忘れられないのはいいこと?
自分の言った言葉、相手が言った言葉。あの日起きた、ちょっとしたこと。そこで見た景色も空気も。
いつも思う。どうして、こんなに詳細に覚えてしまって忘れられない記憶に悩まされているのだろうかと。
“大人になればなるほど、時間が経つのは早く感じるものだよ。時が経てば、大概のことは忘れられる。”
そんなふうに聞いてきた。
10代の頃は、私にはまだ思い出が少ないから、過去の事をよく覚えているだけだと思ってみたりもした。だけど今のところ、蓄積されていくデータばかりが頭の中にはどんどん増えている。
忘れていることはそもそも思い出しもしない、という理屈っぽい考え方もできるのだけど、9歳であっても13歳であっても、あの時した会話。選んだメニュー。どれも写真のように思い出せる。
ヘンテコだなぁなんて思いながら、小学生の頃は“記憶すること”に固執していて、
忘れたくない景色を見るとまぶたを深く閉じて、カメラのシャッターのようにまばたきをした。
そのせいだろうか。今になってもこんなに忘れられないのは。
覚えているから良いこともある。
一度行った場所は、知った街のように歩くことができる。脳内グーグルマップができるから、その場に居ない時にあれはどこだっけ?と質問されても、記憶の中を歩いて案内することができる。
ライブの感想も、写真のように記憶しているものと、映像のように記憶しているものを合わせて、そこにセットリストなどの確証がある情報さえあれば書ける。
でもこれは、帰りの道すがら、すかさずスマホにメモしていることも大きいから、覚えているとは言えないかもしれない。
困ってしまうのは、いい事だった思い出はもったいないからと蓋をして遠ざけるのに、いやだった思い出は鮮明に脳内再生ができてしまうこと。
忘れてくれればいいのに、いつまでもいつまでも無駄な容量を取っている。
子供心に思ったことを、大人になった私が覚えていてくれるようにと、幼い私は願っていた。
どうしてこうなの?それは違うと思うけど…?たとえそう思っても、大人に言葉で伝えるすべをまだ持っていなかったから、自分が大人になったら話すんだ。忘れたくない。そう思ってきた。
“まだ子供だから”と、1人の人として取りあってもらえなかったことが相当に歯痒かった。だから今は、子供と接する時でも敬語で話すし、“子供だからわからない”は通用しないと思っている。
いいよ、今は相手にしてもらえないけど、大人になった自分がちゃんと説明してくれる。話せる時が来る。子供の頃の自分はこんな景色を見ていたと、表現できるようになる。
そんなふうに考えていた私はこわい子供なんだろうか。でも時を待つしかなかった。
気分はずっと『見た目は子供、頭脳は大人』のコナン。
思考回路の幅や応用は、経験と共に増していると思うけど、考えていることは基本的に変わっていない。
あの時なんで、が言える環境なら、結局は話すことでチェックリストから外していくのが、忘れる近道なのかもしれない。時間が経つほど、自分の都合のいいほうに記憶をねじ曲げてしまうとも言うから。
けどそう簡単じゃない。
だから私は、小さかった頃の自分を抱きしめるために、今を生きているところがある。
それでなのか「アナと雪の女王」のエルサや「いつかこの恋を思い出してきっと泣いてしまう」の音ちゃんに、共鳴する気持ちがある。
ここまで来ても、まだちゃんと抱きしめられてはいない。
手を広げてはいるけれど、腕の中には収まらない。
忘れられないことは置いて行くのか、向き直して整頓して行くのか。いつまでも過去に時間を渡すわけにはいかないから、そろそろ素直に抱きしめられてほしい。