こんなに面白くて不思議な気分になる本には出会ったことがない。
初めての体験だった。色もタイプも様々な扉がたくさん並んでいて、それをひとつずつ開けていくみたいだと考えていたら、思い浮かんだのはモンスターズインクのあの扉がずらっと目の前に現れるシーン。
関ジャムを見ていて、いしわたり淳治さんがアーティストの曲について紹介をする時のストンと落ち着く言葉の選び方と表現方法、“好き”を動機に話しているところ、その紳士さが素敵だなと思った。
それから何度か関ジャムの楽曲紹介の企画が続いて、変わらずその席にいしわたり淳治さんが座っていてくれたことが嬉しかった。
言葉が好きなんだなと伝わる言葉選びが、何度見ても魅力的で、どんな曲を紹介するのかというよりも、どんな言葉で表現するんだろうということに興味を惹かれるところさえあった。
気になるなあと思いながらも、関ジャムで見られるだけで満足していたある日、ネットのインタビュー記事に出会った。いしわたり淳治さんが「flier」というサイトで読み応えのあるインタビュー。質問の一つ一つが濃く、それに真摯に答えるいしわたり淳治さんの言葉がまた私の心を掴んだ。
その記事を読んで初めて、いしわたり淳治さんが本を出版されていることを知った。
ちくま書房から「うれしい悲鳴をあげてくれ」というタイトルで。
いしわたり淳治さんはSUPERCARというバンドを解散後、作詞家・プロデューサーとして活動をされている。雑誌「ロッキング・オン」で連載として2004年から5年半続いた作品が、2007年に単行本化。そしてボーナストラックとしていくつか収録作品を増やし、文庫本化。それが2014年のこと。
初めの文章が書かれた年から数えると、13年前。
読んでいて不思議な感覚だった。それは自分も書いて残すということを意識してするようになったからなのかもしれない。
言葉は新しいまま今の私に届いているのに、書かれている所々に現れる時代背景や流行りの物は、確かに年月を重ねている。きっと今読んでいるこの文章を書いたこの人は、今はそのままでは居ない。
その感覚がおもしろかった。変化があることを先回りしたように知っているからなのかもしれない。タイムスリップをして過去のいしわたり淳治さんを覗き見させてもらっているみたいな。
本とは本来そういうものだと分かっているつもりだった。つもりだっただけで、知らずにいたんだなと、この本に出会って気がついた。
文章というのは本になると、形がついて手に重みとして実態を伴う。発売されてからも何年経ったとしても、そのままの状態で残り続けるんだと感動した。本のあとがきでいしわたり淳治さんは、本を読み返してみて、恥ずかしさを感じたと書かれていた。
けれど読んだ私の感想は、この本があの時の時間のまま残ってくれていてよかった。という感情だった。恥ずかしいからと無かったことにはされずに、始まりの頃の空気をそのまま読めるようにしてくれていてよかったと思った。
悩みもがいて足掻く時期を脱した人は、涼しい顔をしてさも以前からスマートに進んできましたよという感じの空気を作り出して、あの頃どうだったかを詳細には教えてくれない印象があったから。
肝心な本の内容についての感想はここから。
私にとっていしわたり淳治さんの第一印象は、関ジャムに出ていた作詞家さん。歌詞を書く人、という頭で読んだからか、小説もエッセイもどこか歌詞のようで、簡潔で、短いセンテンスのなかで情景が浮かぶ。歌になりそうな文章という新鮮な感覚を覚えた。
そして、本の構成も独特で、小説とエッセイが交互に配置されている。
それも、小説といっても何百ページに渡る一冊という形ではなく、短い小説。ここまで短い小説というものがあるんだと、目から鱗だった。
私は小説が書けない。そんな苦手意識がすこし解放された。短くてもいいんだ、こういう表現方法もあるんだと嬉しくなった。文章は自分が思うよりも自由だった。
文庫本のあとがきで鈴木おさむさんが、好きだった物語ベスト5を書かれていたので、私なりのベスト5という形で感想を書くことにした。
- 「待ち合わせ」
- 「NEW MUSIC」
- 「第一印象を終わらせろ」
- 「イメージと未来の話」
- 「真面目なプレゼント」
このうち小説は1と5、エッセイは2と3と4。
エッセイといっても不思議な文章で、現実かフィクションか、読んでいくうちに境が曖昧になっていく。それが心地よくて、私はこの本を松田聖子さんの曲を流しながら読んだ。するとますます自分がどの年代に居て、いつ書かれた、どの世界のお話を読んでいるのかわからなくなっていくおもしろさがあった。
物語の世界観も独特で、え!?と驚き固まる展開や、そんなページの使い方ありですか…?!と驚かされる表現方法も。えええ…とか、うわぁ…とか、後を引く物語もあり。思いがけない方向で、ドキッとさせられる体験が段々と楽しくなっていくのがこわいような、未知の感覚だった。感性として、加藤シゲアキさんと距離が近い部分もあるかなと思ったので、ぜひ加藤シゲアキさんの本がツボな方におすすめしたい。
1.「待ち合わせ」
出会いのタイミング、恋人になるタイミング、“タイミング”ってなんなんだろう。全ては確率か?たまたまその時、近くに居たから?ともやついていた思考で求めていた答えが、ここにあった。
80ページの9行は、何も言えぬほどその通りで。切実だけど、どこか割り切っているようなはっきりとしたものを感じて、“だいぶ早く着いてしまった僕”をどんな気持ちで見ていたらいいのかわからなくなった。わからないのは多分ウソで、わかってしまったんだと思う。
シンプルで、だからこそ、物事は単純で時に鋭利。
たぶん僕は“待ち合わせ”にちょっと早く着いてしまっただけなんだろう。
