキャストというようなリスペクトが伝わる表現だった。
エヴァンの象徴的なブルーのポロシャツも、視覚的に印象に残る。
舞台版では、心の底に沈む気持ちを表すかのようなブルーのグラデーションのポロシャツや、ボーダーの服を着る。
映画内でもボーダーの服をよく着ているエヴァン。
もしかして、ボーダーラインを常に意識して、人と距離を保って生活する彼の内心を表している?と思ってからは、彼にとってお気に入りの安心する服でもあり、心情でもあるのかもしれないと見つめた。
だからこそ、彼がボーダーを着るのをやめた時、明らかな変化があったと感じられた。
コナーに取り上げられてしまった手紙。
「返して!!」と叫ぶエヴァンの声、必死で伸ばす腕が悲痛で忘れられない。
気が進まなかった、自分と向き合う素直な気持ちを書いたのに、一番知られたくない人に知られてしまった。ゾーイの兄で、あのコナーに。
立石俊樹さんの演じるコナーを見た時、エヴァンの視点で見上げる気分でいるからか、体格大きい…こわ…と思った。
圧倒的で、不機嫌そうに近づかれると、後退りさえためらってロッカー前で身を縮めるしかないと最初は思う。
だけど、エヴァンの理想だったとしても、こんな空想での振り回し方していいのかな…と躊躇しつつ「Sincerely, Me」でのコミカルな姿は目を離せないし、ダンスの躍動感にワクワクした。
どこか凛として、威圧して人を遠ざけるけど見捨てられることを恐れていて。
エヴァンに微かでもシンパシーを持ったかもしれない、その空気を感じたからこそ、コナーが手紙を捨てなかった理由がはじめて少しわかる気がした。
表面の彼だけを見たら、その場で破り捨てそうなのに。
善意の連鎖のように拡散されていくSNS。
大団円、カタルシスになるはずのシーンが、それ一色ではないのだから思いは複雑になる。
映画の時から、あのシーンが怖かった。
“ひとりじゃない”と歌も団結して手と手を取り合っているように見えるのに、得体の知れない渦になった感情が、中心にいたはずの本人にも手の付けられない生き物になっていくようで、希望には見えなかった。
日本でエヴァンに触れた私は、コロナ禍でこのストーリーを見たけれど、ブロードウェイ初演は2016年で、コロナ禍でさらにSNSが勢いづいてZoomなどのリモートが当たり前になる前に完成されていた作品だということに改めて驚く。
失敗した、間違えたと相手に思わせることを恐れて、だから“鍵を回す前に、ブレーキの踏み方を覚えた”エヴァン。
醜態を晒すくらいなら、何もせず何にも接さずにいようと決めた日に、エヴァンはコナーと出会ってしまう。
エヴァンが言葉を発するのには、待ってくれる相手が必要。
なのに、校長室に呼ばれたあの時からずっと、周囲はエヴァンの言葉を待たない。
期待や憶測、そうだろうという決めつけで、喉まで出かかっている彼の言葉を飲み込ませてしまう。
私にはそれが、言わなかったことだとは思えない。
もちろん、重要なタイミングは何度もやってくるのだけど、エヴァンにとっての弱さや希望がそこで自らの口を閉じさせてしまう。
だからエヴァンがしたことも正しくはないと思う。
エヴァンの抱える不安や怯えや孤独を、舞台、映画、それぞれのベストな形で表現していたこともわかって、感動している。
オープニング曲が違うことで、映画では学校という大きなコミュニティーにただひとりというコントラストが生まれる。
舞台で際立つのは、やはりスピーチのシーン。
震える手でネクタイを締めるエヴァン。ネクタイを結んだ瞬間、あのエヴァンだと息を飲む。
実態に真っ直ぐなネクタイを手渡されて、エヴァンとしてネクタイを結ぶあの時間がどれだけ緊張するかを思う。
そのバランスでは前がやたら長くならないかななんて見守る気持ちで、やっぱりいくらか長いままのネクタイは余裕などゼロなことの表れだとわかる。
映画で段階を追って、日を跨いでいる感覚で見るスピーチと違って、繋ぎ目なくスピーチの瞬間がやってくるところが、心の準備さえままならず前に出されたエヴァンの心情をよりリアルに見せていると感じた。
映画では、学校の舞台上からどんな景色を見ているかが映る。
コナーのご家族、ゾーイも。アラナもいて、どんなもんかと見物に来たような仲良くもない同級生たちもいる。
舞台になると途端に、ここがその会場になる。椅子も空間も照明も、劇場だったものが学校のホールへと変わる。
私たちが、エヴァンを見に来たひとりひとりに。観劇しに来た自分たちの場所ごと場面転換をされるのは初めての感覚で、これが「ディア・エヴァン・ハンセン」の醍醐味なのかと体感した。
注目して見ていた視線が、エヴァンにのしかかる。
観る回やお客さんによって、エヴァンのスピーチへのリアクションも変わると読んだ。
笑いが起きることもあれば、静寂もある。それによって、エヴァンが追い込まれていく状況理由が変わるというのもすごい。
客席の空気をその場で受け止める役者さんのエヴァンとしての反応の真骨頂だと思う。
今回は、固唾を飲む空気感のように感じた。見守りたいから注目になる。少なくとも私がそうだった。
でもそれがエヴァンの目には恐ろしく映る。反応が無く、沈黙とただ広がる暗闇に追いやられているような重々しさに崩れた姿が苦しかった。
追い詰めたくなどないのに、この眼差しがエヴァンを追い詰めている。
【後編へ】
日本版「ディア・エヴァン・ハンセン」 - 間違える主人公に、私たちは何を思うのか【後編】 - 宛名のないファンレター