「レアンドロ・エルリッヒ展:見ることのリアル」

 

何年かぶりに六本木に行く機会ができて、予定までの時間どこかを散策するつもりでいたら、森美術館で開催されている「レアンドロ・エルリッヒ展」のポスターが目に止まった。

このポスターに意識が向いたのは、テレビのニュースで取り上げられているのを見ていたことと、雑誌FUDGEで掲載されていたのを見ていたからだった。

気になるな、行けたらいいなと思いながら、森美術館がどこなのかも調べずにいたら、他の予定で来た六本木ヒルズがまさに開催地だった。意図せずこんなに近くに来るなんてと思いながら、せっかく時間もあるわけだし、見ていこうかと一緒に来ていた友人と意見が一致した。

初めての森美術館。1,800円の入場料を払い、中に入る。この入場料で展望台にも入れるので、お値段としてはいいなと思った。

 

この美術展は、言葉で伝えるのがとても難しい。しかし、来てよかったと思える本当に素晴らしい美術展だったので、ぜひ魅力を伝えておすすめしたい。

メインとしてポスターの写真にも使われている展示は、まるで人が壁にぶら下がっているように見える作品。重力を頭が勝手に想像するからこそ、不思議な視覚の違和感が生じて、目と脳が錯覚を起こす。

レアンドロ・エルリッヒという人を知らないつもりでいたけれど、金沢の美術館にある“プールの展示”と聞いて、すぐに分かった。いつか見に行きたいと思っていた、金沢21世紀美術館にある「スイミング・プール」という展示。とても有名な作品だった。ブエノスアイレス生まれの芸術家で、視覚的な錯覚や、日常の中で知らず知らずのうちに染み付いた先入観を用いて、その概念をくつがえしていく作品を数多く作りだしている。

 

タイトルにある通り、「見ることのリアル」という言葉は正しくこの展示に相応しい表現だった。

自分は正直に言って、美術館が苦手だった。沢山の人がいる中で列に並び、決まった導線で進んで行く展示方法があまり楽しめず、どんどんと前へ進んで行ってしまって結局印象に残らないことが多かった。

その美術館への固定概念ごとくつがえされたのが、今回の「レアンドロ・エルリッヒ展」だった。

見ているだけでなく、体感して、自らそのアートの中へと入っていく。それも非現実的な空間ではなく、日常で当たり前に見てきた景色を新たな角度から観察することで、当たり前がどれだけ当たり前ではなかったかを体感することになる。

展示の順番や流れは大まかにあるものの、決まった道がしっかりと組まれているわけではないので、自由に歩くことができる。壁沿いにジリジリと歩く必要はなかった。今回、平日の午後14時ごろに行ったこともあってか、人が少なくゆったりと見られたこともよかったなと思う。

 

特に面白かったのは「隣人」というタイトルのドアの作品と、「美容院」という作品だった。

トリックを明かしてしまってはつまらないので、表現が難しいけれど、「美容院」という展示は特に驚きで、“そうか、思い込んでいたんだ”と気付かされた瞬間の衝撃は、脳が初めて感じる感覚だった。

この展示の凄いところは、いつの間にか張られていた伏線に気付くというドラマティックさがあるところ。美術展に伏線を張ることが出来るのだと、そんな方法で人の脳は騙せてしまうのかと何重もの驚きがあった。

 

「試着室」という作品は、永遠と続く試着室の景色に戸惑い、どこが鏡でどこが通れるのかが分からない。ぶつかりそうで恐くて、恐る恐る手を伸ばしながら進んで行く。よく見れば分かるはずと自分でも思うのに、あの中に入ってしまうと脳が完全に混乱し訳が分からなくなる。あまり長く居ると酔ってしまいそうなほどだった。

それほど人の脳というのは、“ここにある”という先入観に行動が左右されるということを、身をもって感じた。

 

「地下鉄」という作品も面白い。ひたすら地下鉄の隣の車両の景色が見え続けているという展示なのだけれど、そこにあるから当たり前だと思っていたものを改めてまじまじと見つめると、面白さがわいてくる。不思議な感覚だった。

 

 

レアンドロ・エルリッヒは、森美術館のページに掲載されているメッセージのなかで

私の作品を通して、みなさん一人一人が「日常においてわたしたちがいかに無意識のうちに行動しているか」、そして「いかに常識や既成概念にとらわれ凝り固まった見方をしているか」ということに気付き、現実を問い直すきっかけとなれば嬉しいです。

