意識するよりも先に、家には「メリーポピンズ」のビデオがあった。
ビデオデッキに差し込み、しとしと雨の降るあのロンドンの風景を幼い頃に見ていた。
買ってもらった記憶もなく、選んだ記憶もないけれど、大きくてかさばるプラスチックのケースに入った、黒く四角い辞書みたいなビデオテープは、「メリーポピンズ」のほかにも「ジャングルブック」「ライオンキング」などがあった。
こう思い返すと、プリンセス作品がないことが意外だった。今はこんなに好きなのに。
子供心に見る「メリーポピンズ」は、なんだか暗くて、こわかった。浮かない顔の大人たち。街も銀行も、黒い雲に覆われたようだった。だけど、メリーポピンズだけがなにかちがう。
銀行がなにをするための場所なのかも知らない子供の頭の中。よくわからない不思議なお話だな、そう思いながらも、何度か見返していたことを覚えていて、そして忘れずに残りつづけたなにかであったことも確かだった。
お父さんもこわい。メリーポピンズもなにを考えいるかわからなくてこわい。苦い薬も飲みなさいというし、メリーがのぞく鏡は勝手に動いて歌いだす。
でもあの鞄が、大好きだった。
横に大きくても、縦に長くても、次から次へと物が出てくるあの不思議な鞄がほしかった。
家にあったディズニーのビデオのなかで、一番理解が難しかったのが「メリーポピンズ 」で、あの時子供ながらに自分と約束していた。
大人になったらまた見てね。どう感じるのか教えてね。
だからこの感想は、子供の頃の私へ向けた手紙とも言える。あなたが思っていたよりちょっと早く書いてしまったかもしれないけど、今の私が感じたメリーポピンズとの再会を書き記した手紙。
映画「メリー・ポピンズ リターンズ」
映画化の知らせを聞いて、メリーが帰ってくる。と知った時、心躍っている自分がいた。
あれ、そんなに好きだったっけ?と思いながらも、メリーを演じるのがエミリーブラントと聞いてさらに観たい!という気持ちは増した。「プラダを着た悪魔」でのエミリーブラントのイギリスアクセントな発音は耳心地よく独特で、とても魅力的だった。メリーポピンズの知的な空気感に彼女のアクセントはきっとぴったりくると、楽しみになった。
映画を観終えた感想は、観に来てよかった。観られてよかった。
メリーポピンズのことを心のどこかで私も待っていたのだと、映画を観終えて気がついた。
メリーポピンズが初めて降ってきたあの日から20年後。大恐慌時代のロンドン。
あのカーブの道、街灯、チェリー通り17番地。
バンクス家が見えた瞬間に、肌で覚えていた記憶がぶわっと蘇った。
大人になり、3人の子供の父になった長男のマイケル・バンクス。マイケル・バンクスを演じていた「ベン・ウィショー」がとても素敵で、少年が完全には消えきっていない笑顔がたまらなく、彼がこの役を演じたことは最高のキャスティングだったと思う。
今回あらためてジョージの少年時代を子役が演じずとも、彼の表情のなかに少年性は映し出されていて、人懐こい雰囲気はそのままだった。
メリーポピンズを目の前にした時の、2人の顔。
なんだかもうそれだけで泣けてしまうほどだった。
一時の夢。メリーポピンズはもういない。
そんなふうに思えてしまうほどの時代のなか生きていたマイケル・バンクスとジェーン・バンクス。彼らにとって、あの家がどれほどの思い出が染み込んだ家なのかは、切ないほど想像がつく。
「ありえないからだ!」
子供たちのどうして?なぜ?をそう言い捨ててしまうくらいに日々のことで精一杯。
そんな一家のもとにメリーポピンズは再び姿を現し、ワクワクとはどんなことか、語るよりも見せることで伝えてくれる。
劇中で歌われる曲たちのメロディーもどこか懐かしく、しかし新しい。「2ペンスを鳩に」や「スーパーカリフラジリスティックエクスピアリドーシャス」など、最初の「メリーポピンズ」にしっかりと刻まれた印象的な曲たちに頼りきらず、初めて聴くのに懐かしい不思議な感覚へといざなってくれる。
ところどころに、このメロディー聴きたくなってた!という期待へのサプライズがあるところもにくめない。
