さよならはずっと会えない約束だと思っていた − 高橋優「若気の至り」

 

若気の至りにならない方、を徹底的に選んできた学生時代だった。

“後で恥ずかしくなる思い出”というものに納得がいかなくて、出来るだけ楽しいままの思い出を集めたかった。

いまも後で恥じるくらいならしたくないという思いに変化はないけど、タイトルだけでは一見“えっ…”と戸惑いを感じた、高橋優さんの曲「若気の至り」は不思議とじんわり馴染んで、聴いていると落ち着く暖炉みたい。

 

車窓に通り過ぎていく景色のようなテンポで、曲の始まりから終わりまで、コード進行が心地いいってこういうことなのかと実感した。

高橋優さんの歌声は、時に鋭利で時に穏やか。

曲の歌詞を体現するその歌声には引き込むエネルギーがある。そんな中でも、こういう歌声を聴きたかった!と感動するほど、私は「若気の至り」での高橋優さんの声が大好きだ。

 

そしてもうひとつの魅力が歌詞にある。

これまでは詞に言い切ったり問い掛けたりする言葉が多い印象だったけれど、この曲では“詩”がひとつひとつ繋がっていくような、言い切らない魅力を感じる。

 

今しかないよな 今日のオレンジの中

昇降口で振り返って 今なにか言いかけたようだな

聞き返しても大丈夫かな

 

具体的なようで、明確ではなく、だからこそ頭の中に思い描いた景色を曲に投影することができる。抽象的であることの魅力。

言葉足らずなぎこちなさが、幼い頃のぎこちなさそのもののように思えて。

 

 

二十歳という、一応の大人の線引きを越える前。

小学生だったころには小学生だった自分なりの、中学生のころには中学生の自分なりの、“大人になっても忘れたくないこと”があった。

それをどこまで持っていけるのか、わからなくて、さびしくて、いやだった。いまこんなに大切なのに、大切じゃなくなる日がくるのかと、大人になる私に不信感を抱いていた。

 

名前を呼ぶ声が聞こえてくる 多分誰かが君を待ってる

苦しいのは ここにあるのが 忘れられていく

 

ここの言い残しのような歌詞が好きで。

名前を呼ばれてどこかへ行ってしまう君を見つめる立場で聴いて切なくなる。せっかくおしゃべりできたと思ったのに、何気なくさらわれてしまう感覚を、校舎の空気と一緒に思い出す。

 

 

国道のフリクション 流行りのフュージョン 騒めきのどれかこれかに

なってしまうその前に ここに君がいるうちに この夢が覚めてく前に

音感が揃う“フリクション”と“フュージョン”、何度聴いてもリズムが楽しい。

“騒めきのどれかこれかに”という言葉に、沢山の人が行き交うスクランブル交差点を思い浮かべて、その途方もなさに心がキュッとなる。

ひとつの校舎、ひとつのクラスにいた一人一人は段々とばらばらに道が別れて、見分けがつかなくなってしまう。だから“ここに君がいるうちに”と焦るような思いを滲ませるこの歌詞に心を掴まれる。

 

あの頃は良かったな、なんて言える時期を過ごしてはこなかったけど、あの時ひとりでも抱えていた物悲しさはおかしなことではなかったと、高橋優さんの曲を聴いてほっとした。

変わらないまま切なく苦しく、小瓶に詰めるようにして握りしめた忘れたくないものは、大人になってもまだ手の中にちゃんとあった。

 

「若気の至り」を高橋優さんはどんな表情で歌うのだろう。きっと春頃の自分は高橋優さんの歌が聴きたくなるはず、と思って取ったライブ「STARTING OVER」のチケット。楽しみにしたい。

夕暮れの空の色がメロディーになったようなこの曲

外を歩きながら、影絵みたいな木の枝の向こうに見える空を眺めていると「若気の至り」が聴きたくなる。