恋ではなかった何か

 

何もかもにやる気を無くしていた毎日に、突然の出会いがあるだとかそんなのは、起きたらおもしろいなと思うけど、そうそう起こらない。

起こらないはずだった。

 

前髪うっとおしいなと思ったままで仕事に行っては、うっとおしいまま働いていた。

だから何となく視界の向こう側にいる人が、こっちに目線を向けている気がしても、知らない振りができた。

そもそも人の目を見ずに生活することを追求する私が、視線を感じて目を合わせるなんてことを出来るはずがない。

見られたら見られるほど、絶対にそっちを向かない。謎の戦いがしばらくつづいた。

 

見られてる気がするけど、多分気のせいだから。

そう思って忘れかけた頃。

いい加減に前髪が邪魔になって、ヘアピンでおでこデーンと出して、横に広がりすぎた髪も両サイド三つ編みにしてヘアピンで留めて、カチューシャ編み込みのような状態で出勤した日。

おでこを出している時点で、諦めのモード。着飾る気がない。

 

なのに声をかけられたのはその日だった。

たまたまその人の前を通り過ぎようとした時。「髪、切ったんですか?」

急な声かけに戸惑いすぎて、切ってもないのに「あ、はい」と答えた。

誰…??がひたすら頭の中を駆け巡る間に、真っ直ぐこっちを見ているその人は「いいですね」「可愛いですよ」とためらいなくつづけた。

何を言われているかがわからない。

え待って、髪切ってないね?私。似合ってますって言われたけど。すーごいさらっと可愛いですって言われたけど。

 

「ありがとうございます…」とおずおず答えた言葉に笑顔だけ見せて、その人は立ち去って行った。

何?今の何?なんかこう…大昔に一時期流行った、学生内の悪質ドッキリみたいな、嘘告白みたいなそういうやつを同僚内でしてたりするわけ?

ひたすら戸惑いと、衝撃とで、仕事中にまで思い出してはフリーズした。

まあでも、終わったし。大丈夫でしょう。

そう思うことにした。

 

 

次に話しかけられるのに時間は開かなかった。

「いくつですか?」と聞かれて、正直答えたくなかった。年下のような気しかしなかったから。

「多分思ってる以上に上です、私」と答えると、それでも聞いてくる。折れて答えたら、同い年だった。

生まれ年と月まで同じ。さすがにそこはあまり信用できないと思ったけど、「ため口にしましょう?」「いや敬語が普通なんで無理です」「ため口に」で、一気に同級生の距離になった。

同級生という括りの親しみは、不思議なほど強い引力で、学生でなくなってからの方が、同じ年代を過ごしてきたことへの安心感みたいなものがすごかった。

 

 

それから何回か、「おはよ」「おはよう」の挨拶は決まりみたいになった。

この時点でも、私はろくに目を合わせていない。

彼が勤めているのは社員食堂で、レジにいる限りはそんなに話すこともないからと、私の休憩の一瞬だけ一言二言の会話。

 

それがグッと変わったのは、人がいない時間帯に社員食堂で休憩をしようとした時のこと。

いつも通りにレジを過ぎようとすると、「待って、ここ。」「番号教えて」とレジ元に置いた紙を指さされた。

なんで書いたんだろう。ちょろすぎだなと自分で思う。

すぐにLINEのIDが届いて、「連絡して」と一言。

 

送らなかった。しばらくは。

出会いか?と思わなかった訳ではないけど、ふとした拍子に出る言葉選びや発言そのものが攻撃的で、明らかに価値観が合わないと思ったからだった。

それでも、仕事場に知った顔の人がいるという安心感はあった。

 

「このあと空いてる?」

「なんで」

「お茶行こうよ」

 

都会のナンパかと言いたくもなる言葉も、ここまでさらっと出てくるとすごいなと思う。

「ご飯行こう」を断っても、タイミングを計ったみたいに休憩時間を合わせてくる彼との一言二言のやり取りは続いた。

 

ある日、彼の方の職場にヘルプで何人かのスタッフさんがやって来た。

女の子とレジに並んで仕事を教えている様子に、なんかこうざわついた。ざらついたという言い方のほうが合うかもしれない。

彼は勤務時間が長い日で、こちらの仕事が先に終わる日だった。素直になっておこうと、彼がいつも飲むお茶を買って差し入れとして渡しに行くと、隣にはまだ女の子がいる。

うわどうしよう無理だどうしよう。帰ろかな。ぐるぐるぐるぐる行こうとしては引き返してを繰り返した。

彼が気づく方が先だった。

「おつかれー」嬉しそうに手を伸ばして振ってくる。「おつかれ」平然を装う。

 

「これ、差し入れ」「えなんで?ありがとう」

「バイバイ」

「気をつけて帰ってね」

 

LINEを教えていなかったから、Cメールでお礼のメッセージがきた。

正直、うれしかった。

 

彼からすれば、訳の分からないやつだったと思う。

お茶もご飯も断る。職場での会話のみ成立する。

徹底的なブレーキで踏み留まっていた。近づけば、危ういのは明らかだった。先入観とかではなく、恋にするものではないなと始めからはっきりしていた。

有る関係性とすれば、同級生。同僚。共鳴する部分だけを見れば、同志。

 

 

どうとも言えない距離を取りつつ、元気をもらっていたのも嘘ではなかった。

一方だけに好意があるとしたら、グロテスクな搾取だなと自覚していても。

でもやっぱりはっきりしないのはしんどくて、職場以外で話しをする時間は必要だと、唯一、仕事終わりに待ち合わせた日のこと。

 

心臓が痛くなりそうなほどの緊張だった。

私服に着替えて出て行くと、彼は外で待っていた。

「はい」と手渡されたお茶。前に私が差し入れたお茶と同じだった。

 

カフェに入る?と聞かれたけど、それでは無理だと、なんてことのない道端で話をした。

私ものらりくらりだったけど、彼も核心を持って向き合っていないのは同じだった。

「お茶とかご飯に誘うのはどうして」と聞いた。まあこの聞き方もデリカシーが無いんだろうなと自覚しながら。わざと聞いた。

「そういうつもりじゃない」と答えられた。

「じゃあお茶もご飯もなくていいよね」

 

帰り道、途中まで…と言われたけど、私あっちに用事あるからと分かるにきまってる嘘をついた。

「バイバイ」

手を振って離れた。

 

 

それからも職場は同じなのだから、顔は合わせる。

キッツイなと思ったけど、傷つくとしたら向こうだ。

それでも、裏付けのない好意があったかもしれないものを、終わりにするのはそれもしんどかった。

 

数日経って、挨拶くらいはする程度に落ち着いた。

数ヶ月経ったある日、スーツ姿の彼がやって来て、「辞めるかもしれないんだ」と言った。

「そっか」と答えるしかなかった。

いつもは意地悪みたいに「バイバイ」と言う私に「またね」と返す彼が、「バイバイ」と言って去って行った。

 

 

12ヶ月未満の出来事だった。

声をかけてくる時は「忙しい?」からで、アイスクリームの買い出しから戻った彼がピッと腕に霜を付けて行ったり、急な至近距離での「おはよう」に驚かされたり、

バックヤードで出くわすこともあるから気が抜けなくて、会うたび「びっくりした」と私が言っていた。

 

いいように思い出を持っているだけかもしれない。

いつまでも持っているつもりもない。

恋ではなかった何かだけど、あってくれたから、毎日を私は過ごせていたのだと思う。

SMAP「君と僕の6ヶ月」を聴いて、どんな感覚だろうなと思っていた私に起きた、少し近い、でも遠い、彼と私の物語だった。