舞台「蜘蛛女のキス」ヴァレンティンとモリーナを見て私が思ったこと。

  

東京グローブ座で公演している「蜘蛛女のキス」を観た。

大倉忠義さんと渡辺いっけいさんの二人芝居。歌もなく台詞のみのストレートプレイで、若き革命家バレンティン大倉忠義さんが演じ、モリーナを渡辺いっけいさんが演じる。

 

言葉には簡単にすることができない、静かな力のある舞台だった。

目には見えない“なにか”を手繰り寄せるように積み上げて築いていく繊細な二人の関係性を、第三者がまとめて言葉にしてしまえば容易に壊れてしまう気がして、ためらうほどに。

しかし書き留めて忘れたくないので、どうにか書きたいと思う。

 

歌のない舞台は観たことがあったけれど、二人芝居というものを観るのは初めて。

2時間35分もの時間を二人だけ見ているというのはどんな感じなのだろうと思っていた。始まってみるとそんな心配は全くいらず、あっという間に過ぎてしまう時間が名残惜しかった。セット展開をほとんどせず、二人だけ。この舞台の出演者が二人だけで良かった。正確にはもう一人いるけれど、今回それは省略しておく。バレンティンモリーナの会話を聞いて、二人が持つ背景を想像するだけで頭は精一杯で、フル活動状態だった。

今回、自分が座ったのは3階席。見切れることもあり、細かな表情や目線の動きは見えない状況だった。見え方が分かって即座に、ここでどれだけ楽しむことができるかということが醍醐味だと思い、ヴァレンティン側のベッドが見えないことを利用してモリーナに注目して観ることで、モリーナの心情を通したヴァレンティンを見ることができた。神経の研ぎ澄まされた状態の耳に聴こえてくるヴァレンティンの声が、一層強く記憶に残った。

声だけに、充分すぎるほどの表情がある。怒り、弱り、悲しんで、生きていた。

むしろこの席で良かったかもしれないと思ったのは、モリーナ側のテリトリーに入ってきた時のヴァレンティンがよく見えることだった。それによって、難しいのではと思っていたモリーナへの感情移入が自然とできた。

照明と同じ高さから観られることも嬉しくて、照明さんの仕事を意識しながら照明の展開も観ていた。牢獄でありながら、朝の強い明るい日差し、夕暮れ、夜。様々な表情を見せる光が差し込み、小さな部屋に表情をつけていた。じわじわと落とす暗転も、思わず目を凝らしたくなるさじ加減で徐々に見えてくるモリーナの姿も、光の演出によって幻を見ているようなミステリアスさを感じた。

モリーナのスペースには、ポスターや写真立て、棚に掛けている可愛らしい布など、随所に彼女のセンスが表れていた。ベッドにはカーテンが付けてあって、いくつかの布を繋ぎ合わせてある。青色などの布の中でピンクの布がアクセントになっていて、そのピンクの布がキラキラとしているのがよかった。

 

高い壁のもっと上、天井にわずかな光が差す格子の付いた窓。その窓からの影が夜になると象徴的に床に写り、光の変化で大きくなった床の格子の影は、捕らえられたヴァレンティンとモリーナの居る場所と現実をいつまでも突きつけてきた。

レンガの壁にはヴァレンティンとモリーナの影がはっきりとよく写り、影で見るヴァレンティンの横顔が印象深かった。壁が上に行くにつれて横幅が斜めに広くなっていて、視覚効果を考えられているようなセットの作りにも感動した。

大きな壁を下から見上げるように見れば、上へと遠い威圧感のある壁に見えるのだろうなと想像しながら観ていた。1階から観ていた訳ではないので確実なことは分からないけど、ヴァレンティンは特にベッドに寝転んでいるシーンが多いため、ステージそのものにも傾斜が掛かっているのではと思いながら観ていて、斜めっている床での芝居は、そこに立っているだけでも体幹を使って大変そうだなと思った。

 

黒い幕が閉じた状態からの、舞台導入の引き込み方が凄かった。

フラメンコギターの音が聴こえ始めるとじわーっと暗転していき、何も見えない暗闇が作りだされ聞こえてくるのはモリーナの声。モリーナの話しの合間に茶々を入れるヴァレンティンの声が聞こえる。

この時にわかるのは声だけ。働くのは聴力だけで、しばらくの間なにも見えない。

それが舞台の世界観へと引き込む強い効果を持っていて、こうして始まるのかと感動だった。現実生活からグローブ座へと来た観客を、一気にその空気で覆うことは簡単なことではないと思うからこそ、この舞台をどう観たらいいのかを教えてくれる演出に驚きと感動があった。

