映画「今夜、世界からこの恋が消えても」- 水面に映る光のカーテンのように、静かにきらめく眼差し

(具体的なネタバレはせずに書いているつもりでいますが、観に行く予定のある方はまっさらで向かわれることをおすすめします。)

 

水面に映る光のカーテンのように、静かにきらめく眼差しの物語だった。

映画「今夜、世界からこの恋が消えても

 

正直な気持ちから話すと、徹底的なロマンチックさは好きだけど、二人の想いの間に病気が関わってくる話には苦手意識があった。

人の胸を打つものになっているということは、そこには理由があるのだろうと思いながらも、それを物語として受け取るのは…というためらいだった。

それなのに、どうして映画館へ来たのかと考えると、

道枝駿佑さんが真摯に向き合った役がベタさのみで終わるだろうかという信頼と、予告から感じられた、丁寧に映したいという気概に引き寄せられたから。

 

観終えて、この大きなスクリーンに映る映画として観ることができてよかったと思った。

目が覚めて布団をめくるシーツの音。お互いがきっとこんなふうに愛くるしく耳にしていたのだろうと思える、話し声。

音も映像も、水の中で湧き上がる泡みたいに繊細なピアノの旋律が寄り添う劇伴も、心地よかった。

今回の劇伴は亀田誠治さんだとあらかじめ知っていたから、そこにも着目できるのが嬉しかった。

 

もし、病気を持つヒロインを理想的な枠で描こうとする動機みたいなものが透けて見えていたら、相手役をヒロインのためだけの存在として置いていたら、すっと引いてしまっていたかもしれない。

けれど、私がこの映画から受け取ったのは、見つめる眼差しの優しさと、時間が経とうと残るものについてだった。

道枝駿佑さんがお芝居にそっと置く日常のトーンは居心地がよくて、声も心情のグラデーションもそばにあってほしいなと思わせる。

「今夜、世界からこの恋が消えても」が、ふとした日常でまた観たくなるだろうなと思える作品になったのは、自分にとって貴重な出会いだった。

 

エンドロールには『真織文字:山口暁穂さん』や『コロナ対策アドバイザー』の項目があって、

この膨大な手書き文字を書いた方がいるんだと知ることができたうれしさを思ったりしながら、名前を見ていた。

2022年2月からおよそ1ヶ月をかけて撮影されたこの映画をこうして観て受け取ることができているのは、撮影現場での心掛けなどから実現したことなんだと受けとめた。

 

 

起きた瞬間から、こんな世界もういやだと思う時。

その感覚は、特異なものではなくて、重ね合わせることのできる感情なのだと思う。

それでも、福本莉子さんの演じる日野真織は日々を織っていくように、記憶を繋いでいく。

 

私はどうやらタイムループものも不得意で、同じ日を繰り返す映画としての演出に目が回ってじれったくなってしまうのだけど、

「今夜、世界からこの恋が消えても」の真織さんの日々の描かれ方は、大切に、着実に、前進していた。

 

この瞬間、絶対に忘れたくないと思う時。

この目のまま、この頭と心のまま、絶対に手放したくないと強く思った時間が私の中にもある。

道枝駿佑さんの演じる神谷透がそこにいて、眼差しひとつを向ける。そこにはもう“意味”がある。

物言わぬ口元以上に、瞳が語る。

 

二人だけの世界を描くわけでもなくて、

古川琴音さんの演じる、真織にとっての大切な友達、透にとっての理解者でもある綿矢泉の存在がとてもひたむきで、彼女の葛藤を忘れることができない。

 

松本穂香さんの演じる神谷早苗さんが透を見つめる眼差しもまた暖かい。

感情をあらわにしてもいいはずの場面で、静かにそこに佇むのは早苗さんだけでなく、ここにいる1人1人に通じることなのかもしれない。

その中で、感情の解放があったとも言える、透の父である、萩原聖人さんの演じる神谷幸彦さんの存在感も凄まじい。

萩原聖人さんと道枝駿佑さんの親子役としての共演を観られた喜びを感じながら、さらけ出していく感情の動きに圧倒された。

 

真織の父、野間口徹さんの演じる日野浩司さん。

真織の母、水野真紀さんの演じる日野敬子さん。

二人の眼差しと、真織に届ける言葉から、これまでの毎日もどんなふうに迎えて包んできたのかを感じ取ることができた。

特にお父さんの間合いの見方や近づきすぎない見守り方からは、怖がらせることがないようにという優しさを感じた。

 

