映画「ストーリー・オブ・マイライフ」ジョーとローリーのことを考える。

 

まだ若草物語を読めていない。読みたい。

その状態で映画「ストーリー・オブ・マイライフ 私の若草物語」を観て、そうして今考える感想なので、的外れな点もあるかもしれないけれど、「ストーリー・オブ・マイライフ」からの世界線の視点として、

今私は、ジョーとローリーの話がしたい。

 

【映画本編の結末に関わる話になるので、まだ観ていない方は、観た後をおすすめします。】

 

 

どうしてなんだローリー。

ふとした時に思い起こしては、考え込んだりする。

幼く、奔放で、だけど物事をよく見ていて。ジョーへ言葉にして伝えた思いは切実で真実なはずだった。

その告白さえもどこか幼くて、それでも剥き出しの心をジョーには晒したローリー。

ローリーが呟いた言葉は、いじけながらも本心だったのだろうと思う。

 

てっきりジョーは長女だと思って観ていた。

長女はメグ。三女がベス。四女がエイミー。

ジョーは次女。それでも立ち振る舞いや背負うものは、長女や父親のように見えた。

 

確かに、ジョーとローリーは最高の同志になれていた。

それはバランスが保たれていてこその関係性なのだと、ジョーは思い込んでいるように感じた。ローリーは、そんなことはないと、変わらないものはあると、きっと思っていた。

しかし、ジョーがとても冷静に分析したように、和むはずの会話があんなにも感情的になってしまうなら、その先に安らぎは無かったのかもしれない。

あれほど気を張って、家族を保ちつづけ、時に母を労っていたジョーが、そんなにすぐに一度叩かれたドアを開けるとは思えない。

だからこそ、これ以上ないほどの拒絶を示したジョーだけれど、諦めておかしくないやり取りだったのだけど。

ローリーの言葉が本心だったのなら待ってもよかったのにと思ってしまう。

恋人にも、夫婦にもなれないのなら、家族としてそばにと考えたのかは分からない。

 

私はどうにもこうにもエイミーが苦手だった。

お出掛けについて行けない腹いせに、一番嫌なことをしてやろうと、ジョーが大切に手書きで綴った物語を燃やした時点で、許すことは不可だと思うほど、苦手だった。

自己主張が上手くて、私!が言える。嫌なことは嫌だし、愛されることも許されることも分かっている。

憧れにも近い感情なのだろうなと思いつつ、それでも理解しがたい行動は多かった。

 

気分転換にジョーがめずらしく自分の衝動を優先して、ローリーとスケートに行った時。

あの感じがもう、居た堪れない。

二人がいたから助けられた。それは大事なことなのだけど、「ごめんなさい」と謝って、同時にエイミーを許すことが当然の流れになったあのやるせなさはなんと言葉にしたらいいだろう。

 

 

年月を重ねたそれぞれのなかで、エイミーはローリーに意図的に近づくこともなく、あるいは避けるように距離を保っていたのだと思う。

ローリーが伝えようとした言葉を遮って、“嫌”と、泣かないように眼差しを強くしたエイミーを見て、エイミーがどんな思いで二人を見つめてきていたか。心に迫ってきた。

 

しかしここで言いたい。

ローリー。ねえローリー。“君しか愛せない”はどこへ行ったんだいローリー。

“他の誰かと幸せになるジョーを僕はただ見ているんだ”とまで言った君の言葉は。その心は。

 

全く別のお嬢さんとなら、時が変える心もありますねと思ったかもしれないけれど、それはきついよローリー。

エイミーとローリーが帰って来て、知らせを聞いて、どうにか耐え忍んだ微笑みでエイミーを抱きしめて。

意味が生まれてしまうから、今泣くわけにはいかないと堪えた瞳で、母だけが気づき見つめた眼差しが。アイコンタクトと、無言の頷きだけで締め括ったその思いが。

 

あれほど結託している家族。

結婚式の後も、事あるごとに集まり合って、テーブルを囲むのだろうと想像する。

20年、30年と経った時、理想としていた親友に辿り着く可能性が無いとは言えないけれど、その間のジョーの苦しみを思うと、ありったけの力でハグしたくなる。

 

「ストーリー・オブ・マイライフ」として観た時に、ジョーとローリーは魅力あるストーリーラインの1つ。

ジョーが物書きとして書くことを続けて、交渉をして、1冊の本へと辿り着くことに心底惹かれて、私はこの映画が大好きになった。

ただ今回は、ああもうなんで…!!とならずにいられなかったジョーとローリーについて。

ローリーはきっとしあわせに過ごす。ジョーとエイミーが、どうか互いの距離を守りつつ安らぐ心待ちでいられるようにと、思いを馳せたくなる。