君と僕の「エネルギー」

 

アルバム曲として隠れたままではもったいないと思うくらいに好きな曲「エネルギー」

関ジャニ∞のアルバム「ズッコケ大脱走」に収録されている。シンプルな曲だけど、大好きで。エンドレスリピートで聴いていた時期がある。

好きなものがあって、日々それを原動力にしている人にとって「エネルギー」は応援歌になるはず。

 

音楽プレーヤーから流れてきて初めて聴いたこの曲で丸山隆平さんの声を聴いて、これだ!と青天の霹靂だった。それが何のこれだ!なのか、よく分かってはいないのだけど、まず丸山さんの歌声に、そしてメロディー、歌詞。全てがしっくりきた。

丸山さんの伸びやかで明るい歌声が目の前の景色を照らしてくれるような力を持っていて、声から湧いたイメージはまさしくオレンジだった。

 

この曲を聴くまで、自分にとって、元気の源というものをどう言葉に表現したらいいのかがずっと分からなかった。確かに力になっているのだけど、それは得体の知れない何かのようで、抽象的すぎて『無いもの』みたいだと寂しく思っていた。

けれどこの曲を聴いて、そうかこれがエネルギーか…!と全部に納得がいった。自分の感じている感覚は『無いもの』じゃなく、そういうものは確かにあると肯定してもらえたような気持ちになり、嬉しかった。

 

“恋しい”と“愛しい”を描いた君のグラフィティー

“会いたい”と“会えない”のバランス僕のエネルギー

歌い出しにくるサビ。このサビのフレーズが好きで、何度聴いたかわからない。

対比が美しくて、語感も素晴らしい。口に出して言いたくなる歌詞ランキングを自分の中で作るなら、ベスト5に入る。

 

ここでは韻が踏まれていて、「“恋しい”と“愛しい”」では“しい”が重なり

“会いたい”と“会えない”」では一見違うように見える“たい”と“ない”が、語尾の“い”だけではなく、子音の二文字が同じになっていて、「」と「」には小さな“”が付く。「」の後ろには小さな“”が付く。

「描いた」も「バランス」も、「君の」と「僕の」というフレーズも、リズムが揃っていて、言葉が同じ箱にすっぽりおさまっているような心地よさがある。

「グラフィティー」と「エネルギー」も“”で繋がっている。無意識のうちに心地よく聴こえる音感のマジックがたくさん隠れているから、この曲は楽しい。

 

曲全体の雰囲気や歌い出しがあまりに丸山隆平さんのイメージにぴったりで、初めて聴いた時、この曲は丸山さんのソロ曲なのかな、もしかして作詞も?と思ったほどだった。実際はソロではなくて作詞もmicro+grandeさんという方なのだけど、それでもこの曲は“丸山隆平さん”という感じがする。丸山さんのソロ曲「ワンシャン・ロンピン」「MAGIC WORD~僕なりの…~」に通じるものがある気がした。

 

歌詞を見ていると、小学生の二人のストーリーで、仲の良かった二人だけど、夏の暑い頃に女の子が転校して遠くへ行ってしまったのかなという情景が思い浮かんだ。歌詞の空気に合わせるように、その幼さがメンバーの歌声にも表れていて、無邪気に跳ねるような抑揚で歌っているのがとてもいい。

歌い出しに続く歌詞は、男の子が書いた夏休みの絵日記を見ているような、風景のピースになる言葉が色々と出てくる。「麦わら帽子」や「水まきホースにかかる虹のアーチ」「流れ着く鯨雲」と、どれも表現がやわらかくて可愛らしい。

 

サビの間ずっと「“会いたい”と“会えない”のバランス僕のエネルギー」と歌って、会えないことを納得しようとしているのに、最後のサビで

“恋しい”と“愛しい”を描いた君のグラフィティー

会いたいよ 今すぐ会いたい

と、堪えきれず素直な本音になっているところがいい。そこまでの流れがあるからこそ、大人になりきれずやっぱり会いたいと言わずにいられない等身大な歌詞にキュンとくる。

 

そしてその歌詞の後に、ためにためて

僕にエネルギー そのエネルギー

という歌詞が続く。“僕に”と歌うのはここだけで、それが切実さと一生懸命さが伝わってきて可愛い。この曲は総じて可愛い。ライブツアー「47」で歌われたこともあるけれど、ここ数年のライブでは歌われていないので、いつか「エネルギー」がセットリストに入る日を密かに夢みている。

