関ジャニ∞が魅せるオールディーズファンク「DO NA I」

 

余裕のあるキザさ、主役は俺だと張り合うミュージカルのようなストーリー性。

ありとあらゆるツボを押さえられて、関ジャニ∞のアルバム「ジャム」のなかでダントツに好みなのが

蔦谷好位置さん作曲、いしわたり淳治さん作詞の

DO NA I」[どない]

 

曲のタイトルを聞いた時は、タイトルは…どない…?これは一体どんな曲になるんだろうと楽しみ半分、ドキドキ半分だった。タイトルからして、関西弁コテコテ曲になるのではと思ったりもした。

 

ラジオで聴いた初解禁。なんだこのコントラストの強さは…!という衝撃。

MVを見たっけ?と思うくらいに、歌っている景色が見えた。

次から次に入れ替わるリードボーカル。メンバーのこんな歌声聴いたことない!という驚きの連続で、こんなにグルーヴ感のある、ダンディーさと色気のある声をそれぞれが持っていたんだと思った。

色が視覚的に見えるようで、この声は横山裕さん、この声は大倉忠義さん、と顔がはっきり思い浮かぶ。バッバッっと主役が入れ替わっていくような動きさえも、音で表現されていた。

聴いていて思い浮かんだイメージは、観客である“自分”を主軸のカメラに位置付けるなら、ダンスフロアで関ジャニ∞にぐるーっと囲まれ、長回しのカメラワークでそれぞれのアピールを見せつけられているような。そんな感覚。

 

関ジャムで見せてくれた制作過程は本当に興味深かった。

「DO NA I」を作る際のイメージが『 ’80s 』そして映画「SING」のエンディング曲になっていて、アリアナ・グランデスティービー・ワンダーがコラボした「Faith」のような曲にできたらと蔦谷好位置さんご本人が考えていたと聞けたことが凄く嬉しかった。

映画「SING」は2度観に行って、大好きな映画だった。映画館に行ってエンドロールを見ていて初めて、音楽監修に蔦谷好位置さんが携わっていたこと、日本語歌詞にいしわたり淳治さんが携わっていたことを知って、関ジャムで見たお二人じゃないか!と感動していたこともあり、今回、関ジャニ∞への楽曲提供があると知った時も、飛び上がるほど嬉しかった。

そうして聴いた初解禁の日、「DO NA I」を聴いて真っ先に思い浮かんだのは、「Faith」みたいだ!という感覚だった。

そういう曲を、関ジャニ∞が歌ったとしたら…と蔦谷好位置さんがイメージしてくれたなんて、こんな夢の組み合わせはない。関ジャニ∞に、このような曲調をプレゼントしてくれるのは、‪関ジャム‬で関ジャニ∞をそばで見てきた蔦谷好位置さんだからこそだと思った。

あの映画館で聴いて、リズムに乗らずにいられなかった洋楽のムードを引き継いで、それを関ジャニ∞が歌っている…!

あの時に感じた感覚が間違っていなかったということを、関ジャムで知ったことも嬉しかった。ラッツアンドスターっぽさもあると感じたから、今回はダンス曲というオーダーだったけれど、スタンドマイクに白手袋の衣装もいいな…なんて思ったりした。

 

ベース音から入って、しばらくリズム隊だけで曲を支える。

そこにメンバーの声が入ってきて、まるで楽器のように主旋律を奏でていくのが格好良くて。声が、何よりの楽器になっていた。

曲を通して刻まれるベースのビート音と、決め所でバッっと音が止まってボーカルが目立つメリハリ。声と音の息の合い方が面白いくらいぴったりだった。気にかかるズレが1つもなくて、耳心地がいいというのはこのことだな…!と思うくらい、感覚が狂いかけたら耳のヒーリングに聴きたくなる曲。

あまりに曲のクオリティがボーカルにかかっているので、自分はカラオケでは決して再現できないなと早々に諦めた。

日本の曲のように起承転結がある構成と違い、決まった基本のリズムと繰り返されるリフは、少し違えば単調で退屈に聴こえそうなものだけど、くるくると表情の変わるメンバーの歌声と、シンプルな中にある癖になるリズム感が、心を掴んで離してくれない。

最後まで連れて行かれて、気がつくと1曲が終わってしまう。あ、もう終わっちゃった…と思い再度リピート。この繰り返し。そのうち自分のiPod再生ランキングで1位になるんじゃないかと思う。

 

詞がつく前の仮歌の時点で既にイメージが見えてグルーヴ感が伝わるのは、蔦谷好位置さんが敢えてデタラメ英語で仮歌を入れているからこそなのだなと実感した。確かに関ジャムで話されていた通り、らららでは、この曲のがなりみたいなものが上手く伝えられないなと思った。

