思ったことが話せない。文字にする時間をくれれば赴くまま話せるのに。
この悔しさ、どう現そうと思っていた時に聴いた、ハンバート ハンバートの「ぼくのお日さま」
こみあげる気持ちで ぼくの胸はもうつぶれそう
きらいなときはノーと 好きなら好きと言えたら
静かな衝撃だった。
どんなふうにも伝えようが無いと手放しかけていた思いが、静かに、たおやかに、でも鋭く歌われていた。
始まりの歌詞で掴まれた心が、続く歌詞でさらに掴まれる。
家に帰れば ロックがぼくを 待っててくれる
ボリュームあげるよ
音楽に救われているひとの話だ、そう気づいた瞬間にうれしさで涙が出そうだった。
それも、ロック。静かにしているひとだから、静かな曲ばかりを聴いているわけじゃない。心の内には知らせていない思いも叫びも山ほどあって、山の一角が見えているだけだと言いたい気持ちが、この歌詞で掬い上げられる感覚だった。
キャパオーバーだなと思うのに、相手に必要な理由があるのかもしれないと予定を決めて、結果誰かのための約束ばかりで、自分の休息が取れなくなったりする。
“嫌いなとき”にノーと言えず、飲み込んでしまう。
怒る、という感情が、人前ではゼロになる。怒っていないわけではない。ただ、諦めが先に立って、抗議できない。抗議したいのかと聞かれると、そういうわけでもない。ややこしい。
ある意味さ、優等生ちゃんだよね
そう言われたこともある。意味はわかる。困れば笑顔、そうでなくても笑顔、当たり障りなく無難な返答しかしないからだ。
相手の空気の変化には気がつくけど、他者への関心が平坦であることも理由の一つな気がしている。
だから、そんな自分が他者に興味を持つことの塊のような、アイドルを見つめることをここまで長く続けているのは珍しいなと思ったりする。
喜怒哀楽を歌の世界観に合わせて魅せる姿に、感情の開放を学んでいるのかもしれない。
気づけば、ひとつのグループに留まらず、各グループにJr.と関心は広がって、もはや人が好きじゃないかと自覚するようになった。
それでもまだ、自分の感情を優先するのは下手だ。
目の前で先に感情を出されると、同じ感情は選べない。その場に一つなんて決まりはないのに。
様変わりは出来なくても、必要な時に、感じていることを言えるようになりたい。
「ぼくのお日さま」は、出来ない自分にも、出来るようになりたい自分にも、陽だまりのような柔らかさをくれた。