 

「エネルギー」を聴いて印象的だったのは、

“会いたい”と“会えない”のバランス 僕のエネルギー

という歌詞。“バランス”と表現されたところだった。

普通にありそうな歌詞にするなら、会いたいけど会えない、とかそういうものになりそうなところを、一つ飛び越えている表現だと思った。

会いたいからといって会えてばかりでは、そのうち“会いたい”と考えることがなくなってしまうだろうし、会えないばかりではエネルギーにならない。会えていない時間と会える時間がそれぞれ存在して、そのバランスがあるからこそ、エネルギーに変えることが出来ると気がついた。

この曲を聴くまでは、好きなものがあるからこそ頑張れると思うことはあっても、日常に向き合う時間に湧いてくる一見マイナスに思えるような感情がエネルギーだと考えたことはなかった。でも、この曲で新しい視点を知ったことで、案外マイナスに思える感情は使いようで、下から押し上げる力はプラスなエネルギーよりも強い時があるかもしれないと感じるようになった。

 

ライブに行くと、元気になる。ステージの上に立つ姿を見ると、自分も頑張りたいことをちゃんと頑張ろうと思う。ライブが終わるとさびしく思うけれど、『現実』と『非日常』と括ってその落差に落ち込むのではなくて、もっと有効に使う方法があるのではと思うようになった。

自分にとってライブは日常と同じ道の上にあって、日常を耐えながら歩いて行く先にある、とびきりのご褒美だ。その時間で目一杯に発散して、フル充電をする。ライブが終わってからの毎日は、その充電したエネルギーを大切に使いながら、また前進して行く。

時々、思う以上にエネルギーを削られるような出来事に阻まれるけど、途中途中にあるDVDの発売やCDの発売に補充のエネルギーをもらって、また一歩ずつ進む。

 

そうして一年を歩ききると、とびきりのご褒美の時間にまた居ることができる。

自分にとってライブとは、アーティストとは、そういう存在になっている。もうお手上げだと思うほどに打ちのめされるような出来事も、音楽があって、ライブという特別な時間があるから、一日一日どうにか進んでいくことができる。

アーティストも自分も同じ時間を人として生きている。そんなシンプルなことを時々忘れてしまうけど、同じ時間をそれぞれの場所でちゃんと生きているから、一年に一度のライブという場であっても、また会えるわけで。それぞれの毎日だったなかに、ひとつ同じ思い出ができる。道が重なる瞬間だと思う。

そういうことをシンプルに嬉しく感じられる自分でいたいと、「エネルギー」という曲に出会ってさらに思うようになった。

ライブでひと聴き惚れした「運命の人」

 

高橋優さんのライブ「来し方行く末」でこの歌を初めて聴いた

イントロを聴いた時のインパクトが凄かった。一音一音、丁寧に鳴るキーボードの音が綺麗で、バイオリンの音は可憐であるけど力強くて、なんだか聴く前から好きになる予感がした。暗くなったスクリーンや会場全体のライティングの景色が鮮烈に印象に残っていて、その影響なのか個人的な印象なのか「運命の人」には一面の黒にぽっと広がる桜色のイメージがある。

 

コンピューターじゃあるまいし delete keyもなし

というところが好きで、“コンピューターじゃあるまいし”という言葉に、ふっと気持ちをすくい上げられた気がした。賢くならなくては、気持ちを割り切らなければと考えることの多いなかで、そんな言葉を掛けられたら目が醒める思いだろうと。
「今を駆け抜けて」など、時折、高橋優さんの歌に出てくる「delete key」の単語には様々なニュアンスが込もっていると感じて、好きだなと思う。

 

初めて聴く歌だったので、聴きながら歌詞を追っていくと少しずつ全体像が分かっていく楽しさがあった。歌い出しでは、女性視点なのか男性視点なのかまだ分からない。歌のタイトルから考えると、女性の心境なのかなと予想していた。

しかし歌詞を追っていくと、

友達に戻ろうねと 告げられた君の背中を見ていた

という言葉。ここで初めてあれ?と思った。この歌の主人公は振られた彼女でも振った彼でもなく、それを第三者目線で見ていた“僕”だということに気がついた。

彼女の思いの代弁であり、“僕”の思いも入り混じるような歌詞に惹きつけられて、アップテンポな曲調なのになんて切実なんだと衝撃だった。この歌では3人それぞれの恋が一方通行で、矢印が重ならない。僕→彼女→彼となっていて誰かが誰かを見てるのに視線が交わらない。