蔦谷好位置さんから関ジャニ∞へ宛てたメールには、ボーカルのキーのことまで細かく説明してあって、“シャウトをしてほしい”というオーダーも書かれていた。

この“シャウト”こそ、「DO NA I」に自分がグッときているポイントで、ここでその意図が関ジャニ∞へと伝えられていたんだと感動した。さらに、いしわたり淳治さん宛てのメールには、“ハイトーンにいく部分の母音はシャウトしやすい音を意識してください”と書かれていて、楽曲制作の際にそこまでこだわり、音をとことんまで考えているということを知り、驚いた。

盛り上がりを作りたいという関ジャニ∞側からのオーダーには、“オケというよりは歌で盛り上げたい”と蔦谷好位置さんは答えていて、その意図が存分に完成した曲に表れていると感じた。

オケの音も重厚感があって魅力だけど、何よりこの曲の魅力は、メンバーそれぞれの声にある。

 

格好いい渋さのある流れからきて、音程がちょっと落ち着くところで、

イイトコなしの Everyday

という歌詞がくるところが、最高にいい。 

格好よく余裕たっぷりな感じなのに、“いいとこなし”という要素が歌詞に入るところに、らしさを感じる。新しい関ジャニ∞の一面も、今まで通りの一面も伝わる安心感がある。

でも「DO NA I」は、これまでの曲で見ていた情けなさが可愛らしい主人公のイメージとは違い、やっぱり一段上を歩く大人の男性の印象。

助け出すぜ かならず

という歌詞を歌う錦戸亮さんは最強に信頼できるスーパーマンで。錦戸さんの少しかすれたスモーキーな声が、「DO NA I」の’80sな洋楽の雰囲気にしっくりきていて相性が完璧だと感じた。

この部分と「惚れさしたるぜ」の部分は語尾が標準語になっていて、標準語と関西弁が行ったり来たり混ざり合っているのに、それが自然に聴こえて、くすぐったさは無いように思う。どちらともの良いとこ取りで、そのさじ加減はいしわたり淳治さん流石の言葉選びと組み立てだと思った。

 

長い月から金の出口のない

その迷宮 Take You! 迷宮 Take You!

と歌うのも、一週間をテーマにした曲は数多くあるけれど、短い言葉で、さらっと言い表した素敵な詞だと感動した。月と金だけをピックアップすることで、間の毎日の途方も無い長さを一層感じて、“出口のない”という一言で、もがく日頃のうっぷんを表現していて、本当にすごいと思った。

歌詞の中で出てくる、“ウィークエンド”という言い回しも好きで、週末と言うと、なんだか落ち着いた感じがするのに、ウィークエンドと言うだけで明るい気分になる不思議があって、この単語が気に入っている。

 

「イイトコなしの Everyday」で『E』を印象付けた後に、「A to ZのEverything」とくる英単語の遊び心も歌詞カードを見るとさらに感じることができて、いしわたり淳治さんの作詞は聴いても見ても楽しい。

村上信五さんのラップパートで「スベればスベったで Tasty」という言い回しがあるのも格好よくて、ニュアンスとしては“それも味でしょ?”とか“味わい深い”という意味合いになるのかなと思うけれど、そんなセンスの良い言い方ありますか…と憧れのため息が出る。

村上さんの持つパブリックイメージも見せつつ、実は

振られりゃヨゴレも演じる全部 Entertain You

なんだから、ぐうの音も出ない。あなたのためにエンターテイメントを、なんて言われたら、惚れ続けるだろうと思う。ある意味、皮肉交じりなところも洒落ていて素敵。

ラップに入る前に、メンバーが思い思いに言葉をかけているのだけど、何度聴いても丸山隆平さんだけ「あばばば」と言語化できないエールの送り方をしているのが最高に面白い。一緒に言いたくなる「(Oh Yeah)」の合いの手も、ライブでどんな盛り上がりを見せるんだろうと今から楽しみで仕方ない。

 

「ほらいい顔してる」の歌詞のところや、安田さんの高音ハーモニーのところで伸ばしている音が次の音に潰されずにしっかりと聴こえるところが凄く良かった。音葉の語尾を、機械的にフェードアウトさせたり、バツッっと切ったりせずに、最後まで声が聴こえて綺麗だった。

大サビの「DO NA I…」のところでは、3回目から高音のハモりに錦戸さんが入って、その一つ後、4回目から安田さんが加わってボーカルに厚みが増す演出が素晴らしいと感じた。

 

