不器用さを抱え歌で生きる。舞台「俺節」

 

舞台「俺節

原作 土田世紀さん 脚本・演出 福原充則さん

 

観たいなと思っていたけれど、観に行けるとは思っていなかった。

どちらかというともう、観たかったなという過去形の心持ちでいたつもりだった。でもやっぱりどうしても。どうしても観たくなって、これは行くべきだと、当日券にかけることにした。結果キャンセル待ちをおさえることができ、入れる保証はないけど行こうと決めた。当日、おさまらない動悸がするまま列に並び、無事に入ることができた。

 

舞台「俺節」3時間半の時間があっという間に、濃く重く残るものがありながらも一瞬だった。

安田章大さんが、演歌歌手を目指し青森から上京する海鹿耕治(あしかこうじ)通称コージを演じ、シャーロット・ケイト・フォックスさんは家族のため出稼ぎに来た不法滞在中のストリッパー、テレサを演じる。コージのパートナーとなりギターを弾くオキナワ役を福士誠治さんが演じた。

 

舞台を観る前、俺節の原画展を見に行った。

黒のインクと重なり合った線が迫って来るようだった。一つ一つを見ながら、導線に沿って歩いていくと、白い壁の向こうに一面の大きな舞台「俺節」の写真が展示されていた。

思わず息を飲んだ。何度もケータイの画面やパソコンで見ていたはずの同じ写真が、こんなにも違って見えるのかと驚いた。黒のインクと白い紙の原画の中から、飛び出してきたみたいだった。ただ写真を見ていただけでは感じられなかったものが、原画を見たことで強度を増して、ガッと押し寄せて来る感覚だった。

見上げるほど大きな写真には、凛々しく立っているテレサの姿と、こちらを覗き込んで、語りかけてきそうなほど力強い眼差しのコージ。

目が離せなかった。写真なのに、何かを問いかけられているみたいだった。あまりに真っ直ぐなその眼差しから逸らすことができなくて、しばらくじっとその場に立っていた。

 

舞台「俺節」は、尖ったペン先で紙に線を刻み込んでいくかのように、心に跡が残る舞台だった。

ろ過せずそのまま、そこにあるまま。

私はてっきり、コージは生まれ持って歌が上手く、歌うことにおいては自信のある役柄なのかと思っていた。観てみるとそれは違った。気弱で、人前に立つと歌えなくなるコージ。歌いたいのに、声が出ない。「おらはいっつもこうだ」とうずくまり頭を掻きむしるコージを観て、心をつねられる感じがした。

緊張というものに囚われているコージに、共感せずにはいられなかった。頑張りたいのに、今歌いたいのに、身体がいうことを聞かない。思うようにならない。そのもどかしさが、痛いほど分かるからだった。

コージの歌は、歌だけど台詞そのもので。喋っているよりも心の底からの叫びで。歌でしか自分の思いを解放できないコージに師匠がかけた「おまえ 生きづらかっただろう。そんなんじゃ…」という言葉が胸に刺さって、自分が言われているような気持ちにさえなった。

安田さんの演じたコージの歌声は、マイクが広いきれる音のキャパを超えた声量で、もうマイクなのか直に聞こえているのか分からなくなるほどだった。劇場の空間が声でいっぱいになる瞬間が何度もあった。

ギターの軋んだ音が直に聴こえて、生の音であることを感じさせた。CDで聴く時のように程よく整えられた音ではなくて、歪みもジャリジャリとしたノイズも含めてリアルが伝わるギターの音だった。

 

始まりの演出も、一瞬にして雪国へと観客をいざなう演出で、スクリーンに映っていると思っていた吹雪が、スクリーンが開いても降り続けていて、どういう仕掛けなのかと驚いた。それ以外の場面でも、スクリーンとプロジェクションマッピングを使い分け、奥行きを作ったり町並みを変えたり歌詞を映したりと凄かった。

雪国から東京の下町へとセット展開があり、みれん横丁が舞台に現れた時の感動も凄かった。決して綺麗な場所ではないけれど、懐かしいような町並みがずっと向こうまで続いていて、あの横丁を歩いてみたいと思った。身ぐるみ剥がされるのもナポレオンかぶれの隊長に絡まれるのもいやだけど、なんだかんだいって世話を焼いて気にかけてくれるみれん横丁のみんなに囲まれているコージがすこし羨ましく見えた。

 

「おらにだって武器はある」と歌だけを握りしめて東京へ出てきたコージを見て、自分にはそういうものがあるかと考えた時、迷う余地なく思い浮かんだのは文章だった。くどい程わかっているつもりだったけど、やっぱりかと自分に呆れるような、でも嬉しいような、ややこしい気持ちになった。