でも聴いていて、多分この3人は元は友達同士で、よく一緒に居た3人だったのだろうなと思った。3人が友達同士だったからこそ、“友達に戻ろうねと言われる君の背中を見ていた”という表現が出てくるのかなと思う。そうだとしたら、ずっとそばにいた彼女が彼に恋をしたことに初めに気がついたのはきっと『僕』で、嬉しそうな彼女の表情も悩んでいる彼女の表情も親友である“僕”が近くで見てきたのだろうなと考えると苦しい。自らの想いや苛立ちは2人にぶつけることなく過ごしてきたのだろうと思った。

 

ラストサビの前にきて

愛しても 愛しても 届かぬまんまの想い

友達でいなきゃいけない苦しみなら 僕もよく知ってるよ

と歌われた時、ハッとした。

この歌は彼女を見ていた『僕』で、言葉の一つ一つは自らの気持ちでもあったんだと、彼女の視点にしては違う気がすると感じていた違和感が解けて確信に変わった。

ぐっと感情を抑えるようなトーンで歌われるこの言葉が哀しくて、深々とした痛みを感じた。メロディーとしてもこの部分がとても好きで、サビと対比して音数は少なくなる静と動のバランス、そして高橋優さんの“愛しても”の「も」の部分、“届かぬまんまの”の「まんま」の歌い方が、募りに募った想いや焦ったさを表していてすごくいいなと感じる。

この歌詞を聴いてからは、そこから続くラストのサビの聴こえ方が変わる。

それまでは彼女へ向けた応援歌。そこからは『僕』も含んだ言葉のように聴こえてくる。彼と別れたからといって『僕』に振り向くとは限らないことも知っていて、自らも彼女にとっての運命の人にはなり得ないかもしれなくて、だから余計に、“さよなら運命の人”という言葉が深みを持って聴こえる。

 

歌に出てくるなかで彼女自身が言った言葉は、“あの人のことを責めないでほしい”という部分と“上手くいかなかったけど 本気の恋をして 成長できたからとても感謝してるんだ”という部分のはずだけど、『僕』の見てきた彼女を歌を通して見ていると、彼女がどんな子なのか思い浮かぶから不思議だ。第三者の『僕』の目線で語られる彼女の恋は、羨ましくなるようなものではないけれど、これだけ想われていることは羨ましく思う。男友達も居るような場で彼女を振る彼もなかなかだし、“友達に戻ろうね”という振り方も釈然としないから、次の恋に進むといいよと彼女に向けては思う。

 

二番以降に出てくる“今は誰かの恋人”という言葉の鋭さに聴くたび擦り傷ができる気持ちだけど、でも事実そうなのだろう。もしかすると、そばで見てきた『僕』は彼の本当のところも知っていて、すでに新しい恋人がいることを聞いているのかもしれない。どちらの事情も見てしまって板挟みなのだろうと想像すると、どこまでやるせないのかと心配になる。

 

さよなら運命の人 束の間運命の人 

というサビがとても好きで、印象的だった。

“束の間 運命の人”いい言葉だと思った。

失恋をした人にかける言葉として、運命の人じゃなかったんだよというフレーズを耳にすることがある。でもこのフレーズ、恋愛に限らず果たしてそうだろうかと疑問に思ってきた。結果を見て過程を否定してしまうような、全部をひっくり返してしまうかのような一言が腑に落ちなかった。そもそも運命の人ってなんだ?タイミング次第で付き合ったり別れたりする恋人ってなんだ?と考えていた。そんなモヤつきを一瞬にして晴らしてくれたのが「束の間運命の人」という言葉だった。

ずっと隣にいられる存在ではなかったけど、つかのまでも運命の人だったと言えるということが目から鱗だった。そう言い切れる潔さも素敵だと思った。上手くいかなかったから、そのままでいられなかったからということは重要ではないと歌詞から伝えてもらった気がした。

この歌の中で恋は成就していないし、それぞれが宙に浮いた恋心を持ったままだけど、タイトルが「運命の人」なのがいいなと思う。言葉でイメージするような甘い恋の歌ではない裏腹さも好きだ。

 