大倉さんの低音ボイスが大活躍している曲が好きで、「ナイナイアイラブユー」や「罪と夏」など、低音がなくては成立しない曲が好きだった。なので「DO NA I」での大倉さんの素晴らしい低音は何度聴いてもいいなあと聴き惚れてしまって、さらに横山さんとの声のハーモニーが良く、曲の始まりから堪らない。

主旋律の後ろに被せるコーラスも、“パッシュバッ”という一見古く感じそうなコーラスでも、今の曲として格好よさを保って成立している凄さを感じた。

「DO NA I」では、渋谷すばるさんが高音を張るというより、低めの自然なトーンで歌っているのも新鮮で、そこに「惚れさしたるぜ かならず」の“ず”で、上がる音程が聴こえて、これだ…!とテンションが上がる。

 

そして今回の「DO NA I」で大好きなのは丸山さんのボーカル。

ラジオから聴こえてきた時の衝撃は今でも忘れない。優しい声色の印象を感じることが多かったこれまでを全く一新するような、がなりの効いたシャウトがかなりのギャップで、丸山さんのこんな歌い方聴きたかった!とトキメキが止まらなかった。「イッツマイソウル」での丸山さんパートが好きな方ならこれは堪らないはず。

丸山さんは『ん』の音でがなることのプロだと思っていて、無音になりそうな『ん』の音でさえ情感を乗せて聴かせる魅力がある。

だめだ Pretty girl いいボケが浮かばない

のところでも“だめだ”の前にがなりが入って、“浮かばない”の『ば』と『な』の間に、『ん』が入る。

“月から金の 出口のない”でも、『ん』が入る。丸山さんの、このがなりスイッチがオンになった時の音の取り方が凄く好きで、この音に当たると気持ちが良いという勘が鋭いのだろうと思う。

欲しいところにパンチが決まるドラムみたいに、決め所が完璧な丸山さんのボーカル。とにかく、この曲の丸山さんの歌い方と声に終始心を掴まれた。

 

ダンスも、膝を上げながら後ろに下がる振り付けや、“助け出すぜ”のところで手のひらをスライドさせる動きが、ダサくはならずに昔ながらの良さと今のポップさとが融合していて良かった。

さらに、“やばい Pretty girl”のところで安田さんは前を向いて、ほかのメンバーは背中を向けてグッとグーサインを右上に挙げるのが、堪らないダンディーさ。

そしてラストの、誰が前に来るのか分からない変則的な動きから、いつのまにかバッっと安田さんがセンターに!という振り移動がグッとくる。決まっている安田さんのドヤ顔が最高だった。

 

『格好つける』という意味合いの幅が、ここにきての関ジャニ∞だからこそ、どんどん広くなっているように感じる。

徹底的にキメキメでいく良さも勿論あるけど、私は今の関ジャニ∞が魅せる、すこし肩の力を抜いた遊びの部分を持ちながらの格好よさがとても素敵だと思う。

若さから溢れる『格好いい』とも違った、今の年齢だからこその色気を見せつけた最高にファンクな一曲「DO NA I」が関ジャニ∞のラインナップに増えたことが、とても嬉しい。

 

忘れられない、みれん横丁の人々

 

 「俺節」を観に行こうと決めたのは、2014年の「フレンド-今夜此処での一と殷盛り-」という増田貴久さん主演の舞台で、ていちゃん役を演じられていた松本亮さんが「俺節」に出演されると知ったからだった。

そして六角精児さんも出演されるということを知り、この舞台に立つお二人を観たいと思った。

 

六角精児さんが演じたのは、流しの大野。ギターを常に肩から掛けて。コージとオキナワを弟子にして、面倒くさがりながらも可愛がり、世話を焼くようになる。

松本亮さんは、目で追いかけるのが大変なほど、場面ごとに全くの別人を演じていた。

最初は北野先生に弟子入りしている一人として。

みれん横丁では放火魔。

左上にある“閑古鳥”という店の前にいつも居た。お店なのに閑古鳥て、と思ったけどそれがよかった。

お祭り会場で太鼓を叩いている兄ちゃん。オキナワに捕まるおかま。テレサにピクルスの位置をしっかりと指摘するもパートのおばちゃんに追いやられるパン屋さん。杓子定規のような考えではなくテレサの話しをちゃんと聞いて、コージとテレサに時間を与えてくれた刑事さん。あとひとつ、自転車屋さんには自分が気がつけていなかった、くやしい。

強気になりきれないパン屋さんと、優しい刑事さんが特に好きだった。7役もの変貌。次々に変わる役柄に、観ていてわくわくした。

 

