願いが3つ、叶うとしたら? - 実写版「アラジン」

〈映画本編の内容に触れています〉

 

一瞬にして変わる世界を夢見ている。

宮殿の中からではなく、アグラバーの人々の暮らしを見て知りたいと願っている。

 

アラジンとジャスミンが出会い、“まるで…囚われの身”と思いが共鳴する二人。

それぞれが何かに囚われている境遇の登場人物たちのなかで、アラジンは自分を囚われの身と言うけれど、アラジンはジャスミンに目の前に広がる世界を見せて、さらにはジーニーの自由を望み、願いを叶えた。

絨毯くんのことも、洞窟の中から助け出している。

孤独を持ってはいるけれど、軽やかに人生を動き回るアラジンは、関わっていくひとたちを自由にしていく。

 

“心に従うのをやめたのはいつ?”と語りかけるアラジンと、目の前に広がる世界に本心を見つけるジャスミン。美しいメロディーは、2019年の現代でも変わることなく、感動とサプライズを届けてくれた。

映画館の音響で聴く「フレンドライクミー」は、アブーが叩くドラムに胸が高鳴り、トランペットなど管楽器の迫力が抜群。こんなに最高なメロディーを作れるなんて一体どういうことなんだろうと、アニメーションの公開から時を経てあらためて圧倒されてしまうほどだった。

 

ビデオテープで、DVDで、何度も見た「アラジン」

アグラバーの世界は不思議で、すこし怖い。何が起こるんだろう…と引き込まれていって、洞窟から抜け出す方法も、ジャファーを止める方法も、全く見当がつかない。最後の最後までハラハラするのが「アラジン」

始まってすぐに、アラジンが姿を現してまず最初に歌う「ひと足お先に」がすごく好きで、そればかり見ていた。

 

自由自在に見えるジーニーが、“自由になりたい”と願っていると知って、子供心に驚いたことを覚えている。

最後の願いを、他人のために使えるだろうか?という問いかけの重さには、途方もない宿題を課された気分になった。

 

 

それほど好きでも、「アラジン」を映画館で観たことはなかった。

それが叶った、実写版の公開。

「アラジン」という作品が、まずアニメーションとして誕生していることに再度感動していた。アニメーションが生み出した、実写版。

 

実写+CGのスペクタクルに、少し飲まれたりもしたけど、アラジンが街を駆け抜けるシーンには心躍った。

実際のセットの中で、アラジンが動き回る。これこそ、実写版の醍醐味。

盗みをはたらく時の、手癖の速さを見せるカメラワークが素晴らしくて、マジックに翻弄されていくかのようだった。するりするりと右手から左手へ。こっちにあったはずのものが、いまはこっちに。

それはアラジンの人を惹きつける不思議な魅力にも似ていて、いつのまにか視線も心もアラジンの手の中に。

 

実写版を字幕で観ることの楽しみのひとつに、ディズニーがこだわる英語のアクセントがあった。

実写版の「美女と野獣」では、ベルやモーリスたちがフランス語のニュアンスを残したアクセントで英語を話していて、今回の「アラジン」では、アラビア語のアクセントでアラジンやジャスミン、街の商人たちが台詞を話していて感動した。 

ネイティブの英語にこだわるのではなく、土地ごとの言葉の特色を活かす方法で見せる演出があるところが、ディズニー作品の実写版の好きなポイントになっている。

 

アラジンを演じたのはメナ・マスードさん。

ジャスミンを演じたのはナオミ・スコットさん。

主役のお二人にスポットが当たって、中東の個性や風土が広く伝わっていく。そうして自然とポピュラーになることの意味深さを感じている。

様々な国の文化にポジティブな視点でスポットが当たることで、国ごとのアイデンティティやルーツを持つ子供たちや大人たちにとって、どれだけの後ろ盾と勇気になるかと思うと、センシティブさもあったはずの「アラジン」という作品が実写化されたことには意味があると感じた。