現実はひとつだけではない。それこそが現実なのではないでしょうか。

と、話している。

展示はまさにこの言葉通りのもので、それは日常にある物体についての物事だけでなく、人と対面するとき、自らの頭の中の考えと向き合うとき、どんなときであっても当てはまるものだと感じた。

日頃から、自分の先入観は全くあてにならないと思いながら生きている。それは自分を信用していないということではなくて、知らない物事を目にするとき、すでに頭の中にあるイメージは、自分の知っている範囲でしかないということを自覚することだと思っている。

 

今回、この時期に六本木に訪れて、「レアンドロ・エルリッヒ展」と遭遇できたことは貴重な経験になった。

展示は来年の2018年、4月1日まで行われている。これほど、自ら足を運んで目にする意味のあるものとの出会いはそうない。ぜひ興味を持たれた方は、行って実際に自分の目で見て、体験してほしい。 

 

はちゃめちゃだから愛くるしい。映画「泥棒役者」の魅力【感想 ネタばれなし】

 

“君は、誰?”

泥棒役者」のホームページを見た時から、この言葉の書かれた写真が印象に残っていた。なんだかドキッとするようなキャッチコピー。

 

足を洗ったはずだった元・泥棒は、かつての仲間に脅されて、とある豪邸に忍び込んだ。忍び込んだものの気乗りせず、こんなことはやめようと懸命に説得していると、突如訪問してきたセールスマンの男。

「ご主人様ですよね?」

「……そうですー…」

逃れられず口にしてしまった一言から、元・泥棒は様々な役を演じる羽目に。

 

始まりの数分間を観て、この映画が好きになった。

全体に漂う空気感、セリフの言い回し、登場人物たちの佇まい、一つ一つが穏やかだった。けれどそこには日常のリアルな空気もあり、肌の質感や日常の景色は私たちが生活している世界と変わりなく、何もかもが浮世離れしているということではない。だからこそ、痛みを覚えるような、人の不器用で格好のわるい部分が正直に描かれていて、暖かさと痛みの両方を西田征史監督の作品からは感じる。

シチュエーションは非日常なのに、観終えた後は日常がすくい上げられる気持ちになった。

 

元・泥棒の大貫はじめ役を演じるのは、関ジャニ∞丸山隆平さん。

丸山さんの演じるはじめは、真面目で根が優しい。それゆえに断ることができず流されてしまうけど、相手の機微を読み、そこに寄り添うことのできる人物。

この役を演じるのは丸山隆平さんがいいと、映画を観終わった後も思った。それほど役と丸山さんの息が合っていて、魅力がスクリーンいっぱいに溢れていた。

 

ストーリーの中心となるのは絵本作家の前園先生の豪邸、本編のほとんどがこの室内で巻き起こるというチャレンジの見応えも凄かった。

泥棒役者」は元が舞台で、舞台となれば観客は視点を思い思いに動かすことができる。しかし映画となると、カメラがどこを映すのかによって視点が決まってくる。けれど、約二時間のあいだ景色を見飽きたりすることはなかった。それぞれの表情や目の動きに引きつけられて、休む暇なく常に誰かの視線を追う楽しさ。

色彩から見る色の楽しさもあり、特徴的なのは壁紙。メインとなる部屋のブルーの壁紙と模様。別の部屋にはピンクの壁紙にバクの柄。

登場人物ごとにイメージされる色もあり、元泥棒・大貫はじめは青、絵本作家・前園俊太郎は赤、編集者・奥絵里子は黄色、セールスマン・轟は緑と、ふと気づくと4人並んだ色合いが可愛らしい。大貫はじめから連想される色が青で、壁紙が青なことでアウェイでありながらホームのような印象があった。

 

カメラが部屋の中をぐるぐると動き回って撮っているのに、部屋の中に2つも鏡を置いていることに気づいた時、なんてチャレンジなんだ…とドキドキした。卓上鏡と、全身鏡。気になりだすと注目して観てしまうのだけど、これがカメラマンさんもスタッフさんも決して映り込まない。むしろさり気なくカメラの動きに合わせて鏡の中にタマとミキの銅像が写り込んでいて、巧みな技術に感動した。

一度目の鑑賞は作品に集中して、二度目以降は一体どうやって撮られているのかを想像しながら観るのも楽しい。

 