舞台「俺節」のセットも凄かった。

目の前に広がるみれん横丁は圧巻で、素晴らしかった。奥行きを感じる作りが緻密に計算されていて、看板ひとつにも情緒がある。“SNACK 丸”と書かれた看板が左上にあるのを見つけてちょっと嬉しかったりした。

ラストで、左右上方にある壁の部分に映るみれん横丁の景色が、カラーから白黒に変わり、またカラーに戻っていく瞬間があった。それが漫画と現実が混ざり合った瞬間のように見えて、なんという演出なんだろうと鳥肌が立った。

二階建ての造りのみれん横丁、何度も出てくるテレサが働く店の楽屋。これをきっと人が動かしているのだと思うと、なんてハードなんだとスタッフさんの仕事に拍手を送りたかった。

 

上京してその日のうちに演歌の大物、北野先生に弟子入りを願い出たものの、始めから相手にしてはもらえなかったコージが、流しの師匠に弟子入りをお願いをする時は、「弟子になります!」というまさかの自己申告パターンで押し通した男気が好きだった。気を良くした流しの師匠について回ることになり、そうして“流しとは”、“歌うこととは”、という大切なことを教わっていく。

 

流しの師匠が店を渡り歩く場面では、実際に次から次に店とお客さんが現れて、その下では働きながら工事現場の仲間に流しの師匠のすごさを話すコージの姿。

場面展開の中で、ここが特に好きだった。自然な流れで現実から回想に移り変わる演出。

歌う曲の選び方について教わっていたオキナワとそして師匠を残してコージが階段を降り、コージは働きながら現場で仲間のおじちゃん2人と一緒に会話を始める。同時進行で流しの師匠とオキナワは店を渡り歩き、二つの場面がスムーズに噛み合い進んでいくのが面白かった。

その働いている現場にテレサが通りかかり、少しばかりの話しをして、そのうちにそれが習慣になっていく感じも、金網越しに聞き耳を立てる同僚をおじちゃんを叩いて追い払うコージの様子も可愛かった。

雨の演出も、霧雨と大雨の場面があり、海外のミュージカルなどでそういった演出があるとは聞いたことがあるけれど実際に見たのは初めてで。文字通りの意味で土砂降りの雨を降らせる演出は、こんなに大胆にステージを濡らして大丈夫なんだろうかと心配になるほどだった。

照明では、コージの家。線路近くのアパート。オキナワが灯りもつけずに居る時の部屋の様子がリアルだった。冷蔵庫の明かりも窓から差し込む光も。

 

コージがテレサの職場の仲間である橋本さんから貰った、人肌に温まった信玄餅をぽーいと投げるところはなんとも言えない間合いと表情で、すごくよかった。ナイス、ノールックコントロール

コージが歌った、「あの故郷へ帰ろかな帰ろかな」という歌詞が耳に残る「北国の春」にテレサは胸を打たれたけど、テレサの仲間のエドゥアルダにはすぐに受け入れられない葛藤があった。帰り道、歌に込められた意味を理解してもらうことができなかったことに肩を落とすコージが「だども…!」とオキナワに訴えかける場面が印象的だった。「わかってるよ、あれは帰れないからこそ故郷を思い出す歌だよな」とコージの悔しさを受け止めるオキナワの言葉と声が優しかった。

歌の持つメッセージが一つだとは限らないけれど、耳に残りやすい部分だけでなく、掘り下げた歌の深みを感じて欲しいというコージの思いは、歌に本気な彼だから抱くものなのだろうなと感じた。


テレサを助け出すと決めたコージにみんなが力を貸し、みれん横丁でデモ隊を装ったバリケードを作り、大合唱で怯ませで追い払ったところで第一幕が降りる。

客席から拍手が起きた。びっくりした。舞台の内容にもよるけれど、幕間に入る前に余韻で拍手が起きるのは珍しいことのように感じて、感動した。

 

ビールを仲良しで飲むコージとテレサにあきれ半分でオキナワが「もうお前らふたりで飲めよ」と言うところが可愛くて、テレサが部屋に入る前にコージの鼻をつついたら、わざわざオキナワのところに寄ってって「ツンってされたっ」と報告に来るコージもなかなかに可愛かった。

テレサとの場面や、穏やかな場面の時に、何度か暗転しながら流れたピアノのメロディーが好きだった。

テレサが仕事を探しなおし、働き出したパン屋さんのおばちゃん二人が優しくて、演じているのはおじちゃんなのがまた面白くて。
六角精児さんが演じる会社の社長に、コージが異議申し立てる時の、引っ越し会社社員に担ぎ上げられたところから見事にぐいーっと上半身を起こすのも凄かった。あれは支える側も大変だし、起き上がる側も体幹を使いそうだと思った。