昨日までの赤い糸 もう君を縛ってはいないから

と彼女に向けて伝える言葉が切実で、本来はいいものとされる運命の赤い糸に絡まって執われることもあると表現する高橋優さんの感性が素敵だと思う。

『僕』としては早く忘れてほしいけど、早く気づいてほしいけど、急かすことはできない焦ったい想いが歌詞いっぱいに溢れている。その気持ちが溢れ出しているのがこの一文だと感じる。

彼女の傷が癒えれば癒えるほど一緒にいられる時間はまた無くなっていくかもしれないけど、それでも元気になってほしくて、彼女を見てきた『僕』の心境と願望と、僕のところにきてくれたらという下心もすこし。そんな人間味のある歌詞に魅力を感じた。

 

この歌のイントロがあまりに綺麗で、ライブの演出にぴったりだったから、私はてっきりライブアレンジのイントロなのかと思っていた。音源を聴いてそのまんまだったとき、感動した。ライブで知った曲というのは強く印象に残る傾向にあるようで、Nissyの時は「Aquarium」高橋優さんの時は「運命の人」だった。視覚的な印象がつくと、頭のなかで思い浮かぶ景色ができてさらに曲を好きになる。

「運命の人」を歌っている高橋優さんは切なくて優しくてズルい表情だった。ライブの感想でも書いたように、“僕でよければ側にいるよ”のニュアンスはCDで聴くのとライブで表情を見ながら聴くのでは違う印象を持っていたと思う。あの含みを持った微笑みが、らしくて好きだった。

「運命の人」が収録されているのはアルバムではなくてシングル「さくらのうた」のカップリングだと知ってから、聴きたさのあまりCDを借りてきた。同じくシングルに収録されている、“メガネツインズ”という高橋優さんとベーシストの亀田誠治さんのユニット曲「メガネが割れそう」も初めて聴くことができた。想像以上にくせになる二人のボーカルと濃い世界観に、ちょっと魅了され始めているかもしれない。

なぜ大阪ロマネスクに惚れ込むのだろう

 

関ジャニ∞の曲のなかで群を抜いて人気のある曲。

「大阪ロマネスク」

2006年3月に「KJ1 F・T・O」というミニアルバムに収録された後、同じ年の6月に「∞SAKAおばちゃんROCK」との両A面として発売されている曲。

十周年を祝うライブ「十祭」ではファンのシングル曲リクエスト投票1位になり、それ以外の場でもジャニーズカウントダウン関ジャニ∞リクエストで選ばれたりもしている。

この流れを見ていて、どうやらこの曲は並々ならぬ熱のある曲で、昔からファンでいる人、なにかのきっかけで知りファンになっていった人も含めて好きになっていく曲なのだろうかと感じるようになった。

いやいや1位とは思ってないよ、という人も居るとは思う。自分も心の中の第1位は?と聞かれたら「青春ノスタルジー」が思い浮かぶ。けれど、ふと聴きたくなる時があるほど今ではこの曲が大好きだ。

松竹座時代と呼ばれる時期やJr.時代については詳しく知らないままだけど、今なら「大阪ロマネスク」が愛されている理由がわかる気がする。

 

関ジャニ∞に興味を持った当初、「大阪ロマネスク」が1位と聞いて、とても意外だった。ファン投票というと、盛り上がるライブ定番曲やドラマ主題歌などになった明るい曲、もしくはファンへ宛てたメッセージのある曲が上位にくると思っていた。

一体それはどんな曲なんだろうと初めて曲を聴いた時も、想像以上にしっとりした曲調で、音楽番組などで見てきた関ジャニ∞のイメージとは違うことがやはり意外だった。この曲が1位になるのはどうしてだろう、どんな経緯があったんだろうと不思議で、興味が湧いた。

 

まず曲名にある“ロマネスク”とは何だろうと調べた。

ロマネスクはフランス語。表記は(romanesque)で、意味合いは『小説のように、数奇であったり情熱的であったりするさま』ほかにも『空想的な』という意味を持つと書かれていた。 和の要素を強く感じるこの曲のタイトルに、“大阪”というはっきりとした地名と“ロマネスク”というどこか浮世離れした言葉を合わせたことも、リアルと空想を融合したまさに小説的な世界観を表しているなと思った。

この曲には随所に人を惹きつけるポイントがある。歌詞に出てくる言葉の美しさ、シチュエーションへのときめき、関西弁、落ち着いたメロディー。関ジャニ∞が歌うことで伝わるバックグラウンド。

