墨をする音。その手触り。
それが感覚的にわかることが嬉しくて。習字の時間に墨汁を使うより、すずりで墨をすっていいよと先生に言われた時のワクワクを思い出した。
小学生の頃から習字に触れていたことを良かったと、今になって噛み締めることができるとは、思いもしなかった。
あの頃はそれほど楽しみ方を心得ていなかった。
持ち物は増えるし、片付けも大変。右手で書くようにと指導されるのも課題で、字を書く難しさも手で理解した。
水墨画は、書道ともまた別のもの。描く難しさは、別の世界として容易くないとわかる。
映画「線は、僕を描く」
原作小説:砥上裕將(とがみ ひろまさ)さん 著 / 講談社文庫
「心得があるね」
という一言が、すっと胸に溶け込んでいった。
ひと目見た水墨画に心動く様子に、こちらが引き込まれる。青山霜介という人がどんな人か、そんな説明が無くても、いまどれほど大切な瞬間と出会っているかが伝わってくる。
横浜流星さんが演じる霜介の佇まい。凛としていて、でも憂いている。
恐れ多いほどの場にいながら、それが失礼に見えないのは、横浜流星さんが身体の芯まで染み込ませてきた極真空手からくる立ち振る舞いが滲み出るからだと思う。
部屋に立ち入る挙動ひとつ取っても、ダンダンと荒々しく足を踏み入れることもできるけれど、霜介として、丁寧に。恐る恐る物音を立てないよう、相手の息遣いに気を配る。
だから、見込まれる彼に納得がいく。
それを言い表しているのが「心得があるね」という言葉だったと感じる。
心得とは、【身についている】【理解する】の意味の他に、【気をつける】【用心する】という意味もある。
でもきっと、それだけではない意味合いがある。
描く手の強弱でというより、その前の段階から描くことが始まっている事実に驚かされた。
筆の中に三層もの墨の濃淡を作ってから、真っ白な紙に描く。途方もない奥深さに愕然とした。
竹が描かれる一筆ごとに鳥肌が立つ。
単純なようで、何ひとつ単純ではない。
なのに、折り重なる知識ではなく、削ぎ落とされた純真さが線に表れることの凄さ。
この映画を観ていて何度、足から腕へと鳥肌が立つ感覚を味わったかわからない。
予告編を見た時から、意識された白と黒の映像づくりに圧倒されていた。
それは本編でも勿論発揮されていて、病院は白の壁に黒の柱。牛も白と黒。道路もコンクリートの黒と白の線。
それぞれが身にまとっている服も、時に白。時に黒。と入れ替わり、視覚的に抑えるところでは色彩が抑えられ、それによって鮮やかさが目に焼きつく場面もある。
今回、カラーコーディネーターのお仕事をされた方の素晴らしい映像作りに感動する。
水墨画を、映像として映す。
その魅力を、迫力を伝えるためにどれほど考え抜かれたカメラワークか。大袈裟にならず、静かに圧倒的な存在感を映していた。
原作が小説だと知った時はますます驚いた。
文字で表す水墨画。著者の方は、実際に水墨画家の方だということも知って、必ず読もうと思っている。
水墨画の巨匠である、篠田湖山を演じる三浦友和さんの佇まいにも息を飲んだ。
とてつもなく凄い人、だけど相手をつぶさに見つめる包容力の人。ただ優しいのでもなく、緊張感はぴんと糸のように張っている。
江口洋介さんの演じる西濱湖峰の確固とした在り方には、安心感と尊敬の眼差しで見つめたくなった。
清原果耶さんが演じる千瑛の、ナイーブで凛としつつもあどけない様子に引き込まれていく。真摯に向き合う姿、そして所作がひたすらに美しい。
想介の部屋の明かりがついた瞬間、心が震えた。
静かに、淡々としているようで、内に滾る彼の心を見た気がした。
どの水墨画も、呆気に取られて眺めるしかない。
椿を描いた水墨画が胸に残り続けた。師匠の大きな一枚絵では、凛と佇む鹿に見入った。
段々と、これはスクリーンで観ていることにとても意味があるのではと感じはじめて、そしてそれは決定的なものとなった。
この映画の中で水墨画に魅せられた人たちへの最大の贈り物がここにある。
席を取れるなら、ぜひ映画館の席は目線の高さでど真ん中に座ってほしい。これ以上ない贅沢な時間を味わった。
映画を観る前、水墨画の世界のことを、伝統を継ぐこと、師匠の手本をどれほど追えるかが重要なのかと思っていた私は、
霜介と千瑛が教わること、進む道は思いもしなかったものだった。
それは確かに西濱湖峰さんが体現していたと今ならわかる。
線に表れてしまう恐さ。越えて、線が描くもの。
黒が鮮やかであることを、「線は、僕を描く」が教えてくれた。