舞台「泥棒役者」映画からのカムバック、直に伝わる温度感。−後編

 

その前園俊太郎先生の新しい編集者としてやって来た、佐津川愛美さんの演じる、奥さん。

彼女もまた、葛藤を抱えている。懸命に仕事をしているつもりが裏目に出て、「君の意見はいらないんだ。」と編集長に言い切られてしまう。そう言われた時の奥さんは、手に力が入ってつらそうな表情で、そりゃあ胃にくるはずだ…と感じるほど切ないシーンだった。

そのシーンに切り替わる時の、轟さんとの会話の流れからふわっと体をひるがえして、奥さんにスポットライトが当たり、2階部分に編集長が登場。職場シーンに切り替わるというスムーズさも素敵だった。

 

マッシュが懸命に説明するのを遮って、「違いません」と奥さんが言うシーンは、映画と同じく「うそだ」と台本に書かれていたのを、稽古で「違いません」に変えたと西田監督がラジオでお話しされていた。

ラジオではさらに、佐津川愛美さんのお芝居についてという話題のなかで、「舞台はどこを見ても自由。台詞がない人が、台詞を次言うまでどう動くかって実は大事で」と西田監督は話していた。台詞ではないところを見るのっていじわるかなと思いつつも、どういうお芝居をしているのか気になって、台詞のない人をじっと見てしまう自分としては、それを良しとしてもらえた気がして嬉しかった。

そして実際に、佐津川愛美さんは轟さんが話している間も、はじめくんが原稿を待たせている間も、手帳に書き物をしていたり考えごとをしている顔だったりと、持て余す隙間を感じさせない細かな演技をしていて、次の台詞への自然な心理の流れが見てとれた。

 

その奥さんが、みんなで童話の新しいアイデアを考えている最中に、「意見…言っていいんですか?」と言った時の、はじめの顔が印象深かった。柔らかく笑って、もちろんというような表情。みんなの包み込むみたいな空気。舞台を直に観て、あの場で体感するからこその温かい温度感があった。

 

そして隣人の高梨仁。演じている川島潤哉さんの空気感がすごくて、この人は一度クレームに来たら帰らない…!と直感で分かる存在感だった。

あんなにやっかいな人いない…と思うのに、舞台ではチャーミングさが驚くことに増していて、ええ声で「恋はメデューサ」を歌うところとか、いちいち遠くにガンつけて帰って行くところとか、動画撮影ではじけてお茶目な一面だしてくるところとか、えっ可愛い…?!?と内心戸惑わずにはいられないキャラクターの濃さ。

英語で奥さんに捲し立てられて何も言えず、最後にアーハン?とだけ返すやり取りがそのまま観られたことに、テンションが上がった。

 

通報を受けて前園邸に来る警官や、編集長、チンピラ、ピロピロ星人、そしてデーブ・ロスにいたるまで何変化もしていた後藤剛範さんは、体格の良さから警官役の違和感が全く無くて、しかもデーブ・ロスの時の英語は適当ではなくちゃんと訳通りの英語を話していた。発音もネイティブ意識で、わりと綺麗。そしてデーブの撤退が驚くほど静かで早い。

佐津川愛美さんと後藤剛範さんは、舞台「フレンド-今夜此処での一と殷盛り-」以来で観られたお二人だったから、それもすごく嬉しかった。

 

 

どのシーンが来れば終わりが近いか、何度も映画で観ていて分かるからこそ、終盤ではじめが玄関で黒のスニーカーを履いて行こうとするのを見ていて、ああここを出てしまったらはじめを見ていられる時間が終わってしまうんだと寂しくなった。何かまた轟さんやマッシュがやらかして、居なくてはいけないことにならないかと願いたくなった。

 

今度こそ、本当に前園邸を出て行くという時に、はじめが玄関で振り返って

「では。おじゃましました。」と言った。

マッシュに向けて言った、「おじゃましました」の言葉。何気ない挨拶のようで、はじめとマッシュの関係性が確かに変わったことを感じさせる大切な言葉だと感じた。泥棒として忍び込んだはじめが、家主に挨拶をして出て行くことになるなんて。

泥棒に入るつもりで、忍び込んだお屋敷。家主に会ってしまうのはご法度で、バレたら一巻の終わり。…のはずだったのに。

 