ここがブエノスアイレスであること、刑務所の小さな牢獄に居ること。しっかりとした説明ゼリフがあるという訳ではなく、それが前提で話が進んでいくので、より作品の空気感を伝えるのは難しいことだと思った。しかしその導入のおかげで、本は読まずあらすじしか読んでいなかった自分でも、「蜘蛛女のキス」の世界に入り込むことができた。

 

大倉忠義さんも、渡辺いっけいさんも、なんとなくの固定されたイメージが自分の中でついてしまっている感じがしていて、ストレートプレイともなると本人がよぎる瞬間があるのではと心配があった。

しかしそんな心配は必要なかった、舞台を見ている間、自分はヴァレンティンとモリーナを見ていた。大倉忠義さんを、渡辺いっけいさんを見ていると感じる時間は無かった。舞台で生きている二人の時間をただ見ていた。

正直、渡辺いっけいさんがモリーナを演じると知って、紛れもない男性の風格がある渡辺いっけいさんが女性のように見えるのだろうかと思ったけれど、モリーナはずっとモリーナで、性別を越えて、“モリーナという人”が生きていた。

あからさまな好意を見せるようなアピールや色仕掛けをするのではなくて、自然と、必然のように目には見えないなにかが変わっていく。雑にしてしまえばすぐに壊れそうななにかを、舞台の中で丁寧に描いていた。

 

「蜘蛛女のキス」を観に行く前、テレビやメディアで取り上げられるポイントばかりに囚われて、先入観から本当にある奥底の意味を見失いたくないと思っていて、舞台を観ている間ずっと、このストーリーが伝えようとしていることはどこにあるだろうと探していた。

二人の結末や関係性についてどう考えるかは難しいことだと思ったけれど、実際に観てみて、これは人と人の話であり、愛の話であると感じた。複雑な心情と、揺れ動き。誰もが持つ様々なものに対する愛情を、複雑な状況に置かれた二人に語らせることで、自分自身にとって愛情とはなんなのか、愛情に自分が望むものはなんなのか。それを考えさせられた。

 

本来であれば出会うはずがなかったヴァレンティンとモリーナが、密室に閉じ込められたことで起こり始める心情の変化。モリーナにとってはきっと、そんなはずがないと思いながら、自らに言い聞かせながら、でも確かに感じるなにかにすがりたい衝動との葛藤だったのだろうと思う。二人に流れる空気の変化を信じていたい、モリーナの心の揺れが伝わった。

だからこそ、腹を空かせて気が立っていたのにやっとありつけるオートミールの多い方を「オートミール好きだっただろう」と言ってモリーナに譲り、ダメだと言っても聞かずに少ない方を食べきってしまったヴァレンティンの思いがけない優しさに戸惑っただろうなと思った。

渡されたその器には毒が盛られていることを知っていながら、ガツガツと食べきるモリーナ。捨てたって構わないはず、うっかりを装い、手元を滑らせて床に落としたってよかったのに、モリーナはそうしなかった。ヴァレンティンから受け取った優しさを平らげてしまいたかったのだろう。どれほどの愛か。

ヴァレンティンのモリーナに対する、はじめの雑な呼び方から、「きみ」になり「モリーナ」へと変化する。名前を呼ぶ声も段々と優しくなっていく。「モリーナ」と呼ぶヴァレンティンの声は、どきりとするほど穏やかで甘くて、砂糖菓子みたいだった。

 

大倉忠義さんの台詞を話す声が、良い意味で想像と違っていた。いつもよりさらに低く、声に波ができないよう一定に保っているような感じ。意図しているのか、どんな意図なのかは知ることができないけれど、低い声でヴァレンティンという役を作ったのはモリーナを演じる渡辺いっけいさんとのバランスを考えてのことなのかなと感じた。

渡辺いっけいさんはあからさまに声を高くしたりすること無く、いつもの声をわずかに語尾が上がるように話し女性らしさを表現していて、聞こえてくる二人の会話はつかみ所のないバランスを保っていた。

 

「蜘蛛女のキス」の演出をされた鈴木裕美さんは、丸山隆平さんの「マクベス」も横山裕さんの「ブルームーン」も演出されている。

鈴木裕美さんの演出する“情けない男”は、どう考えてもダメなやつなのに、どこか愛しどころを見つけてしまう。素直で幼く、これが母性をくすぐるダメな男というやつなのかと気付きたくない心情を知ってしまったような気持ちになる。マクベスの時もそうだった。