捨ててしまえと思っても、自分自身が抗いたくなっても、歌なしでは生きていけないのは仕方がないことだとコージの姿から教えられているような感覚だった。コージの、こうしたい!と思ったら猪突猛進で、当てもないのに東京へ出てきて、いきなり演歌の師匠に弟子入りを頼み込む度胸と無鉄砲さも、どこか分かる気がした。

 

コージの歌を聴いた北野先生は、コージに向かって「きみの歌は差出人のない手紙のようだ」「歌はきみ自身でなければいけない」と言った。誰かのためにという思いが先行しすぎて、歌の中にきみが見えないと言った。

俺節」を観ていると、どうにも自分に置き換え考えてしまう。北野先生の言葉も、気付くとコージの立場になって聞き入っていた。この台詞は表現することにおいてどんな形であったとしても重なる部分があると感じる。ニーズに合わせ、空気を読んで、ものを創る。そうすることも時に必要かもしれないけど、根底にあるべきは君自身だと突きつけられた感覚だった。

自分が文章を載せる時、いつも緊張する。文章は自分そのものだから、不安で恐いと思っていた感覚は間違いではなかったんだなと思えた。それではいけないと考えていたけど、それこそが文章の中にしっかりと自分がいる証拠なのだとしたら、このまま進んでいけばいいのかもしれないと思えた。

 

体当たりで不器用なコージの性格は、無知だからこその余白だと言われるのかもしれないけれど、それだけではない。人としての魅力がコージにはあると思った。あの実直さは、真似しようと思ってできることではない。

ヤカラに絡まれ、どれだけ殴られようと、自分が殴られたことに怒るのではなく、おばあちゃんが持たせてくれた背広が傷付いたことに怒り、「おばあちゃんのくれた背広にあやまれ!!」と感情を爆発させるコージ。物に人の気持ちがのっかっていると感じられる感性は、コージが本来持つ特性だと思った。テレサが連れて行かれるのを見て、事情は分からないけどこのまま連れて行くのは“なんかやだな”と言ったのも、理屈じゃなく直感で感じる“違和感”を、そのまま伝えられる素直さは彼の魅力だと思った。

コージは度々、納得がいかない不条理なことに対し「よくわがんねぇ」と口にしていた。その分からなさを大事に無くさずいてほしいと思った。コージの言う“分からない”は、分からないままでいいことだと思う。オキナワたちがいつの間にか身につけた、納得して、穏便に生きるための賢さを、コージは持たないまま生きているように見えた。だからあんなにも生きづらい。

 

1990年代、流しの仕事がカラオケに追いやられ始めていた時代。

「歌にすがるしかねぇんだ」と言った、流しの師匠の言葉が胸に響いて、忘れられなかった。

すがる。その言葉が自分には虚しさだけでなく希望のように聴こえたからだった。今の自分で「俺節」を観たら、コージに感情移入をせずにはいられなかった。心からの叫びで、これしかないとすがっているものが自分にもあるからだった。

これしかない。は希望なのだろうかと「味園ユニバース」を映画館で観て以来、いつも考える。ポチ男にとってのこれしかないは「古い日記」であり“歌”だった。コージにとっては演歌。オキナワにとってはギター。最大の楽しさと最大の苦しさが表裏一体になっているというのは厄介だと思う。厄介だけど、それがあるから彼らは生きていけるのかもしれない。

テレサは、ウクライナから出稼ぎに来て、家族のためにと自分を削って生きていた場所から、コージの歌の中に自分を見つけ、自分を引っ張り戻すことができた。彼女の生き方もまた、大きな葛藤と使命感の中でもがく生き方だったと思う。

 

テレサを失い、オキナワも居ない、たった一人で前座として観客の前に出て行くコージ。

オレンジのスポットライトの強い明かりがこちら側に向かって点いていたのは、コージに見えている景色を体感してもらうためなのだろうかと感じた。本来であれば、ライトは演者に向かって前から照らすはずで、それがこちらを向いている意図はなんだろうと考えた。コージの姿を見ながらコージが見ている景色を見ているような不思議な感覚になり、スポットライトを浴びるというのはこんな感じだろうかと思った。

眩しくて、眼を細めたくなる強い光のなか、ステージに立つということの高揚感とさびしさを同時に思った。

刑事さんのはからいによって、駆けつけることができたテレサテレサとコージが「あ」の一音だけで通じ合えたのは、そこに心からの叫びがあったからだと思った。コージの歌を初めて聞いた時、言葉が分からなくても心に届いたものがあったと話した、テレサの言葉の通りだった。

