7月8日、日曜日。大阪で暮らす最後の日。
あっという間だった?と聞かれたら、けしてあっという間ではなかったと答える。リタイアせずに、10日間やり遂げることができたと、ようやくたどり着いた安堵の気持ちだった。
毎朝6時7時には目覚めていたから、日曜日はテレビのレンジャーシリーズとライダーシリーズ、プリキュアもしっかり見ていた。子供の頃に見ていた番組はこんなに早い時間だったっけと驚きながら、今のレンジャーは2グループあるの?怪盗?警察?どういうこと…?と混乱したり、久々に見たプリキュアに初代ブラックとホワイトが登場して、懐かしい主題歌が思いがけず聴けたりして、いつもと変わらぬ早起きで良いこともあった。
ある程度の片付けと、スーツケースの整理はできていた。というより10日間居たにもかかわらず、荷物は広げずほとんどスーツケースの上にあったから、ぎゅっと押し込んでフタをしてしまえば荷造りは完了するようなものだった。
ただひとつ仕舞うのが大変だったのは、ある日コンビニで買い物をした時に、カップ麺を買っておくかと何の気なしにカゴに入れたどん兵衛が特盛りで、そのことに帰ってから気づいて、大盛りでもなく特盛り…そんなにいらない…と置いたままになっていたそのどん兵衛。なかなかのかさ張りようだった。ぐいーっと上から押してスーツケースを閉めるのも初めてで、映画でよく観るやつだ…と思ったりした。でも中身はどん兵衛。
カーテンを開けて、朝ごはんにバナナを食べて、出せるゴミは出して来て、ペットボトルは袋にまとめた。調理もするぞと買っていたフライパンや包丁は一度も使うことがなく、まとめて袋にしまい、処分をお願いします。お手数おかけします。と書き置きして管理会社の案内の通りに玄関近くに置いた。
早すぎない時間になったのを見計らって掃除機をかけて、部屋全体のチェックも済ませ、忘れ物はないことも確認した。
最終日にどこに行きたいかは、もう決まっていた。
今度は飲み物だけじゃなくてごはんも食べたい。「Giving Tree Cafe」にもう一度行きたかった。
いつもの道を歩いて、あのブルーの扉の前に。
扉を開けて、またカウンターの席に座った。サンドイッチとスープのセットと、ウインナーコーヒーを頼んだ。サンドイッチはパンが選べる。私はフォカッチャにした。
スープはじゃがいもの甘さがあって、サラダもポテトもチーズがくるまれたパスタも、そしてなによりサンドイッチが美味しかった。フォカッチャって上に具をのっけるだけじゃなくて、具をサンドしても美味しいんだと感動だった。
弱々になっていた胃袋に染み渡るようで、美味しくて身体にいいもの、食べられた。と嬉しくなった。
食後に飲む、クリームがのったウインナーコーヒーもほんのり甘くて、好きな味。
カップの模様もかわいくて、なんだか雰囲気が似ている表紙の「わたしのマトカ」という片桐はいりさんのエッセイの本を読みながら、ゆっくり時間を過ごした。
たまたま同じ時間に居合わせてカフェでお話しすることのできた人たちは、みなさん海外にもどんどんと繰り出していて、そこに細かな理由や理屈を求めない。自分の好きなものについて話しをするのが得意な人たちだった。
その話を聞いているのが楽しくて、世界の大きさはこんくらい、と決めつけない価値観の広さに心惹かれた。
ずっとここに座っていたいくらいだけど、今日はもう帰らないといけない。名残惜しさを飲み込んで、そろそろここを出ることにした。言いづらさを思い切って、一緒に写真を撮ってもらえますか…?とお願いしたら、お隣どうしでいたお姉さんが、撮りますよと声をかけてくれた。忙しいなか時間を割いてくれた優しさと、写真を撮ってくれた優しさとで胸がいっぱいだった。たった2日だけど、私には忘れることのない時間になった。
初めましてでも、突然現れても、そのままで迎え入れてくれる場所がある。
それは大阪という場に限らないのかもしれないけど、それでも私はここがいい。この場所のおおらかさとかウェルカムな気質が好き。そのオープンな空気があってくれるから、自分もおずおずとでも心を開いていける。
「いってらっしゃい」と言って見送ってくれたカフェの店長さん。いってきますと手を振り返した。
マンションへと戻って、部屋で「どこいこ!?」を見る。普通だけど、そんな贅沢な大阪での時間の使い方が嬉しい。
荷物をまとめて、あったものを元の位置に片付けて。支度は終わり。
10日間暮らした部屋を、ふぅとひと息ついて眺めた。
私が借りたウィークリーマンションは、7日間から借りることが可能で、部屋にはキッチンも椅子もテーブルも冷蔵庫も、ドライヤーもカーテンも、暮らすのに必要なものはひと通り付いていて、ティシュとトイレットペーパーまで完備されていた。トイレットペーパーに至っては補充用の1個まで置いてある。
布団もお金を払って新品のものを用意してもらえる。
手を洗うためのキレイキレイと、化粧落としや洗顔があれば充分だった。
部屋にひとりでいることにあれほど怯えていたけど、隣や上の部屋の音が気になることもないし、清潔で綺麗ないい部屋だった。
初めて使うウィークリーマンション。着いてみて写真と違ったらどうしようと思っていたけど、部屋の状態も電話対応もしっかりとしている会社だった。
お世話になりました、という気持ちで、冷房を止めて電気を消してドアを閉めた。重たくなったスーツケースをガタンと玄関から降ろし、鍵を締めて、すこし見慣れた玄関とさよならをして、マンションを出た。
夏はまだこれからと言わんばかりの日差しに、来たばかりの頃の暑さと慣れないスーツケースを引きずる自分を思い出して、懐かしめるだけの10日間を過ごすことはできたのかもしれないとちょっと誇らしく思えた。
少しは持ち慣れたスーツケースを引いて、おいでやす商店街へと歩いた。
島プリン屋さんに顔を出してみると、満席の大盛況。出発の挨拶をして行こうと、ここは勇気を出して「こんにちは!」と声をかけた。
ああ!と気づいてくれた店長さんが、「もう行くの?」と聞いて、「もう行きます」と答えると「そっか、寄ってくれてありがとう、またね。いってらっしゃい!」と明るく見送ってくれた。
「いってきます!」とはっきり大きな声で答えて手を振った自分にハッとして、こんな見送られ方をここに来た時の自分は想像していなかったと、今起きたことのすごさに気づいた。
みんなして「いってらっしゃい」と見送ってくれる。
そのことに気づいた時、喉の奥がきゅっと狭くなった。
最後の挨拶なのに、また来るでしょう?と言っているみたいに、当たり前にそう言ってくれる。
大阪が生み出す気質なのだろうか。帰って行く人扱いなら、ばいばい、またね、お気をつけて。でもいいはずなのに、ここが帰る場所みたいに「いってらっしゃい」と言ってくれるから、
おじゃまする。ではなくて、帰って来ると思ってもいいのかな。ただいまとここに来てもいいのかなと思ってしまう。ここが自分に本当の地元だったなら。そう思って、堪らない気持ちになった。