劇中のあるシーンで、秋の虫の声が微かに聞こえることに気づき、夜を感じた。

気のせいでなければ、部屋の外の音もしっかりと作り込まれていることに驚いた。考えてみると、映画の中で“時計”が印象的に用いられることは無かった。時計の動きを画面に映さず、体感時間と光の加減、時折映る空の色で、時の流れを自然と感じていたことに気づく。

室内劇というシチュエーションで、説明にならず自然と時間の動きを表現しているのがすごかった。

 

過去から足を洗って堅実に生きようとしている大貫はじめと、過去に何度も戻って行ってしまう泥棒の畠山則男。変わることのできた彼と、変われずにいる彼の何が違うのかについて考えさせられた。

無かったことにはならず、逃げても逃げても追ってくる過去に、どう向き合うか。後悔を抱えた時に、どうしていくのかを考えることのできる映画だと感じた。

 

丸山さんの元々の体格は大きい印象だったけれど、映画の中では小さくこじんまりとして見えた。椅子に座っているはじめの姿は特に、ちょこんとしている。そんなはじめも、高畑充希さんの演じる恋人・美沙と一緒にいると、男の人という感じがしてキュンとくる。大貫はじめという人のコミカルさだけではない面を感じられる大切なシーンになっていた。

映画の中には、西田監督の作品や片桐仁さんやラーメンズを知っていると嬉しいポイントや、どことなく思い出すような遊び心もある気がした。

エンドロールに流れる「応答セヨ」の歌詞も含めてひとつの作品になっていて、曲のかかり方がさらにグッと心を掴む。そして、それだけではないお楽しみも。最後まで見ると素敵な気持ちになる。

 

 

ひょんなことから、一軒の家に集った4人。

それぞれ一人ではどれだけ考えても答えの出なかったことが、みんなで考えたら思いもしなかった答えにたどり着く。

個性ゆえに、この場所で上手くやっていけなかったから、この人と上手くいかなかったから、だからといってどこにも居場所が無いということではないんだよというメッセージを感じた。人と関わることというのは楽しいことばかりではないけれど、人と関わることで見つかるものがきっとある。

何か映画を観たい、気分転換をしたいという人にも。最近人と関わることについて考えたり、心に晴れない何かを持っている人にも、おすすめしたい映画です。

 

この声が君に届くだろうか「応答セヨ」

 

明るくて前向きで暖かいのに、泣きそうになるのはどうしてだろう。

嬉しすぎたりしあわせすぎると泣きたくなるあの感覚が、「応答セヨ」を聴くと蘇ってくる。 

  

11月15日にリリースされたシングル「応答セヨ」は、映画「泥棒役者」の主題歌。

丸山隆平さんが初主演の映画、そしてその映画の主題歌が関ジャニ∞という心嬉しいこの曲は、そのまま聴いても魅力的だけれど、「泥棒役者」を観た後に聴くことでさらに曲の印象が深まる。

映画のストーリーに寄り添う歌詞になっていて、直接的ではないけれど、不思議と主人公の大貫はじめへ向けたエールのように聴こえてくる。

西田監督は主題歌について、“悲しくて泣けるんじゃなくて、幸せすぎて泣ける歌”というテーマから、いくつかある曲の中からこの曲に決定したと話しをされていた。選ばれた曲に作詞をしたのはポルノグラフィティ新藤晴一さん。歌詞についても西田監督と新藤晴一さんの間で連絡を取り合っていたと知って、世界観をイメージしながら大切に丁寧につくられた曲なのだと感じた。

映画と曲がそれぞれ全く別に作られたものではなく、思い入れを持って繋がっていることが嬉しかった。

 

つまずいてばかりの僕を 君だけは笑わなかった 

という歌い出しで始まるこの曲は、過去も未来もひっくるめて連れて行ける力強さがある。

 

始めの歌詞がプロローグのように歌われた後で、丸山隆平さんのソロから曲が始まる。

歌声がいつにも増して優しく聴こえて印象的だった。ウィスパーボイスのようなその声は、丸山さんが「泥棒役者」で演じる、大貫はじめとしての喋り方に近かった。

西田監督のラジオに出演した際に丸山さんは、映画のエンドロールで曲が流れるということを考えた時、役柄としての余韻のあるところに関ジャニ∞丸山隆平さんとしての声が聴こえてくることはいいことなのだろうかと考えたと話していた。

通る声で歌うこともできるのかなと思うけど、少しささやくような空気が多めの歌い方にすることで、「泥棒役者」の物語と関ジャニ∞の歌が溶け合うための架け橋になっていると感じた。

 

