カルチャーが引き合わせた二人「花束みたいな恋をした」

 

麦と絹の二人が歩いた恋の話で、カルチャーのある“日々”の話でもあった。

楽しみにしているライブ、音楽、舞台…いろんなものに気持ちが震えて心動かされて、それを全力で楽しんでいる二人の、着飾らない等身大の恋だった。

 

有村架純さん演じる、八谷 絹。

菅田将暉さん演じる、山音 麦。

 

*本編内容に触れるので、観賞後をおすすめします。

 

小説を読んでいる感覚になる映画だった。

静かにするするとページを読み進めるような。

心地良い二人の声がモノローグとして聞こえる。だけど、二人の心情をどちらも知っているのは観ているこちら側だけ。

麦には絹の、絹には麦の本心は聞こえていない。

コミュニケーションとはそういうもので、頭で思っていることは別に伝わりはしないんだと、当然の事のはずなのにハッとする。

 

麦は、青の服を着ている姿が印象に残る。

絹は、赤のロングダッフルコートから青のショートダッフルコートへ。そしてイエローのマフラー。

意図せずお揃いなのは、オールホワイトのスニーカー。

服装やインテリアに散りばめられた、様々な“青”が印象的だった。

そして同じ部屋にいても、絹が温かい明かりの空間にいる反面、麦はコンクリート打ちっぱなしの壁のような灰色の空間にいたりする。

それが、それぞれの心の中の灯りを表しているようで。

 

映画館で観る良さと同時に、DVDとBlu-rayになったら、暮らしの中で流していたい映画だと思った。

 

 

今話しかけないで、上書きしないで

あるシーンで、絹がそう心で唱えながら部屋にこもる。

それがわかるなあ…と心にしっくりきた。

誰かの問いかけに、ちょっと口を開くだけでもそこから溢れていくような、“もったいない”と感じる気持ち。色を変えてしまいたくない。このままもうしばらく、空気に浸っていたい。

 

“電車に乗っていたら”という事を
彼は、“電車に揺られていたら”と、表現した。

絹が心でそっと思う好きの細かさに、そういうちょっとしたところが大切なこと、あるなあと思った。

台詞もモノローグも、すーっと入ってくるのに、記憶にはずっと留まる不思議な感じがする。

 

焼きおにぎりを、もう一つもらってもいいですか?と絹ちゃんが聞いたのを一度では聞き取れずか聞き取らずか、
「えっなんて言いました?」と、ちょこっと笑いながら聞き返す麦くんが好きだなと思った。

 

 

エンターテイメントやカルチャーに好奇心旺盛で、様々な作家さんや映画や音楽に関心を向ける二人。

挙げられる作品名や曲は、ピンとくる路線でなかった。

なのに、この感覚わかる。そう思える嬉しさがあった。ジャンルは多岐に渡る。自分の拠点とする場所がどこであるにしても、公式からの発表に歓喜し、出向いて、また共感し合うエネルギーの生まれ方は同じなんだと思った。

だからこそカルチャーは広いんだなあと実感して、好みが一緒、ということのシンパシー。胸の高鳴りが特別であることを感じられた。

 

その高揚感がわかるから、時が経って環境が変わった麦が、好きだったはずなのに、楽しむ余裕がない、頭に入ってこないんだと話すシーンに切なくなった。

リフレッシュをしたい時ほど、好きなものを取り入れられない歯痒さ。

 

 

若い二人の時期が描かれる会話のなかで、絹の言った「それね」が嬉しかった。

それな、じゃなくて、「それね」

 

この映画を見ていると、イヤホンが欲しくなる。Bluetoothだけど、イヤホン同士は繋がっていて、首後ろに回すタイプのやつ。

コードレスを見るたび、無くすか落とす予感しかしないと、コードありのイヤホンを愛用し続けている自分にとっても、あのプレゼントは素晴らしい。

あるシーンでLとRに分かれて麦と絹の声が聞こえる演出の遊び心が、映画館で観ていてそわっと嬉しかった。

 

ノローグが大切になる分、二人の声が丁寧に耳へと届く映画だとも思った。

菅田将暉さんが発する、麦としての声。有村架純さんが発する、絹としての声。映画館で聞くと、声帯が震える音がする。

 

声の大切さは、初めのシーンからも十分に感じられた。

あの話をするのが、あの声じゃなかったら。柔らかみは無く、可愛い可笑しみも失われて、もっと理屈っぽく聞こえていたかもしれない。

声がダイレクトに心に入り込むことで、二人分の心情が入れ替わり立ち替わり、日々のカレンダーをめくっていって、気づくと5年の月日が経っている。

 

カップルを描くこととして、おーおーそこまで描く?かなり一貫して踏み込みますね?と思ったところもある。

これまでの作品でも、プラトニックに徹底しているわけではなく、そう描くことを普通にしてきた坂元裕二さんであったけれど、多分ドラマではここまでストレートに出来ない。映画でこそ出来たことの一つなのだろうと感じた。

 

