火で遊んだことが無かった。
あるとしても手持ち花火。だけど、これなら子供用で火傷しないからと渡されたイラストの描かれている持ち手のついた花火が、思う以上に火が上り「熱っ!」と手放してから、線香花火のほかは持つ気にならなくなった。
コンロの火も怖かった。だから始めは料理に挑戦する勇気も無かった。
もうコンロの火は怖くない。料理の火加減も感覚で掴める。
でも、“炎”そのものと対面する機会は無かった。
ごく稀にバーベキューに参加しても、あれはお肉を焼く用に炭を使っているから、炎という感じでもない。
川辺で焚き火。ある日、きっかけができた。
お肉焼かない。わいわいもしてない。シンプルに焚き火をしに。
空が広かった。紅葉して、黄色に赤に、緑のままでいつづける葉も見えて。人の話し声は聞こえてこなくて、意識を向ければ聞こえる水の音。
カワセミを目線の先に見つけた時の感動。
遠巻きにでも見られたことが嬉しくて、近づくわけにはいかないこの距離感がちょうどいいんだろうなと思いながら、見える限りを目に焼きつけた。
猫もいた。白の猫と、白黒の猫。付かず離れずだけど、互いの意思の疎通はできてるようで。
前に居たであろう人たちが残していった、焚き火にぴったりの石の積まれた円が、川辺のあの辺この辺にちらほら。
一から石を運んで集めて来なくても、前の人が残したもので楽しむ連携プレーがおもしろいなと思った。
焚き火の始まりは、薪を細く割ったものや燃えやすい紙に、火をつける。
「消えないように、よろしくね」
任された感じが嬉しくて、長いトング片手に燃えているのを眺める。
そろそろ燃えるものが無くなるかというころに、今度は太いままの薪をどんと置く。炭も程よい間隔で置けば、火種が出来てより長く燃えるのではと感覚を掴んできて、それを交互に繰り返す。
その辺にある藁みたいなものや枝はよく燃えて、枯葉は特に、メラメラ燃える。
面白いくらい燃えるから、どさっと乗せる勇気はないけど、3枚4枚トングで摘んでフワッと燃えるのを見る。
冷えてきたら暖をとれるし、干し芋も焼ける。
これが焚き火かーと思っていたら、まだここからだった。
消えたように見えても、炎の火種はこっそり長く有り続けるから要注意なのは、何となく知っていた。
だから燃え尽くさないといけない。
そこからがおもしろかった。
消えかけてきた炎は、炭になった外側の木を残して内側でメラメラ燃えていて、ふーっと空気を通すと火花が散る。
次には、こういうライトありそうだなと思うくらい綺麗に、木と炭の中で赤く灯ってゆらゆら揺れる。空気が当たると、その縁だけが光る。
チラチラ光る様子は不規則で、いつまでだって眺めていられる。炎のイルミネーションだと思った。
最後の最後は、ファサッと足した枯葉を原動力に火力が瞬間的に上がって、落ち着くと、さっきよりも揺らめきが転々と動くように光る。
夢中になって見つめているうちに日も落ちて、焚き火も燃え尽きた。
消えたのを確認して、土を乗せて、おしまい。
見つめる先が炎になるぶん、思う以上に話すことにも抵抗がなくなる。
なにを私は言っているんだろうと思いながらも、気持ちの底に置いておいたことをするっと言えてしまったりする。
どれだけの時間見ていたかはわからない。
「嵐にしやがれ」で見ていたヒロシさんと大野智さんのはしゃぐ理由がほんの少しわかった気がして、扱いに緊張感はあるし、ただ遊ぶのとはちょっと違う。
近づきすぎは危ない。でも見ていたくなる。吸い寄せられる怖さもある。
キャンプファイヤーは一度、学校行事でしたことがあった気がするけど、大きな火にはなんとも思わなかった。
小さな火を、消えないよう薪をくべて、灯しつづけるおもしろさ。
消えるまでに、その炎は何段階にも表情を変えてちらつきながら燃えるのだと知った。
ほどよく目を離さず、消えないように。
薪か、炭か、枯葉が今はいいかもと、様子を伺いながら火加減をキープするのは、好きなことや続けていたいことに向き合っていく姿勢と似ていると思った。
ぶわっと燃え上がるのもいい。でも落ち着いてきて一見消えたように見える中にも、火種はしっかり残っていて、それを大切にしていればその炎は大きくも小さくもできて、長く燃えつづける。
焚き火の動画を永遠と見ていられると話していた、堂本光一さんの気持ちも今ならわかる。
またそのうち、広い景色のなか目の前の小さな炎を眺めたくなったら、ここへ来たいと思う。