透が気にかけていたクラスメイトの男の子、前田航基さんが演じていた下川くんは印象的で、

言葉少なでも、透にとって真織との時間が動き出したのと同時に下川くんとの友情も深まっていたのではと思う。

お祝いしなくちゃと言う彼も、真織と透の約束を知らずに翻弄される下川くんの様子も、とても愛らしかった。

 

ハンカチにアイロンをかけて、畳む時に独特な畳み方をする透。

学校で向こう側から歩いてくる真織が手元に持つハンカチは、その独特な畳み方と同じだった。

 

忘れたくないことが増えれば増えるほど、心動けば動くほど、きっと時間がいくらあっても手が追いつかず書ききれないはずの真織の日記。

それでもいきいきとその時間を書き残して明日の自分へ手渡した真織。

 

明日の私に、今日の私が書き残せることはなんだろう。忘れないでいてと付箋に書き記したいほど、思うものとはなんだろう。

ヨルシカの「左右盲」を聴きながら、

今日の小雨が止むための太陽を

そう思った透の心を、そう受け取った真織の胸の内を、いまも水面を見つめるような感覚で思い馳せている。

 

映画「エルヴィス」圧倒的にゴージャスで悲しいほどに魅惑的

 

日本版のポスター写真に衝撃を受けた。

その熱で映画館へ行った。

マイクを握りステージから迫るエルヴィス。伸ばす手を掴もうと無数にファンの手が伸びる。

あの一瞬、エルヴィスの眼差し、横顔、伸ばされる手に観客の表情。マイクの輝き。どれを取ってもエルヴィスの圧倒的な存在感を示している。

 

(具体的なシーンをできるだけ避けているつもりですが、ネタバレなしとは言い切れないので、避けたい方はご注意ください。)

 

映画「エルヴィス(ELVIS)」を観た。

エルヴィス・プレスリーの話であり、専属でマネージメントをしたトム・パーカーのショービジネスの手腕と戦略を嫌というほど見せつけられる話でもある。

人生を時系列で追うというより、渦のようにクレイジーな勢いに飲まれていく感覚を観ている側も経験するような映画だった。

2時間30分を超える上映時間に、大丈夫だろうかと思ったものの、ジェットコースターでも追いつかないスピードでスターへ駆け上がるエルヴィスに気づけばエンドロール。

どんなステージに立とうと、どんなに名声を得ようと、そこにいるのはただ一人の人間なのに、こうも繰り返されないといけないことなのだろうかと観終わった後の気持ちは重かった。

 

エルヴィスを演じるオースティン・バトラーの魅惑的視線が凄まじい。

当時のエルヴィスの活躍を知らずに観始めたのに、引き込まれる感覚がわかった。

若き頃の圧倒的な引力と、年を重ねてからの声の厚みにビブラート。

期待に企みに疑心、瞳がすべてを語っていた。

 

オースティン・バトラーって何者!?と公式サイトを見て、

ディズニーチャンネルのドラマ「ハンナ・モンタナ」がデビュー作品だと知って驚きだった。何度も見たハンナ・モンタナから、映画のスクリーンでの再会があると思っていなかった。

 

ディズニーと言えば、スティッチが好きなエルヴィスという印象も持っていた。

映画を観て、あの動きや仕草から思い浮かんだ人が日本の芸能界にも何人かいて、それほど与えた影響は強くて広かったということを知った。

「監獄ロック」を関ジャムでセッションしていたことの凄さも改めて感じた。

 

すべての曲を知っているほどではなくても、どこかで聴いたとわかるメロディー。

エルヴィスのルーツを追って聴くと分かっていく、ビートの心地良さの理由。

そして大好きなあのカバー曲があんなに悲しく響くとは。

 

エルヴィスの若き頃の衣装にも釘付けになった。

ボーリングシャツのような黒襟にビビットピンクのジャケットを合わせたセンス。

上下のスーツが最強にかっこよかった。

 

不気味なピエロと煌びやかなテントに観覧車。

ショービジネスにはコツがあると話したパーカー大佐の戦略は、エグさを感じながら事実その通りだと思ってしまった。

ステージに立って強い光を浴びながら、その分濃くなる孤独の影に打ちひしがれる背中を見るたびに、これがスターダムの道だと言うなら何を…と苦しくなる。

家族にマネージャーにスタッフ。大きくなりすぎた船に対して、養わなければという感覚を本人だけで背負うべきなのか?

