小学生の頃、苔を自家栽培しようとしたことがあった。
あのモケモケとした触り心地と、花や木の葉とは違う緑の濃度に心惹かれて、増やしてみたい衝動に駆られた。
友達のお家の庭で、日陰にあった苔を友達と一緒になって採取して、どうにか石に貼り付いてくれないかと試行錯誤した。しかし生えていた場所から剥がしてしまった途端に苔は生気を無くして、復活することはなかった。
苔というのはデリケートな生き物だ…そう学んで以来、苔への好奇心は一度収まった。
ある時から、お花屋さんや雑貨屋さんで「苔玉」なるものが登場するようになった。
これだ!!わたしがしたかったのはこういうことだよ!と謎の共感と感動を覚えて、わたしにとって苔はマリモを上回る緑植物界のアイドルだった。
京都、嵐山でたどり着いた苔寺は、その名の通り庭一面にそれはもう立派な群生となって苔が生えている場所だった。
緑の絨毯とはこのこと。その上を、両腕を広げるかのようにもみじの木が枝を伸ばしていて、その緑もまた、上からの光を受けて綺麗だった。
昨年来た時、しん…と音が消える感覚に驚いたあのお庭に、もう一度来たかった。
暑さからなのか、海外のお客さんはちらほらといるものの、人はそんなに多くなかった。手持ち扇風機に助けられながら、一人誰もいない場所のベンチに座って、しばらく景色を眺めていた。
階段を上ってちょっとした高台に行けることを、今回初めて知った。
向こうの方に見える街の景色と、木々にのぞく天龍寺の屋根。空は広く青空で、もくもくと立ち上がる雲が爽快な夏の空。
一年と半年ぶりにたどり着いたこの景色。
もう一度来ることができた。それが一人で、まさかこんな状況を作って来るとは想像もしていなかったなと感慨深くなった。しかもまだまだこれが始まりで、これから8日間も関西に滞在するなんて。
池には鯉がいて、山の緑と空の青が綺麗なコントラスト。好きな時に座っていい椅子があって、気の済むまでどうぞと迎えられているような気分になる。なんにも気にしない、なんにも関係ない場所に居られている安堵感は、ここまで来たから感じることのできるものだった。
冬の雪の降る嵐山と、夏の日差しが照る嵐山。
図らずも対比できる2つの季節に、このお庭からの景色を眺めることができた。
右端から見る景色と左端から見る景色、そして中央から均等に見る景色とでもまた変化があって、わたしは天龍寺を背にして右端から見えるバランスが好きだ。
静かな時間が名残惜しく、体力が持つならいつまででも居たかった。
時間から逃れられる場所というのはそうそう見つからないものだけど、ここは時の止まる場所だった。