俺節」で生きていたキャラクターは、みんな魅力的な人間ばかりだ。くせの強い歌唱指導の先生も、スーツを着て歩くその人も、それぞれが自分を生きていた。

 

テレサ拘置所で取調べを受けるシーンで、なんだかんだ和気あいあいとしているテレサと刑事さん。右手でハイタッチのあとにテレサが手を痛がる素振りをして、えっ…っと刑事さんが心配していると、「へへっ」っと無邪気に笑うテレサに、刑事さんが「ジョークかよ」とつっこむ様子がもうだいぶ仲が良くて、観ていて思わず笑顔になった。取り調べにきちんと答え、好かれるほどの、テレサの誠実で人に愛される性格が表れていると思った。

その様子を、いいなーと羨ましそうに見るもう一人の刑事さんとは、妙に手慣れたハンドシェイクをする。あのアメリカンドラマなどでよく見る、手をタッチしてピロピローみたいな動き。テレサはわかるけど、なぜか刑事さんが完璧な動きだった。

 

オキナワとではなく、元アイドル歌手だった寺泊行代とのデビューを聞かされて、始めは抵抗していたものの、その抵抗を諦めてしまったコージ。

ずっと大切にしていた、コージの身体よりも大きな肩幅の紺色の背広を着なくなって、麻で出来たベージュのジャケットに袖を通し、すっかり訛りの無くなったコージを見ている時のざわつく寂しさは、観ていて自分でも戸惑うほどだった。

いつの間にか、青森弁の気弱なコージに愛着が湧いていたのだと気がついた瞬間だった。

 

デビューの話が流れてしまった後で、みれん横丁のゴミの中からばーんっと起き上がって出てくるコージにはシンプルに驚いた。投げやりになっているコージに、離れていったはずのオキナワが北野先生に連れられてやってくる。

オキナワの作った歌の書かれた紙をコージが見られない場面が、すごくよかった。

ただ歌詞の書かれた紙ではない。どれだけの重みがそこにあるかをコージはちゃんと分かっているから、見ることができない。その複雑で切実な心境が痛いほど伝わる場面だった。どうせいい曲なんだべ!見れねぇ!と突き返すコージに、見ろよ!と押し返すオキナワの押し問答が、微笑ましくて切なかった。走って逃げ回って、ゴミ袋を2個掴んでぶん投げるのに、オキナワに当たらず、主に陛下に被害が及んでいるのが不憫だけど面白い。

北野先生と流しの師匠の二人が楽しげに並んで話しをしながら、ふとコージとオキナワの前に立っているのを見た時。コージとオキナワには、がむしゃらに頑張っているうちに気付けば二人の師匠ができていて、見守られていたんだなとハッとした。始めは後ろ盾がないように見えた二人が、いつの間にかこんなにも暖かく見守られて可愛がられていたのだと。

その場面の後でコージがひとりで座り込み俯いているところに、突如みれん横丁の一角からバンッ!と出て来たプロデューサー。コージの前で停止。固まるコージとの沈黙。なぜそこから出て来たのかが最高に謎だった。

 

雷が迫っている野外のイベント会場の場面、STAFFと背中に書かれたジャンパーを着たスタッフが終始あたふたしているのがリアリティーがあって、おもしろい演出だなと彼をつい注目して見ていた。スタッフとして実際の客席を歩いて、客席の方を向いて開演アナウンスをしたり、進行状況を見てこれはダメだと判断して大きくバッテンマークを腕で作って後ろに見せたり。

イベント司会の女性も同じく客席の後ろの方を見て指示を仰ぐ感じを見ているうちに、この劇場全体がイベント会場になったような錯覚が起きて、劇中劇のようにリンクする瞬間のようで楽しかった。

「雨降るらしいわよ」と話しながらアイドルグループのファンやって来て、客席にも話しかけたりしていた時、「ヤン坊マー坊も言ってなかったじゃない」と誰かがさらっと言った。年代なのか、安田さんということを含んでなのか分からないけど、素敵な遊び心で、今言った!と思いながら観ていた。

 

おらのために歌ってくれるなんて

なしておらが歌ってほしい曲がわかったんだ?