可憐なだけではない、テレサの勇ましさは魅力的で、時々見せる強気なところが好きだった。普段は可愛らしい声のテレサが、姉さん女房のように声を低くして話す時の迫力はコージの背筋を伸ばすのにもってこいで、気の抜けた歌で諦めようとしたコージに叱咤激励を送り、ドスの効いた声で「さんはい!」と歌いなおしを促したテレサが最高にかっこよかった。

 

覚悟を決め、土砂降りのなかギターを搔き鳴らし、ゴミを投げられて足元一面にゴミが散乱しても歌うことをやめないコージがずっと目に焼き付いている。

本来ならば心が折れるほど散々な状態のステージで、足元を見ず一心に歌うコージの姿。

時間なんです…と言いづらそうに声を発する刑事さんに連れられ、テレサが行かなければいけない間際、そっと頷いた仕草。続けて。歌って。という気持ちが、言葉なしでも小さな動作ひとつで伝わった。あの時、テレサを追いかけず歌い続けられたコージなら、大丈夫だと思った。

 

どれほど力の限りを振り絞っても、事実あの場の空気を動かして人の心に残るものを魅せたとしても、次の日の新聞に取り上げられたのは無名ではなく有名な方だった。そこにコージの名前はない。思い描くよりも辛辣な現実が待っていた。

でも、次の日、初めてみれん横丁に朝がきた。ずっと夜の街だったみれん横丁に、青空が見えた。段々と夕陽に変わり、また夜がきた。回し読みが基本なはずの、みれん横丁のみんなが、我慢できずにあちこちで拾ったんだか買ったんだかわからない新聞を手に持って、なんでうちのコージが載ってねぇんだと口々に抗議する。

見ない顔の新入りだったはずのコージがこんなにも可愛がられ、みれん横丁の誇りになっていたんだということがわかる、この場面がなにより温かかった。

そこへ新聞を手に持って落ち込んだ様子のコージを、オキナワがなぐさめながら、みれん横丁に帰ってくる。いいじゃねぇかと言うオキナワに、「でも…」としょぼくれた顔のコージ。納得できずに肩を落としているコージが可愛かった。

 

はっきりとした成功を掴むとはいかないラストだった舞台「俺節」は、どう受け止めるか、その後をどう思い描くかを観ている側に託してくれた気がした。

コージを、限界突破するほどの熱で演じきった安田章大さん。舞台に姿を表した瞬間から、まとう空気は紛れもなくコージだった。原画展を見ただけで、舞台を観るのは初めてだったけれど、初めて見た時からカーテンコールになるまで、関ジャニ∞で見た安田章大さんは見えなかった。コージが歌うたびに、観ている自分の腕や脚に鳥肌がぞわぞわっと上がってくるのを感じて、なんだこの感覚…と衝撃だった。演じているのは間違いなく関ジャニ∞安田章大さんだけど、歌声もグループやソロ曲でこれまで聴いていた声とは異質なものだった。

シャーロットさんの演じるテレサの存在によって空気が華やぎ、美しく通る声は癒しだった。シャーロットさんが本気で歌ったら、圧倒される歌声の持ち主であることはわかっているからこそ、片言でおずおずと歌う姿が一層愛らしく、そしてある拍子にみせた聴かせる歌声がグッと際立った。

私が居ることであなたに荷を負わせたくないと身を引こうとするテレサを見ていて、関ジャニ∞の「七色パラメータ」をふいに思い浮かべた。あの歌も、夢を見つけてしまった主人公と見送る恋人の話だと思っている。

 

確かに失うものが無くなった強さというものはあるだろうけど、失いたくないものを抱えている時のコージの歌が好きだった。

本気でいるのはしんどい。全力で思えば思うほどこんなにも悔しい。それを包み隠さず、恥ずかしがることなく全てをさらけ出して生きるコージが目の前にいて、必死さや不格好であることの何が悪いと体現している姿を見たら、自分の熱を抑えて冷静さを保とうとすることの不必要さを感じた。

あがり症で上手くいかず、どれだけ失敗を経験したとしても歌おうとすることだけはやめなかったコージと、「失敗したいんです」と本気で願ったテレサと。それを見守り、失敗させてあげたいと行動を起こしたテレサの仲間。行動を起こしたい!と思った時、失敗がしたいと言えるほどの勇気が自分にはあるだろうかと考えた。

自分にとって「俺節」は自分の中にある覚悟を問われる舞台だった。