「書くことは過去と向き合うことだったんじゃないですか?」

と、はじめであるモジャからマッシュへの言葉。

マッシュの妻が原画の中に託した手紙を読んでもなお、「肝心なことが書かれていないからどうにも…」と思いが定まらずにいるマッシュに話しかけるはじめくんの声が優しくて、なんだかとても響いてくる台詞だった。

 

 

舞台版では、はじめの過去を工場の人たちにバラすぞとのりおに脅されて盗みに入る。

もう1人の泥棒仲間コウジは本屋さんで働いていて、彼もまた職場にバラすぞと脅されて、共に盗みに入る。物語の終わりで、本屋さんでの仕事でよければ紹介しますよ!とのりおに言うやりとりがあって、ああこれがタマの着ぐるみを着ることになった経緯になったりするのかなとほのかに感じられた。

「二度とツラ見せるんじゃねぇぞ」と捨て台詞吐いて行くのりおに、「いや今回ツラ見せたのはのりおさんの方じゃないっすか」と追いかけて行くコウジ。

 

はじめにとって、帰らなくてはいけない理由が舞台では彼女の美沙の存在ではなくなっているわけだけど、それはきっと観る側の想像の自由に任されていて、映画を加味して美沙の存在をイメージしてもいいし、このパラレルワールドでは、はじめ自身がここから出たいと願って翻弄されていると考えてもいいのだと思う。

すごいと感じたのは、映画でははじめのバックグラウンドを軸にストーリーを描いて、その動機として美沙の存在があったのだけど、舞台では前園邸だけで本編の展開が完結していて、

はじめが逃げたがる気持ちも、無事外へ出てからの抱く気持ちも、納得できる説得力を持って描き切っているところだった。

ラストシーンの表情で充分に、はじめがこれからの人生をどう歩んで行こうと決意しているのか想像することができた。

 

映画でも舞台でも、のりおの恐さは変わらずだったけど、そこにコウジという存在がクッションにあることで、なんだか少し、のりおがここまで捻くれる前の人間性を垣間見られる気がした。

「先輩も、まだ終わってないニャー。ですよ」

はじめの声のトーンを直に聞いて、その真剣な温度にじんわり心が温かくなった。どんな言葉もはじめは一生懸命に話していて、そこには計算や嘘がない。

その言葉を言われたのりおが、はじめに差し出されたお札をグシャッと掴んで去って行く時、掴み取ったのを見てコウジが「あっ」と言っていて、取るんだというようなニュアンスにくすっときた。

先に去って行ったのりおの後で、コウジがはじめに向かってごめんなって手を合わせるジェスチャーをして離れて行く。驚いたようなほっとしたような表情を浮かべるはじめの表情が目に焼きついた。

 

嬉しそうに机に向き合い、原稿に筆を走らせるマッシュと、前を向いて遠くを見ながら、潤むような目で、だけど強く見据えているはじめの構図が、くっきりと記憶に残っている。

 

そこで、起きていることを、ここで、見ている。

舞台のその単純なところが一番すごい。映画だからこその良さがあるし、映画だからできることがあるけれど、演出や方法に制限があるからこそのやり方で、目の前で人が創り出している“時間”を見ていること。人がつくるものを人が見ていること。そのどれもが、貴重ですごいことなのだと、舞台を観るたび感動してしまう。

泥棒役者」は、勘違いに偶然が重なる、噛み合わないチグハグさが大切な舞台。

それゆえに、台詞の息が合い過ぎてしまっても違和感になる気がしていて、難しいバランスなのではと思った。

実際に西田監督がbayfmのラジオ「ためになるラジオ」で、“測ってみたところ、稽古の時より11分早くなっていた時があった。感情が慣れてきて早くなっちゃったり。だからそういうのを微調する”と話していて、やはり間合いが掴めていけばいくほど、前に前に加速してしまうことはあるのだと知った。

回を重ねても初々しくあることの難しさがきっとあって、それでも舞台で「泥棒役者」を上演して、1日1日その日限りの劇場の空気感の中で、はじめやマッシュたちは生きていると思えることが、とてもうれしかった。

 

舞台を観て、思い入れができるたびに、自分のなかに大切な本が一冊ずつ並んでいくような感覚になる。

大切に並べたこの一冊も、何度も読み返して、持ち続けていくのだと思う。