バンド曲として際立つギターの音などはもちろん、ストリングスの音色が大切な役割を果たしていると思う。

メインのバンドの音に集中していた視点を変えて、他の箇所にも注目してみると、歌い出しの部分とサビのところでバイオリンなどの音が後ろで支えていて、特にサビ前で一度引いて、サビにきたら一気にストリングスが加わるところは、盛り上がりがしっかりと演出されていた。

バンドはガシガシと明るいメロディーを弾く中、後ろに聴こえるストリングスの弾いているメロディーは切なげで、このバランスが曲に魅力を感じているポイントなのかもしれない。

コード進行のメジャーとマイナーについて、はっきりとは分からないけど、「応答セヨ」は行ったり来たりするそのバランスが絶妙に繋ぎ合わされていると感じる。

ベースの音にも注目すると、2番の錦戸さんのパートは特にベースの音が目立っていて、曲全体を通しても早いスピードで細かく弾いていて、常に忙しく指が動いていそうだった。

 

 

今だって 地上でもがいているんだよ 飽きもせず

という言葉と、渋谷すばるさんの声。 

“飽きもせず”という言葉に力を入れて歌う渋谷さんの声は、それだけで表情が思い浮かぶほど気持ちが込もっていた。綺麗に歌うこともできるはずなのに、叫ぶように歌ってくれたことが、本当に嬉しかった。

MVに映っていた渋谷すばるさんの表情は思い描いたままで、この言葉からこの表現をする渋谷すばるさんが好きなんだと強く思った。さらっと流さず、顔をくしゃくしゃにして歌う渋谷さんの姿は真摯だった。

 

応答セヨ 流星

僕を信じてくれた遠い日の僕よ この声が届くかい 

夜空に向かって叫ぶように呼びかける“応答セヨ 流星”という言葉に胸が熱くなる。

“応答セヨ”という言葉から感じられる暖かさや冒険心。届かないかもしれないその距離のことを思うと、途方もなくて切なくなる。CDジャケットのデザインにも使われているモールス信号のように、届くかどうかはわからないけれど届いてほしいという必死の願いがこの言葉に表れている気がした。

“僕を信じてくれた遠い日の僕よ この声が届くかい”と呼びかける言葉は、過去の自分へ伝えてあげたい思いが溢れていて、時間軸を超えたその思いに心を揺さぶられた。

 

君が思うほどは まっすぐに歩いてこれなかったけど

いつかまた逢えたら 

大人になったら、こんなふうになって、あんなふうになって…と思い描いていた通りにならないこともある。この一行で、彼が歩んできた道のりが平坦なものではなかったことが伝わった。

今回は渋谷さんのボーカルに丸山さんのハモりが入るところも多く、少年のひた向きさや無邪気さがイメージされる声の相性だと感じた。

 

さあ 早く行かなくちゃ 約束という名の嘘になる前に

時間に限りがあることを感じるこの歌詞は強く心に残った。

“約束”もそのままに時間が経ってしまえば“嘘”に変わってしまうのだと、はっとした。誰かとした約束も、自分とした約束も、大切にしたいと思った。

 

見失いそうな時 いつも瞬いて僕を導いたよ 「追いついてみせろよ」 

揺るがない道標、星というテーマに心惹かれずにはいられない。

そこにあることを見えなくしているのは自分であることに気づけず、いつの間にか道標を見失った気になっていることがある。だから、揺るぎないものだけを見つめて、“誰にも邪魔なんかさせたりしない”と言い切った彼の決心は強いものだと感じた。

「追いついてみせろよ」 

煽るような励まし方が最高だと思った。悔しいような、嬉しいような。泣き笑いしたくなる感情が溢れて、肯定よりも力の湧く言葉だった。

 

MVはバンドで向き合うように立っていて、ベースの丸山さんが中心で向かい合わせに渋谷さんが立つ景色が新鮮だった。曲としてもベースの音がよく聴こえて、丸山さんがセンターになった曲なんだなという実感が湧いてくる。

そして、歌っているメンバーの表情がとても印象的だった。

曲調は明るく疾走感があるけれど、爽やかに華麗にではなく、全力だった。がむしゃらで、何かに向かって必死に手を伸ばす情熱そのままに、歌も表情も演奏も真っ直ぐで、ひた向きだった。

 

映画「泥棒役者」の思い出と共に「応答セヨ」が記憶に残ることが嬉しい。きっと曲を聴くたびに、この時の空気を思い出すだろうなと思う。