そんなはずない。だけど打開策が分からない。

そして、エルヴィス自身の直面した40歳キャリア論は、私が好きなエンターテイメントでも身近に見てきたことだからこそ、やっぱりそこは分岐点になるんだな…と痛感した。

 

私の頭で考えて行き着く先は、ショービジネスを見ている自分もそこに加担している…という自責の念。

しかしそのポイントこそ、パーカーが言っていたことに通じる。堂々巡りでひたすら悔しい。

節度の置き場所を探しながらエンターテイメントを楽しんでいるつもりでも、再度突きつけられるたびに、もうこわい触れられないノータッチでいたいと思ってしまう。

映画の中で目に焼きついているのは、“元に戻って”とボードを掲げるファンの姿だった。

エルヴィス自身が極限の状態で板挟みになりながら苦悩している時、目の前に立ちはだかったその光景に、表情を見ずとも伝わってくる絶望があった。

だからせめて私に出来る事として、こうしてああしてと自分の理想像を押しつけて求めて本人のアイデンティティを削っていくようなことだけは避けたい。

 

ショービジネスの世界を描く映画を、ショービジネスの世界で作るスパイラル。

「エルヴィス」という映画に視線が集まるほど、オースティン・バトラーへの視線も熱くなるのではないか。私はまた、その1人になろうとしているのではないか。

クレイジーにならなければいられない世界なんてあまりにつらいと思ったすぐ後で、また引きつけられている。

 

映画を観ながら、腕組みを解けなかった。

それが拒絶の印なのか、受け止めようとしている印なのか分からない。

パーカー的な結論づけには納得がいっていない。

解せない気持ちを鑑賞後に家族に話していたら、エルヴィスの人気が物凄かった時、おじいちゃんとおばあちゃんと親とでハワイからのライブ中継を見たんだよという話を初めて聞いた。

日本にもエルヴィスの歌声は届いていた。

 

圧倒的にゴージャスで、悲しいほど魅惑的。

エルヴィスの生活が派手になりはじめて、指にはめられるようになったゴージャスな指輪たち。

母を抱きしめる息子の素朴な手には不釣り合いな気がしたその手の宝石みたいに、掴みきれないほどの金に銀に宝石。

それらをガチャンと金ピカの宝石箱に放り込んだかのような映画だった。

 

振り返してくれるその手を待っている。ディア・エヴァン・ハンセン「Waving Though A Window」

 

'Cause I'm tap,tap,tapping on the glass

(ガラスをトントン叩きながら)

I'm waving through a window

(窓越しに手を振っているんだ)

 

“tap,tap,”から伝わる手のひら。

ドアをknockするのではなくて、ガラス越しに触れる手に、出たい気持ちとためらいがわかる。

 

ミュージカル「ディア・エヴァン・ハンセン」

Waving Though A Window

作詞・作曲:BENJ PASEK & JUSTIN PAUL

訳詞:山本安見さん

 

パソコン画面にタイピングされる

“Dear Evan Hansen”

森崎ウィンさんが歌う「Waving Though A Window」を見たことが、この曲との出会いだった。

明るく笑う印象だった森崎ウィンさんが、笑顔をしまって自信なさげに眉を下げている。背中を丸めて、ポケットに親指を入れる。

エヴァンに感情を重ねて歌おうとしていることは、役に寄せたパーマヘアからも見て取れた。

 

I've learned to slam on the brake

(ブレーキを踏むことを学んだ)

Before I even turn the key

(キーを回すより前に)

Before I make the mistake 

(間違いを犯す前に)

“鍵を回す前に”

失敗したくない。慎重さが究極まで高まった考えの行き着く先が、転ばないために立ち上がらないくらいの極論になる思考回路が理解できてしまう。

SNSが物語を動かす作品で、“So I nothin' to share”と呟くことの意味。

こんなにも内向的な主人公から物語がはじまるのだろうかと、一行目の歌詞から目が離せなくなった。

 

Step out, step outta the sun if you keep

(日の当たる場所から踏み出すんだ)

If you keep gettin' burned

(もし日焼けがキツすぎるなら)