ワンシーンしか出ないなんてと驚くような演者さんたちが、私には好きのダイレクトアタックで、

不思議と惹きつけられる森有作さん。「セミオトコ」で無言の珈琲店マスターだった池田良さん。「なつぞら」「この恋あたためますか」にも出演していて、目で追いたくなる田村健太郎さん。

うわー!となったのは岡部たかしさん。坂元裕二さんの作品に出てくる岡部たかしさんの素晴らしさはここでは語りきれない。

 

 

結婚式参列には、特有の高揚感がある。

そんな時間の中にいながら、目の前に“その先”を見つめながら、決めた二人の心模様の繊細さ。

この二人、一緒に帰れるはずなのに、もう帰れない。

観ていて頭がそう理解した時、悲しみだけとも違う思いが、わっと底から湧き上がってきた。

 

いま出会ったら、早すぎて必ず終わりが来るんだな。

学生時代に私はそんなことを考えていた。

ドキドキして、お互いに同じ気持ちで、楽しくて。だけどそこからどこまでつづく?

どう足掻いても、タイミングと時間には抗えない。それが当時行き着いた私の中での結論だった。結婚につづく道を選ぶには、誰とではなくいつ出会うか次第な気がして。

でもそんなふうに考えていると、タイミングが合うかどうかなら、この人だから、ではなくなってしまうのではと、堂々巡りになった。

 

二人を見ていても、そのことについての答えは出ない。

麦と絹でつくった記憶は、無いより有ることできっと心を満たしてくれる瞬間がある。大切にしまえる思い出があることは、なにより尊いのだと思う。

 

ファミレスのシーンで、瞼を閉じて涙を落とした麦。

あの場の空気、物語るもの。すべてが強烈に刺さった。直前に麦が言った自分の言葉を、ああ違うな…と悟ったかのような表情。

 

恋をたたむ。それは痛みも苦しみも伴うはずだけど、二人はカーテンを仕舞うようにふわりとたたんで箱にしまった。

人と人が離れるのを観るのが苦手なつもりでいたけど、麦と絹には、そのままでいてとは思わなかった。

こんなに丁寧にたためることは、素敵なことだと感じたから。

 

最後の方の麦の「えっ?」が好きだった。しれっとした顔でいる絹と、さらに「えっ?」と二度見する、最高の間合い。

自然な佇まいで映っているから、時折ほんのちょっと、ちょっとだけ関西弁の片鱗が見えそうになる菅田将暉さんも個人的な感想としてよかった。

有村架純さんが、音ちゃんじゃなかったことにも、感動した。

坂元裕二さんの書く世界観の中にいても、この子は音ちゃんじゃない。絹だった。

 

 

絹は麦に、花の名前を教えなかった。

だけど、花の名前でなくても二人にとっては、あの時、聴いた曲。歌った曲。読んだ本。

気がついたら、花の名前を教えるように、そこかしこに思い出のスイッチが増えてしまっていたねということなのかもしれないと思った。

 

起きなければ知ることもなく、思い出すことすらできない。

二人が天竺鼠のライブの内容を知らないままなのと同じように。

 

思い出せることの嬉しさを私自身が噛み締めているのは、思い出すくないコンプレックスがあるからかもなと考えている。

楽しみなこと、嬉しいこと。思い出すために、時間を過ごしていると自覚しながら。

 

実際に体感している時間より、思い出として持っている時間のほうがずっと長い。

「花束みたいな恋をした」こと、二人がそれを時折おかしく、微笑んで思い出せるなら、それはあってよかったと思える時間なのだろうと。

 

 

p.s.のようなもの

今回、この作品にエキストラとして参加することが叶った。

生涯にしてみたいことリストに必ず書いていたであろうことの一つ。“ボランティアエキストラの皆様”の文字を、自分ごととして眺められる日が来るとは思っていなかった。

数秒でも映らないかもしれなくても、まさかエキストラをするなんて、自分が一番予想していなかった。

携わるという意味では裏方に憧れつづけているのに、出る方?!どうした!?

緊張しいで、すぐトイレどこですか!!となるのに、出来るわけない。例えそこを歩くだけとしても無理だと思っていたのに、それを乗り越えるほど気持ちが上回っていた。

この機会、応募という出来る限りをしなかったら一生後悔すると思った。

 

参加していなくとも、好きになっていたであろう作品。

公開日の映画館では、映画への高揚感と同時に訳の分からない緊張も持ち合わせていた。

でもほら、どう撮っていたかなんてわからない。どんなシーンがあるかわからない。映ってないよ多分。期待すると肩を落とすからね、平常心でね。そう言い聞かせて。

映っていた。

信じがたいけど、多分夢じゃない。麦と絹の生きる世界の景色のひとつに、なれていた。

 

目立つことなんてしたくないと思いながら、映画「バッテリー」を観て“お芝居”というものに衝撃を受けて、こっそりオーディション雑誌まで買っていた小学生の頃の私に言ってあげたい。こんなかたちで夢が叶うこともあるよと。

パソコンの中、小さくでっかい奇跡に歓喜した麦の気持ちがよくわかった。