まず、関ジャニ∞が大阪がテーマの曲を歌うことで魅力が発揮されるという大きなポイントがあると思う。歌詞には大阪の街が思い浮かぶ地名が沢山出てくる。【梅田駅、心斎橋、難波の庭園、キタ、ミナミ、戎橋、御堂筋】他にも、神戸まで見渡せる観覧車など実際に見ることの出来る景色が一曲に詰まっている。

関西に住む人にとっては地元を歌っている嬉しさがあるだろうなと思う。更にそうではない人でも、だからこその楽しみ方がある。

自分が経験して思ったのは、関ジャニ∞を知った当初と今とでは感じ方が違うということ。最初に聴いていた頃、歌詞にでてくる梅田駅や心斎橋などの名前はどんな場所か分からず、地名なのかも分からず。想像の中で“大阪”というイメージを描きながら聴いていた。

時間が経って関ジャニ∞を見ていくうち、どんどんと大阪への好奇心が湧いて、一度大阪に行ってみたいと考えるようになり、念願叶って大阪に行くことができた時の気持ち。あの感情は忘れないと思う。

好きでいる人たちが生まれ育った場所、歩いていた道がそこにあるという感動は感慨深いものだった。初めて来たのに、知り合いがいる街に遊びに来たような安心感があった。自分にとっての地元ではないけれど、誰かの地元というだけでこんなに思い入れができるものなのかと初めての感覚を覚えた。

大阪の街を歩いて景色を見て来てからは、さらに曲の印象が変わった。知っている場所、見たことのある景色、思い浮かべることができる嬉しさがあった。

 

「大阪ロマネスク」の歌詞はプロローグから始まって、ノスタルジーな雰囲気が漂う。

どこか昔のことを懐かしむような視点で曲が始まるところに昔懐かしさがある。曲の主人公は関西出身の男の人で、恋人は関西出身ではない。彼だけが関西弁を話す。

彼女のことを想っているのに、どこかちぐはぐな距離感がジンワリと切ない。関西弁は魅力でいっぱいだと思っているから関西弁をいやがる彼女の気持ちは分からないけど、“でも僕は変えないよ「好きや」と言うから” という言葉を言う気の強さが可愛らしい。

歌詞のフレーズ1つ1つが美しくて日本的で、曲のアレンジも和楽器の音が聴こえる。それによって気品のある和な雰囲気を感じられる魅力もある。

“恋をするなら 御堂筋から始まるのさ” 

“恋をするため 心斎橋には人が来る” 

 と歌詞があり、曲の終盤にきて

今日も誰かが めぐり逢う

遥か 遥か 西の街

恋をするなら 御堂筋から始めるのさ

雅なる物語

という歌詞がくる美しさ。1番では“始まるのさ”だったのが“始めるのさ”に変わっていることから、歌詞に出てくる二人は再び一緒に歩いていくことを決めたのだなと読み取れる。

比喩だったり、はっきりとは説明していない行間の多さが曲を聴いているそれぞれに想像する隙間を与えていて、それがそれぞれの頭の中で思い描く“大阪”をつくらせてくれているのかなと思う。関ジャニ∞を知れば知るほど募る大阪への愛情が形になっているのがこの曲のような気がした。

関ジャニ∞を好きになると一度は持つ思いが、『自分も関西出身でありたかった』という思いのような気がしている。彼らの地元への愛を見ていると、そうではない県にいる自分はその中にいない寂しさ、疎外感が少しあった。けれどこの曲はその疎外感を振り払う力を持っている。曲の中での、大阪を知らない彼女に大阪の良さを伝えていくという距離感は、知らないからこそ知っていくことができるというこれからの楽しみに目を向ける視点をくれる。

だからきっと、1人に1つ持っている、関ジャニ∞との出会いからここまでの思い出や、大阪への思いも重ねて聴くことができるのが「大阪ロマネスク」という曲で、瞬間的な楽しさというより、アルバムをめくって写真を見ながらこれまでを振り返るような、じんわり広がる浸透性のあるベストソングになっているのかなというのが私なりに思う結論だった。

 

ラブソングという括りではなくて、懐かしさも哀しさもある。これが哀愁というものなのかなと思える空気感が聴いていて心地いい。

自分は今も昔も暮らす場所を大きく変えたことがない。それゆえに故郷というものがあることへの憧れがあるのかもしれない。

関ジャニ∞を好きになって、大阪に興味が湧いて、大阪を好きになって。さらに関ジャニ∞を好きになっていく。無限を描く魅力が「大阪ロマネスク」にはある。