そう純粋に感動し、驚いていたコージの姿は、きっと誰もが感じたことのある、あなただけが胸に持っている特別な感情だと思う。

その役を演じていた安田章大さんもまた、その気持ちを与える側の一人であるということが感慨深かった。

“自分の気持ちそのものだ”と感じさせることができるほどの歌、それを作るのも歌うのも、並大抵のことではない。心揺さぶられるほどの力を持った曲は、時に人の命を汲む。これは大げさな表現ではないと思っている。私がそうだったから。

俺節」という舞台に込められた、生きることへの熱や、すがりついてでも貫きたいものがあることの喜びと苦しみを肌で感じて、道の先が見えないどころか道さえ見えない場所に立っている状況だとしても

これだけは信じていたいと、自分の中で感じているものを疑うことはしなかったコージのように、実直でありたいと思った。

 

不器用さを抱え歌で生きる。舞台「俺節」

 

舞台「俺節

原作 土田世紀さん 脚本・演出 福原充則さん

 

観たいなと思っていたけれど、観に行けるとは思っていなかった。

どちらかというともう、観たかったなという過去形の心持ちでいたつもりだった。でもやっぱりどうしても。どうしても観たくなって、これは行くべきだと、当日券にかけることにした。結果キャンセル待ちをおさえることができ、入れる保証はないけど行こうと決めた。当日、おさまらない動悸がするまま列に並び、無事に入ることができた。

 

舞台「俺節」3時間半の時間があっという間に、濃く重く残るものがありながらも一瞬だった。

安田章大さんが、演歌歌手を目指し青森から上京する海鹿耕治(あしかこうじ)通称コージを演じ、シャーロット・ケイト・フォックスさんは家族のため出稼ぎに来た不法滞在中のストリッパー、テレサを演じる。コージのパートナーとなりギターを弾くオキナワ役を福士誠治さんが演じた。

 

舞台を観る前、俺節の原画展を見に行った。

黒のインクと重なり合った線が迫って来るようだった。一つ一つを見ながら、導線に沿って歩いていくと、白い壁の向こうに一面の大きな舞台「俺節」の写真が展示されていた。

思わず息を飲んだ。何度もケータイの画面やパソコンで見ていたはずの同じ写真が、こんなにも違って見えるのかと驚いた。黒のインクと白い紙の原画の中から、飛び出してきたみたいだった。ただ写真を見ていただけでは感じられなかったものが、原画を見たことで強度を増して、ガッと押し寄せて来る感覚だった。

見上げるほど大きな写真には、凛々しく立っているテレサの姿と、こちらを覗き込んで、語りかけてきそうなほど力強い眼差しのコージ。

目が離せなかった。写真なのに、何かを問いかけられているみたいだった。あまりに真っ直ぐなその眼差しから逸らすことができなくて、しばらくじっとその場に立っていた。

 

舞台「俺節」は、尖ったペン先で紙に線を刻み込んでいくかのように、心に跡が残る舞台だった。

ろ過せずそのまま、そこにあるまま。

私はてっきり、コージは生まれ持って歌が上手く、歌うことにおいては自信のある役柄なのかと思っていた。観てみるとそれは違った。気弱で、人前に立つと歌えなくなるコージ。歌いたいのに、声が出ない。「おらはいっつもこうだ」とうずくまり頭を掻きむしるコージを観て、心をつねられる感じがした。

緊張というものに囚われているコージに、共感せずにはいられなかった。頑張りたいのに、今歌いたいのに、身体がいうことを聞かない。思うようにならない。そのもどかしさが、痛いほど分かるからだった。

コージの歌は、歌だけど台詞そのもので。喋っているよりも心の底からの叫びで。歌でしか自分の思いを解放できないコージに師匠がかけた「おまえ 生きづらかっただろう。そんなんじゃ…」という言葉が胸に刺さって、自分が言われているような気持ちにさえなった。

安田さんの演じたコージの歌声は、マイクが広いきれる音のキャパを超えた声量で、もうマイクなのか直に聞こえているのか分からなくなるほどだった。劇場の空間が声でいっぱいになる瞬間が何度もあった。

ギターの軋んだ音が直に聴こえて、生の音であることを感じさせた。CDで聴く時のように程よく整えられた音ではなくて、歪みもジャリジャリとしたノイズも含めてリアルが伝わるギターの音だった。

 

始まりの演出も、一瞬にして雪国へと観客をいざなう演出で、スクリーンに映っていると思っていた吹雪が、スクリーンが開いても降り続けていて、どういう仕掛けなのかと驚いた。それ以外の場面でも、スクリーンとプロジェクションマッピングを使い分け、奥行きを作ったり町並みを変えたり歌詞を映したりと凄かった。

雪国から東京の下町へとセット展開があり、みれん横丁が舞台に現れた時の感動も凄かった。決して綺麗な場所ではないけれど、懐かしいような町並みがずっと向こうまで続いていて、あの横丁を歩いてみたいと思った。身ぐるみ剥がされるのもナポレオンかぶれの隊長に絡まれるのもいやだけど、なんだかんだいって世話を焼いて気にかけてくれるみれん横丁のみんなに囲まれているコージがすこし羨ましく見えた。

 