エンドロールも含めて、メリーポピンズでの楽曲からイメージしたのはディズニーランド。
トランペットやシンバルの音、サーカスのような盛り上がり。どう伝えればいいかわからないのだけど、全体で耳にする曲のテイストが似ていて、メリーポピンズはディズニーランドだと思った。
ロンドン、というシチュエーションからして好きなテイストが満載で、衣装も可愛らしくて目移りした。
マイケルが着ているシャツにニットのベスト。ジェーンのかぶっているピンクのベレー帽。そしてなにより、メリーポピンズのコートや帽子、手袋。
街灯にともる火を、朝には消してまわり、夜には点けてまわる点灯夫のジャック。彼のハンチング帽や仕事着としてのジャケットとベストも素敵だった。
“煙突掃除屋さん”が印象的だったメリーポピンズのパートナーになるポジションの役柄を、点灯夫にしてきたところもすごくいいとオープニングから感動した。
映画のなかで、もっともグッときたのは「A Cover is Not the Book 」のシーン。
メリーポピンズとジャックと子供たちが、賑やかなミュージックホールへと出掛けていくシーンで、照れながらも堂々とステージに上がるメリーがとびきりキュート。
イラストと実写のコラボが再来する楽しさはもちろん、このシーンに込められたメッセージに胸を打たれて、感動のため息を静かにつくほどだった。
この「A Cover is Not the Book 」というタイトルが、すでに言いたいことを表していてかっこよすぎる。
表紙が本の全てではない。いい人と思っていた人物が中身を読んだら違うかも。
表紙に騙されず、中身を読んで。
本を好きでよく読むなら、そのギャップを楽しむあるあるに共感できるかもしれないし、もう一歩踏み込めば、人をどう見るかという視点の置き方の話にもなってくる。
見た目で判断しない、という意味で受け取るよりも、表紙の魅力で手にとることは確かにあるけれど、その先入観に囚われて中身をしっかり読むことを忘れないで、というメッセージとして響いてきた。
風刺の効いたメッセージでありながら、シーンとしては明るくて楽しくて、はっちゃけたメリーと息の合ったジャックのダンスに、可愛いペンギンたち。一体どうやって撮っているのか不思議な本で出来ていく階段など、見どころいっぱいのシーン。
そして見ていてキューっと込み上げてくるワクワクがあったのは、バスタブに飛び込んでいくシーンだった。
予告をテレビで見たときは逆再生かCGか何かだろうと思っていたけど、映画公開よりも先に解禁されたメイキングで、本当にセットを作り後ろに滑り落ちていくシーンを撮っているのを見て驚いた。
実写でこれをやるんだ!という驚きはまさに、大人になって仕組みを知って、不思議を楽しむ想像力が消えかかっていることへ向けた遊び心のようで、それによって“マジック”への期待と喜びはどんどんふくらんだ。
日本語に訳そうとすると、“マジック”はどうしても「魔法」と表現されやすい。
このマジックを何と言い表すかについては、テーマパークとしてのディズニーを好きになった頃にもいろいろと考えた。結論は出ない曖昧なままだったけど、どうしても同意義とは思えなかった。
とくにメリーポピンズでの“マジック”においては。
今ある日本語のなかで言い換えるなら「魔法」になるのかもしれない。しかしどちらかといえば、“不思議”の概念こそ“マジック”に近いと思えた。
マジックやマジカルという言葉にあるキラキラとしたなにかは、理屈ではない気がする。だからこそ、ありえない!を超えることができる。
あの頃を思い出す、子供部屋のドールハウスやひし形の凧。あまりの人数に驚きながらもワクワクした煙突掃除屋さんのダンスは、点灯夫たちの街灯ダンスへと引き継がれた。
メリーポピンズが一体どうやって不思議な景色を見せているのか。それは現実に起きているのか。はたまた子供だけが見る妄想なのか?
考えるその頭はひとまず置いて、ついてらっしゃいと微笑むようなメリーポピンズの表情に、ドキッと心が跳ねた。