「僕らは奇跡でできている」高橋一生さんの緻密さと、一輝という人物の観察眼

 

飛べない鳥って、本当は“飛びたくない鳥”かもしれないですよ。

 

大阪の天満にある、関テレの入り口にある大きな大きなポスターが、関テレ制作のドラマ「僕らは奇跡でできている」の高橋一生さんに変わっていた。

関東ではフジテレビで放送されているドラマだけど、制作は関西テレビで、以前も別のポスターが貼り出されているのを見ていた。

その正面玄関の大きなポスターに書かれていた言葉が、この言葉だった。それが何だか気になって、数話見て止まっていたドラマを今週は見ることにした。

 

それが大正解で、聞きたかったこと、思っていたこと。それが言い当てられていくみたいで、高橋一生さんの演じる“一輝”が話す言葉と表情に、すくい上げられていく気持ちがあった。

普通って何ですか?みんなって誰ですか?そう思っていたとしても、日常の中でそれをいちいち口にしていては、“面倒なやつ”と敬遠されることくらいはわかっている。だからそれをどうにか穏やかにシンプルに、自分のなかで思い続けることはできないだろうかと考えていた。

一輝は、疑問や思いを相手に同じように持ってほしいとは思っていないように見える。

僕は、こうです。と短い式で伝えているだけ。そこに相手を変えてやろうとか、自分の思うようにとかいう魂胆は無い。一輝の思考回路を数式にしたらきっと、短くすっきりしたものになる。

 

第7話の「僕らは奇跡でできている」には、さらりと交わされていく会話の中にいくつも核心を突くピースが散りばめられていた。

ドラマ予告を見た時、今の高橋一生さんにこの役を演じてもらいたいとお話しが来ているということに、どんな意味があるのだろうとワクワクしていた。パッと見たところは、生き物や動物の多く登場する穏やかなドラマ。でもこのドラマ、きっと只者ではないと思った。

高橋一生さんがあまりにもほがらかに一輝という人物を演じるから、にっこりと優しい顔をして、言葉の真意は他にあるのではと。

派手さやドラマチックさではない、このテーマでドラマを作るということは大きな挑戦のように思えて、企画を通すのは大変だったのではないかと感じた。そんな1話から、7話になり、ついに何を言いたかったのかが解けてきた印象があった。

 

大学で講師をしている一輝は、鮫島教授からの「ゼミを持たないか」という提案に、

「今はまだわからないので、先送りにしてもいいですか」

とシンプルに答えた。なにも、ためらいなく。

今答えなくては。相手の求める答えは何だろうか。なんてことは考えずに。

鳩が豆鉄砲を食ったような気持ちになった。それありなんだ!と肩の力が抜けて笑けちゃう感覚。わからないって答えが出てるのに、それ以上の答えを出さなきゃと思い込む。自分にも覚えがあった。

先送りにしますと言うのも、答えにしていいんだ。そう思えることが新しかった。

 

一輝と出会った男の子、虹一くんは教科書の文字を読もうとすると頭が痛くなって、学校での“授業”が好きじゃない。でも好きなものがあって、森での勉強や絵を書くことが好き。

家に帰りたくない、一輝の家に泊まる。と確固とした主張をする虹一くんに、一輝は「いいよ」とはっきり言うけれど、“僕はどうしたい”を虹一が母親に自分で言えるまで、具体的には動かない。でも、「明日は森に行こう」と、出来る約束をする。

しつけではない方法で、自分から気づけるように手立てを用意する。やはり一輝は相当に賢いのだと思わずにはいられない。自由で奔放に見えて、それだけではない。

ちゃんと聞こうとしてくれる一輝に、虹一くんが出会えて本当によかった。大人と子供の境を線でくくらない一輝の存在は、虹一くんの心だけでなく命を救っていると思う。

 

母親はいっぱいいっぱいな日々に追われて、それを上手く受けとめることができず、“やれば出来る”ということを教えたいと、一生懸命になる。

一輝が虹一くんの母親と話しをするなかで、「(虹一くんは)教科書を読んでいると頭が痛くなったり瞬きをしたりします」と説明した。それでもなお「やりたくないからですよ」と言った母親の言葉を聞いた時の、目を閉じた、あの表情。

すごいと思った。虹一くんの緊急性と必要な対応を、一輝が責めることなく母親の元へと届けようとするのに、伝わらない。通じない。怒りよりも諦めのような、でもわかり合いたい一輝の芯が見えたようで、時が止まった。

 

対話ができないと悟ったときの、喉が狭くなるような絶望感。演技として、表現しようと思ってできるものではない。その人のなかにそういう思いをした経験がなければ、あんな顔はできないと感じた。それほどに、リアルだった。

 

なんだか引きつけられる高橋一生さんの魅力というのは、人として根が深く張られているような佇まいや言葉選びにある気がしている。「ボクらの時代」という対談番組に出ていた時も、聞く人によっては棒だと言われるかもしれない台詞の言い方に憧れていると話していて、外した音の取り方で言う台詞に魅力を感じるけれど自分は正しい音を知ってしまっているから、正しい音を一度持ってから外していく作業になってしまうと、少し悔しそうに話していた。

それを聞いて、この人はどこまで演じるということに真摯に向き合う人なんだろうと、圧倒された。

「カルテット」を見ていた頃、耳にいい意味での引っ掛かりができる高橋一生さんの台詞の音の取り方に惹かれていた。「あれー?」の言い方や、あえて単調にして話す言葉の流れに、音遊びのような楽しさがあった。

「僕らは奇跡でできている」でも、高橋一生さんの演じることへの挑戦を感じることができる。

 

 

第7話は、一輝がどんな人物であるのか分かりはじめる回でもあって、“カメは昔、ウサギだった…!?明かされる過去”というサブタイトルがついている。

1度見終えてから2度目の再生をして、カメラのカット割とそれぞれの瞳の表情に伏線と意味が込められていたのだと気づいた時の驚き。1度目は何の気なしに見ていたシーンが、2度目に見た時には大きな意味を持っていた。

予測できなくて掴みどころのない一輝という人を見ていると、ザワザワするし、振り回されている周りの人の視点に立ってしまっていたたまれないと感じていたけれど、第7話で一気に引き寄せられた。

 

きっとこのドラマの真意はそういうところにあるのかなと、今は思う。

大枠で判断をしようとすると見つけられない何かがあって、何を言いたいか、よくよく耳をすまさないと聴きとることはできない。

かき消される前の音を拾える人でいたい。第7話の一輝の言葉に、そんな思いが芽生えた。