その言葉の意味を理解した時、希望なのか悲しみなのかどちらとも取れない感情が湧いた。
2.「NEW MUSIC」
ビーチボーイズが自分も好きだからだろうか、この気持ち、とてもわかる。
感覚で感じるもので、他の誰かも感じているものだとは考えたことがなかった抽象的な“空気”を、いしわたり淳治さんが言葉に変えてくれたと思った。
それまでのあの感じはもう手に入らない。
本当にそうだなと思う。一度変わってしまったその辺を漂う空気は、もう戻らない。私はこの、あーあと言いたくなるような残念さがとても苦手だ。 戻らないことを割り切って、次の気分を作り出せない自分の幼さが透けて見えるからかもしれない。
3.「第一印象を終わらせろ」
そういうこと!!と思わず声に出したくなった。そのもったいなさについて、いつもいつも考えていた。
“先入観”というのはどんなことにもついて回るけど、“第一印象”を終わらせずに、知ったつもり見たつもりになってしまうことは本当にもったいない。自分の好きなものについて誰かに話す時、「ああ、あれね」と分かっているかのように、見ていない想像の第一印象で色を付けられてしまって寂しい思いをしたことが誰にでもあると思う。
「自分から何かアクションを起こす時は、第一印象を終わらせてからでないといけない」
そんな人たちにとって、この文章はきっと心強い。
4.「イメージと未来の話」
“怖い”ってなんだ。どこからくるんだ。
そんな疑問はついに解けた。無敵になるための方法も。
イメージはとても重要だ
信じているつもりでも、心の奥の奥のホントのトコロ。そこがどうあるかで、現実は本当に変化する。良い時も悪い時も、意識の範囲を超えて、いつのまにか引っ張られているものなんだと思う。だから深層心理はおそろしい。
けれどそういうことなら、物事を動かすのに大切なのは、自分の思いひとつということになる。
イメージが未来をつくるんだ!
という言葉を、私は信じていたい。
「少年よ、大志をミシェれ!」の305ページで書かれていた、
自転車に初めて乗ったとき怖いからと足元を見ていたら、ふらつくばかりで思うように前に進めなかった。
という言葉も、ここに繋がっていると思った。
確かに実際そうだった。文字通りの意味でも、自転車に乗る練習をしている時、足元ばかりを見ているとちっとも進まなかったし、補助輪は邪魔で転びまくった経験がある。
前へ進んでいくには、勢いよく漕ぎ出す意思と、時には必要過多になっている補助輪から卒業することも大事なのかもしれない。
5.「真面目なプレゼント」
頭の中でどれだけ思い描いても、考えていても、相手に伝えず言葉にして話さない限りは、何も起きていない。無いと同然なんだと、ヒリヒリする痛みと共に教えられているような気がした。
この物語の中の“僕”がどれだけあとから、こんなに考えていた、思っていたんだと話したとしても、それは相手に何一つ伝わってはくれない。頭の中で考えた100よりも、言葉にした1の方が、現実を動かす力を持っていると痛感した。
このまま待っててもチャンスは来ないよなぁ。自然な方法なんてないだろうな。
“僕”がついに起こした行動はあまりにも、あまりにもだった。ある意味では、彼の求めていた“俺、馬鹿だから”には一番近いのかもしれないけれど。
挙げた5つの他にも、「共通の敵」「ヒラメキの4B」「一時間、語れることはありますか?」が特に好きだった。
いしわたり淳治さんの文章が好きだと感じるのは、想い合うこと、愛について正面から向き合い、希望を抱いていることが文章から伝わってくるからだと思う。そんなもの無いのだと言ってしまった方が簡単な世の中で、信じてみることを選んでいるということに、希望を持てたから。愛は存在するといわれてうれしくなるのは、私自身が疑っているからだということもわかっている。
本のタイトルになっている、「うれしい悲鳴をあげてくれ」という言葉はどこから来ているのだろうと想像しながら読み進めて、186ページの「うれしい悲鳴」という物語を読んだ時は、ここから取られたのだろうか…伝えたいのはこういうことなのだろうか…と少し淋しくなりかけた。けれど本が終わる前に、「うれしい悲鳴をあげてくれ」というタイトルでエッセイが出て来た。読んで、とても嬉しくなった。ただ喜ぶのではなく、悲鳴をあげるほどのうれしさを体現していいんだと思えた。
しかしそれと同時に、私には出せない声。それが“うれしい悲鳴”なんじゃないかと、ふと頭をよぎった。
私はこれまで、はしゃぐということの経験が記憶に薄い。苦手としている自覚があった。我を忘れてしまうほど喜ぶって、どうやって…?と思っていた。
けれど、「うれしい悲鳴をあげてくれ」を読んで、今ならそれができるかもしれないと気がついた。これを喜ばなくてどうする!ということが起きた時に、素直にテンションが上がるようになってきている。
いしわたり淳治さんの本があると知って、書店にいた時に思い出し、あるのかなと機械で試しに検索をしてみたら在庫ありと表記されて、本を買いに来たつもりはなかったのに、そのままスーッと棚を探しに行った。手の届かない一番上の棚にタイトルを見つけ、書店員さんに取ってもらった。
ぱらっとページをめくり、最初の一文でああ好きだと購入を決めて、手から離さなかったあの選択は正しかったと読み終えた今思う。
先日、雑貨屋さんでもブックコーナーに平積みされているのを見て、これは…!と嬉しかった。重版、きっとかかると思っている。帯が書きたい!そう思うほど心が踊る本だった。
大好きだと思える本に出会って、それが自分の部屋の本棚にあるしあわせを噛みしめている。全力でおすすめしたい、いしわたり淳治さんの「うれしい悲鳴をあげてくれ」 をぜひ。