現実に身近にいたとしたら絶対に関わることはないような性格の持ち主でも、鈴木裕美さんの演出にかかれば一様に引きつけられてしまう。

 

内容は終始シリアスだったけれど、テンポよく進む会話に退屈せず、渡辺いっけいさんの戯ける姿にくすっと笑うこともあって、息が詰まりすぎることも無かった。

モリーナの話す映画の話を聞いていて、始めは知らない映画の話を人から聞いて関心が持てるだろうかと思っていたけど、話が進むうち映画の話を聞きたくなって、続きを聞かせてくれるのを待ちわびている自分に気が付いた。そこに関しては、ヴァレンティンと気が合った。

実際にそんな映画があるのだろうかと思いながら舞台を観ていたら、パンフレットに実在する映画についての解説が載っていて、本当にあるんだと嬉しくなった。モリーナが口ずさんでいた歌についても解説がついていた。舞台が気に入ったら、パンフレットは買って損はないと思う。

 

ヴァレンティンはすぐ怒り、一体いつ気が立っていないのかむしろ教えて欲しいほどすぐに感情的に声を荒げるけど、時折見せる無邪気さは幼い5歳児のようだった。

革命家を志す者として投獄されたヴァレンティン。革命とはなんだろうと劇中ずっと考えていた。一人で、革命を起こせると信じているの?と言ったモリーナの言葉に怒って叫ぶバレンティン。一人ではないんだ、仲間がいると自らに言い聞かせて、なだめるように話す彼の姿は悲痛だった。仲間たちは、本当に彼のことを考えているだろうか。いざという時、命がけで助けてくれるような関係性があるのだろうか。しかしあったとしたら、ヴァレンティンは一人投獄されることはなかったのでは。

時折、ははっと笑う声は無邪気で、そんな彼の無垢な心に“革命”という言葉は刺さってしまったのだなと切なくなった。手を握っていてくれないかとモリーナにお願いする場面などから、母性への渇望も感じられる。それでも、革命家を志す若き男という空気は身にまとったままで、繊細で感情が高ぶりやすく儚い。

 

モリーナが言った「私の人生はいつ始まるの?」という台詞を聞いた時、胸に重くのしかかる感覚がした。誰かのために生き続けてきたからこそ、今のモリーナの尽くし世話する性格が形成されたのだなと思った。

もう一つ胸にきたのは、モリーナの子供の頃の話を聞き、人形を大事にしていたと話すモリーナにヴァレンティンが反応を示すシーン。シンパシーを感じている自分に気付いたヴァレンティンが、戸惑いながら「俺が心理士だったら食っていけない」というような言葉を言った時だった。

受け取り方が合っているのかは分からないけど、これはなによりの愛の言葉ではないかと思ったからだった。愛なのか。陽性転移なのか。境が分からなくなってしまったという意味だとしたら、こんなに洒落た言い回しはないと思った。

このストーリーは愛ではないという考え方もあるかもしれない。確かにヴァレンティンは本当の意味でモリーナを愛してはいなかったと思うし、二人の思いは重なってはおらず、すれ違っていたと思う。聞きたくないと何度も拒否するモリーナに対し、きみの安全は保証するからと革命の手伝いをさせようとする。モリーナの保釈を喜んだのも、自らの計画が遂行できると真っ先に考えたからだった。

ヴァレンティンはモリーナの苦悩に気付かず、モリーナは最後まで本当のことを言わなかった。

極限の状態だったから生まれた感情、それでも、人と人としての愛で言えば、モリーナは甲斐甲斐しく世話を焼き続け、ヴァレンティンは自覚のないままにモリーナを思いやっていた。正しい形で愛するという尺度を捨ててしまえば、ヴァレンティンは不器用にもモリーナを人として愛していた。

 

モリーナの罪や、ヴァレンティンの思想など、共感できないこともあるけれど、舞台を観る上で何もかもを好きにならなくてもいいということを、今回学んだ気がしている。

丸ごと全部を好きにはならないとしても、むしろその部分にこそ意味があって、自分の感情がどう動くのかという新たな経験をできる機会なのだと感じた。

やっぱり舞台は楽しい。感情が揺さぶられ、飲み込まれて、溺れかけることもあるけれど、この感覚が好きで仕方ないのだと思う。

舞台「蜘蛛女のキス」はジワジワと心に広がりへばりつく、まさに蜘蛛の糸のようで。それ以外に言い表しようのない感情にさせられる舞台だった。