「おらにだって武器はある」と歌だけを握りしめて東京へ出てきたコージを見て、自分にはそういうものがあるかと考えた時、迷う余地なく思い浮かんだのは文章だった。くどい程わかっているつもりだったけど、やっぱりかと自分に呆れるような、でも嬉しいような、ややこしい気持ちになった。

捨ててしまえと思っても、自分自身が抗いたくなっても、歌なしでは生きていけないのは仕方がないことだとコージの姿から教えられているような感覚だった。コージの、こうしたい!と思ったら猪突猛進で、当てもないのに東京へ出てきて、いきなり演歌の師匠に弟子入りを頼み込む度胸と無鉄砲さも、どこか分かる気がした。

 

コージの歌を聴いた北野先生は、コージに向かって「きみの歌は差出人のない手紙のようだ」「歌はきみ自身でなければいけない」と言った。誰かのためにという思いが先行しすぎて、歌の中にきみが見えないと言った。

俺節」を観ていると、どうにも自分に置き換え考えてしまう。北野先生の言葉も、気付くとコージの立場になって聞き入っていた。この台詞は表現することにおいてどんな形であったとしても重なる部分があると感じる。ニーズに合わせ、空気を読んで、ものを創る。そうすることも時に必要かもしれないけど、根底にあるべきは君自身だと突きつけられた感覚だった。

自分が文章を載せる時、いつも緊張する。文章は自分そのものだから、不安で恐いと思っていた感覚は間違いではなかったんだなと思えた。それではいけないと考えていたけど、それこそが文章の中にしっかりと自分がいる証拠なのだとしたら、このまま進んでいけばいいのかもしれないと思えた。

 

体当たりで不器用なコージの性格は、無知だからこその余白だと言われるのかもしれないけれど、それだけではない。人としての魅力がコージにはあると思った。あの実直さは、真似しようと思ってできることではない。

ヤカラに絡まれ、どれだけ殴られようと、自分が殴られたことに怒るのではなく、おばあちゃんが持たせてくれた背広が傷付いたことに怒り、「おばあちゃんのくれた背広にあやまれ!!」と感情を爆発させるコージ。物に人の気持ちがのっかっていると感じられる感性は、コージが本来持つ特性だと思った。テレサが連れて行かれるのを見て、事情は分からないけどこのまま連れて行くのは“なんかやだな”と言ったのも、理屈じゃなく直感で感じる“違和感”を、そのまま伝えられる素直さは彼の魅力だと思った。

コージは度々、納得がいかない不条理なことに対し「よくわがんねぇ」と口にしていた。その分からなさを大事に無くさずいてほしいと思った。コージの言う“分からない”は、分からないままでいいことだと思う。オキナワたちがいつの間にか身につけた、納得して、穏便に生きるための賢さを、コージは持たないまま生きているように見えた。だからあんなにも生きづらい。

 

1990年代、流しの仕事がカラオケに追いやられ始めていた時代。

「歌にすがるしかねぇんだ」と言った、流しの師匠の言葉が胸に響いて、忘れられなかった。

すがる。その言葉が自分には虚しさだけでなく希望のように聴こえたからだった。今の自分で「俺節」を観たら、コージに感情移入をせずにはいられなかった。心からの叫びで、これしかないとすがっているものが自分にもあるからだった。

これしかない。は希望なのだろうかと「味園ユニバース」を映画館で観て以来、いつも考える。ポチ男にとってのこれしかないは「古い日記」であり“歌”だった。コージにとっては演歌。オキナワにとってはギター。最大の楽しさと最大の苦しさが表裏一体になっているというのは厄介だと思う。厄介だけど、それがあるから彼らは生きていけるのかもしれない。

テレサは、ウクライナから出稼ぎに来て、家族のためにと自分を削って生きていた場所から、コージの歌の中に自分を見つけ、自分を引っ張り戻すことができた。彼女の生き方もまた、大きな葛藤と使命感の中でもがく生き方だったと思う。

 

テレサを失い、オキナワも居ない、たった一人で前座として観客の前に出て行くコージ。

オレンジのスポットライトの強い明かりがこちら側に向かって点いていたのは、コージに見えている景色を体感してもらうためなのだろうかと感じた。本来であれば、ライトは演者に向かって前から照らすはずで、それがこちらを向いている意図はなんだろうと考えた。コージの姿を見ながらコージが見ている景色を見ているような不思議な感覚になり、スポットライトを浴びるというのはこんな感じだろうかと思った。