開放していくように聴こえるメロディーで響かせるのは、内に内に篭っていく心。

背中を丸めて日差しを避けて、だけどそれは自分が心地良くいるための最善策。

ドアを開け放ち日差しを浴びて歩くのではなく、日差しから身を隠すように歩くエヴァンの心情をもっと知りたいと思った。

 

森崎ウィンさんの歌った「MUSIC FAIR」での階段を使う演出がよかった。

颯爽と降りて行けるはずの階段を、とぼとぼとぎこちなく、足取り重く降りて行く。

Because you've learned, because you've learned

(もう十分学んだのだから)

繰り返し口にする“learned”(十分学んだ)という言葉に、どれほど頭の中でシミュレーションをしてきたのかがわかる。

起こる前に、学んだと遠ざけたい心境も。

 

 

Can anybody see?

(誰か僕に気づいてくれるかな?)

Is anybody waving back at me?

(誰か僕に手を振り返してくれるかな?)

見える?手を振り返してくれる?という願いが決して小さなことではなく、大きなことであると感じることができる。

他者と向かい合うことで、自分の姿かたちが分かっていくのに、自分と向き合う時間だけが長くなると、存在に半信半疑になりかける時がある。

なりかけると、鏡で自分を確認することが増える。

 

When you're falling in a forest and there's nobody around

(森の中で倒れて 周りには誰もいない時)

Do you ever really crash Or even make a sound?

(きみは本当に落ちたと言えるのか? 音を立てたとさえ言えるのか?)

淡々とした疑問でありながら、こんなに悲しい疑問提起があるだろうかと苦しかった。

繰り返していくほどに疑心は深くなっていく。

森の中でたった一人、木から落ちたのに、世界の大きな規模では物音一つ立てていないのではと考える心情が、孤独を物語っている。

 

Did I even make a sound? Did I even make a sound?

(僕は果たして 本当に音を立てたのだろうか?)

It's like I never made a sound

(どうやら僕は音を立てたことがない)

Will I ever make a sound?

(僕は果たして音を立てるだろうか?)

どんどんテンポが早くなって、“Will l ever make a sound?”の後に、一瞬生まれる沈黙がすべてを問い掛ける。

客観視しようとしていた言葉が、ぐっと自分自身への言葉に変わる。

“never”と“ever”が立て続けに出てくるところに、語感と意味の魅力を感じた。

 

同じ音で韻を踏んでいたり、繰り返しでありながら意味合いが変わっていく表現。

歌の中ではエヴァンが饒舌に喋ることができる分、息つぎが大変なほど言葉数が多いところなどに注目すると楽しい。

 

“waving”の繰り返しと、“whoa”で響かせる声が、

閉じようとするドアと、開け放とうとする窓のように、相反する心境を見せている気がした。

そして最後の“whoa”で、上がっていた音程は落ち着いてしまう。

空高く投げたボールが手のひらに戻ってしまうように、どこか「リトルマーメイド」でアリエルがPart Of Your Worldを歌いながら、伸ばした手を諦めて降りていくシーンを思い浮かべた。

 

今は何度も歌詞のフレーズが頭の中にぐるぐるしている。

「ディア・エヴァン・ハンセン」が日本で上演される日はいつだろうか。

この一曲から心を掴まれた私は、森崎ウィンさんが演じるエヴァンをどうしても観たい。

一曲で、あれほど作品への思いと役への解釈を込めることのできる森崎ウィンさんが、全体を通して演じた時に、どんな境地になるのかを観てみたい。

歌を英語詞そのままでの上演が可能なキャストだと思う。

地を這うように低くなる声と、飛び立つように突き抜けていく声とが一曲のなかで行き来する、この作品の曲たちを歌い話す姿が観たい。

 

「Waving Though A Window」を知って、【手を振る】を英語では“Waving”と言うことを知った。

波が形作る滑らかな伝達と、手を振ることで伝わるコミュニケーションの波長が意味合いとして重なっている感覚がして、好きだなと思った。

例えば、ディズニーに遊びに来ている時みたいに、気の向くまま。

機関車に乗る人に、船に乗る人に、手を振ってくれているキャストさんに。ぶんぶんと手を振れる、あの感覚でいられたらいいのに。

手を振るということの意味を、大切にしたくなる。

心に置きたいミュージカルの歌が、ひとつ増えた。