好きで、大切なものほど、摂取するのは元気な時にしたいと、取っておいてしまう癖は相変わらずで。
本来ならそんな時こそ、見て聴いて元気を出そうよと頭の中では思うけど。
嬉しかった出来事も、大好きな作品も。大切だから、重々しい色に染まった手で触れると、色が移ってしまいそうで躊躇う。
音楽の楽しみ方を、ちょっと忘れかけていた。
自分に余裕がなかったからなのか、何なのか。
映画「花束みたいな恋をした」を観るたびに、麦の言う『息抜きにならないんだよ、頭に入ってこないの』という言葉がしっかり胸に刺さる。
文章を書くときはちゃんと、整えて、封筒に入れるようなものを載せていきたいと思っていたけど、今回はそのままの感じでいこうと思う。
もし関ジャニ∞の新曲についての記事じゃないんかいと思わせていたら、申し訳ない。
また映画の話とすこし重なるけれど、私はあの映画の中で“ブログ”というものが出てきたとき、ドキッとした。
ブログのフォーマットが何となく、それっぽかったことにも親しみを覚えた。
そして、文を綴るその人にフォーカスを当てられたこと。そこにある言葉を、画面の中の文字ではなく言葉として絹は受け取っていたこと。
上手くまとめられないけど、今回の映画に“手紙”は登場しなかった分、“ブログ”に記された言葉が絹の元には届いていたんだと思った。
このブログは、「宛名のないファンレター」はどういうものなんだろうとたまに思う。
宛先のわからない相手に、感動を受け取ったことを書き記すために、もしそれが、同じように作品に出会って嬉しい気持ちを重ねたい人にとって、本に挟むしおりみたいになれるなら。
そう思って始めたのは6年前。
書きたくなって、書くことでその気持ちを唯一表現できる。
読みにきてくれている方は、どんな人なんだろう?
きっかけは何だったんだろう。楽しさのひとつになれていたりするんだろうか?
思いを馳せることがある。
アクセスしてくれている方がいることのみシンプルに伝わるこの距離感。曖昧で、それが楽しい。これも本当のこと。
“曖昧”で言うと、ドラマ「夢中さ、きみに。」の中で登場した本「鉄と鉄」の一節も、とても胸に響くものだった。
そうだといいなあ、そうしてつづくならいいなあと思う、抽象的だから様々なことを含んだ素敵な文章だった。
いろんなMVの公開や映像配信で、作品を載せた後のリアクションやコメントを、こちらが思う以上に気にかける様子を、嵐のドキュメンタリー「Voyage」などで見たりしていて、
今まで、どう届いているか。果たして届いているのか。リアクションに触れられなかった、触れづらかった分、受け取る新鮮さ。それがエネルギーになっていること。
どうしてそんなに知りたがっていたかが、少しわかる気がした。
作っていても、手応えはなくて。跳ね返りがない限り分からないんだと思った。どうだったかな?と手探りで、だからシンプルなリアクションが嬉しいんだと気づいた。
それ以来、観たものに向けてますます気軽に楽しかったことはリアクションをするようになった。
「宛名のないファンレター」という場所に、意味があるかと自問すると、わからない。
もし、ある日まったく同じ名前で同じような場所ができたら、ここが何かと説明する術がない。
期限は無いはずなのに、期限が有る気がするのは何なのだろう。目標を追うのに、抗えない岐路は迫るものなのか。
“時間がない”と漠然と思って、集中してきたこの場所に、迷いがあるのも本当の気持ちなんだろうなと、考える。
続けることは難しいことだと、耳では聞いていながら、頭で理解したのは今だなと思った。
そんなふうに書いていたら、見ていたドラマ「カルテット」が最終話になって、
カルテットの4人に宛てた手紙が登場して、またドキッとした。
放送当時に書いた気持ちとは違う向きで、手紙に書かれた「なぜ」に答えることがまだできない。