眩しくて、眼を細めたくなる強い光のなか、ステージに立つということの高揚感とさびしさを同時に思った。

刑事さんのはからいによって、駆けつけることができたテレサテレサとコージが「あ」の一音だけで通じ合えたのは、そこに心からの叫びがあったからだと思った。コージの歌を初めて聞いた時、言葉が分からなくても心に届いたものがあったと話した、テレサの言葉の通りだった。

可憐なだけではない、テレサの勇ましさは魅力的で、時々見せる強気なところが好きだった。普段は可愛らしい声のテレサが、姉さん女房のように声を低くして話す時の迫力はコージの背筋を伸ばすのにもってこいで、気の抜けた歌で諦めようとしたコージに叱咤激励を送り、ドスの効いた声で「さんはい!」と歌いなおしを促したテレサが最高にかっこよかった。

 

覚悟を決め、土砂降りのなかギターを搔き鳴らし、ゴミを投げられて足元一面にゴミが散乱しても歌うことをやめないコージがずっと目に焼き付いている。

本来ならば心が折れるほど散々な状態のステージで、足元を見ず一心に歌うコージの姿。

時間なんです…と言いづらそうに声を発する刑事さんに連れられ、テレサが行かなければいけない間際、そっと頷いた仕草。続けて。歌って。という気持ちが、言葉なしでも小さな動作ひとつで伝わった。あの時、テレサを追いかけず歌い続けられたコージなら、大丈夫だと思った。

 

どれほど力の限りを振り絞っても、事実あの場の空気を動かして人の心に残るものを魅せたとしても、次の日の新聞に取り上げられたのは無名ではなく有名な方だった。そこにコージの名前はない。思い描くよりも辛辣な現実が待っていた。

でも、次の日、初めてみれん横丁に朝がきた。ずっと夜の街だったみれん横丁に、青空が見えた。段々と夕陽に変わり、また夜がきた。回し読みが基本なはずの、みれん横丁のみんなが、我慢できずにあちこちで拾ったんだか買ったんだかわからない新聞を手に持って、なんでうちのコージが載ってねぇんだと口々に抗議する。

見ない顔の新入りだったはずのコージがこんなにも可愛がられ、みれん横丁の誇りになっていたんだということがわかる、この場面がなにより温かかった。

そこへ新聞を手に持って落ち込んだ様子のコージを、オキナワがなぐさめながら、みれん横丁に帰ってくる。いいじゃねぇかと言うオキナワに、「でも…」としょぼくれた顔のコージ。納得できずに肩を落としているコージが可愛かった。

 

はっきりとした成功を掴むとはいかないラストだった舞台「俺節」は、どう受け止めるか、その後をどう思い描くかを観ている側に託してくれた気がした。

コージを、限界突破するほどの熱で演じきった安田章大さん。舞台に姿を表した瞬間から、まとう空気は紛れもなくコージだった。原画展を見ただけで、舞台を観るのは初めてだったけれど、初めて見た時からカーテンコールになるまで、関ジャニ∞で見た安田章大さんは見えなかった。コージが歌うたびに、観ている自分の腕や脚に鳥肌がぞわぞわっと上がってくるのを感じて、なんだこの感覚…と衝撃だった。演じているのは間違いなく関ジャニ∞安田章大さんだけど、歌声もグループやソロ曲でこれまで聴いていた声とは異質なものだった。

シャーロットさんの演じるテレサの存在によって空気が華やぎ、美しく通る声は癒しだった。シャーロットさんが本気で歌ったら、圧倒される歌声の持ち主であることはわかっているからこそ、片言でおずおずと歌う姿が一層愛らしく、そしてある拍子にみせた聴かせる歌声がグッと際立った。

私が居ることであなたに荷を負わせたくないと身を引こうとするテレサを見ていて、関ジャニ∞の「七色パラメータ」をふいに思い浮かべた。あの歌も、夢を見つけてしまった主人公と見送る恋人の話だと思っている。

 

確かに失うものが無くなった強さというものはあるだろうけど、失いたくないものを抱えている時のコージの歌が好きだった。

本気でいるのはしんどい。全力で思えば思うほどこんなにも悔しい。それを包み隠さず、恥ずかしがることなく全てをさらけ出して生きるコージが目の前にいて、必死さや不格好であることの何が悪いと体現している姿を見たら、自分の熱を抑えて冷静さを保とうとすることの不必要さを感じた。

あがり症で上手くいかず、どれだけ失敗を経験したとしても歌おうとすることだけはやめなかったコージと、「失敗したいんです」と本気で願ったテレサと。それを見守り、失敗させてあげたいと行動を起こしたテレサの仲間。行動を起こしたい!と思った時、失敗がしたいと言えるほどの勇気が自分にはあるだろうかと考えた。

自分にとって「俺節」は自分の中にある覚悟を問われる舞台だった。