 

 

ジャスミンが身につけていたグリーンのネックレスと耳飾りが美しくて、耳飾りは何パターンかあるところも素敵だった。

そして、「シンデレラ」に舞踏会があるなら「アラジン」ではこのダンスシーンをと、インド映画のような群舞シーンが取り入れられたことには驚いた。

あのキレのある動きと、絶妙な角度。独特のダンスを魅せるレベルで踊りこなせるのはすごい。

 

 

アニメーションから実写版で加わったり変化していた解釈は、現代の価値観に気を配っていることがひしひしと伝わるものだった。

今はディズニーとしてもやっぱりこういう価値観を前面に押し出す空気なんだな…と受け止め疲れする思いもあったけど、ジャスミンの歌に心震えたのは本当だった。

日本は議論が生まれる余地のある環境。しかし、中東やあらゆる国での女性たちの境遇を考えると、このシーンは絶対に大切なシーンだと感じる。

例え話などではなく、実際的な抑圧や、発言権が失われている環境。事実にあることなのだと考えながら見ていると、ジャスミンの心の叫びはひたすら真っ直ぐに胸に刺さった。

 

フェミニズムやポリコレについて、日々いくつもの議論が繰り広げられているけど、言葉やタイプとしてくくる考えや定義されるものよりも前に、

ジャスミンが見せたあの表情にこそ、もっと人間の感情としてのシンプルな痛みや葛藤が表れていると思う。

日常のなかであっても、黙っていれば上手くいくんだと自らの手で自らの口をふさぐことがある。

投げかけられた言葉で確かに何かが削られていく感覚。失っていく悔しさ。

心を切りつけられる痛みが「スピーチレス」には表現されていて、だからこそ、私は黙らないと声を上げるジャスミンに心を揺さぶられていく。

闇雲に攻撃するのではない。自分の意思を、伝えるべき時に伝えるスピーチ[ものを言う力]のため、声を上げる。自分の声で。

 

 

物語の始まりで、今いる生活から助け出してくれる何かを求めているのはアラジンの方だった。

毎日、何か変わるかもって願っているけど、でも…と話すアラジンの心境を思うと、切なく苦しくなった。盗っ人でいるしかなく、ドブネズミと蔑まれて、どうせずっとこのままなんだと諦めたくなる境遇で、アラジンは自分のことをこの程度だとは諦めない。

 

ジーニーが自由になるには、アラジンが願いをひとつ使うことが必要で、ジーニーにとってそれは到底叶うはずのない願い。

アラジンに出会うまでの何千年もの間、ジーニーが見てきたご主人様は、傲慢で、利己主義で、ジーニーのことを手下としか思わない人間だったのだろう。

アラジンなら、もしかしたら。

そう信じられたのに、やっぱり…と言われたジーニーの落胆はどれほどのものだったか。ここで描かれる人間の欲深さは、何度見ても身につまされる思いになる。

アラジンにとっては、もっと欲しい!という思いよりも、不安であるがゆえにジーニーにそばにいてほしいという思いが動機だったはずと感じたけれど。

 

実写版で加わった、ラップも得意なジーニーの設定に、キャストからの個性が強い…!と思ったものの、手を頬に寄せて脚を曲げながら寝転んで、アラジンの恋話を聞くジーニーは可愛くて仕方なかった。

できればジーニーは自由になってもジーニーのままでいてほしかったなと思うのは、いつのまにか湧いた愛着ゆえに寂しいから。

 

アニメーション「アラジン」と重ね合わせようとすると、ギャップや表現の変化を感じる部分もあるけれど、

アグラバーの街並みは忠実に具現化されていて、物語の全体に漂う空気感も守られている。エンターテイメントとして楽しい実写版「アラジン」だった。

 

願いが3つ、叶うとしたら。自分は何を願うだろうか?

時が経っても変わることなくときめくこの問いに、また出会えたことが嬉しかった。