ポーカーフェイスであまのじゃくな小さな私の同志

 

あの木もこの木も、そう言えば桜だったなと思い出す季節になった。

公園の桜も満開になった。

 

好きな季節だけど、今年は桜が咲いてしまう季節が来ることに焦っていた。

去年の桜が咲き終えた頃、10年以上一緒に居たペットと別れがあった。散歩に行った先での心臓発作で、散歩に送り出したままの別れだった。

けれどこのことについて、感傷的に語りたいわけではない。楽しかった時間だから、季節が一周した今、ちゃんと振り返りたかった。

 

飼っていたのは、チワワのルカ。

眉の辺りに茶色のまろ模様の入った、黒と茶と白の混ざったトライカラーで、やたら大きいチワワだった。チワワと聞いて華奢なちっこいプルプル震える姿を想像していると、多分それとは違う。骨格からしてガシッとしていて、中型犬と一緒に散歩していると「(中型犬の)子供ですか?」と聞かれる小型犬。

悪いことをやらかすと、つい顔に出る。

いぃーっと歯を出して威嚇している風なのだけど、噛みつく気は全く無い。どれだけ素知らぬそぶりでいようとしても、例えこちらが何をしたのか気づいていなくても、悪いことをした!と自覚しているのが顔に出る。隠しきれない動揺の表情。

それが可愛くて面白くて、こんなにウソが下手な犬がいるのかと何度見てもおかしかった。

 

尻尾は縦に振る。横ではない。

尻尾の筋肉がそっち方向に発達したのか、よく見るパタパタという感じの犬らしい尻尾の振り方はしない。

ヘンテコ。だから大好き。

 

 

家に来た時、ルカはもう成犬だった。なので子犬時代は知らない。

ドッグカフェに行ったある日、お客さんが連れて来たチワワ。ペットショップのトリミングに置いていかれて、飼い主と連絡がつかず、捨てられて保健所手前だったと連れて来られたチワワに出会った。一時保護して、カフェに連れて来たお客さんが元々飼っていたダックスフント二匹と一緒にカートに入り、どこか所在なさげなチワワが一匹。

ディズニーの「わんわん物語り」に出てきたあの猫二匹みたいに、ダックスフント二匹と上手くいっていないのではと勝手な想像が働いてしまった。許可をもらって抱きかかえると、しがみつくように腕の中におさまった。これは話が出来すぎていると言われそうだけど、チワワらしい大きな瞳から涙が一滴だけ、抱きかかえる私の腕に落ちた。

チワワが泣くというのは生理現象としてめずらしくないけれど、この時、このチワワをこのまま連れて帰ると決めるのには充分な決定打だった。

 

引き取り手を探しているとの話で、その場で話し合いをして、うちで引き取ることになった。

家に来たばかりの頃は、とにかく大人しくて、小さく小さく縮こまっている様子だった。前に飼われていた家で声帯の手術をされていて、かろうじて残った掠れ声で吠える声を聞くだけで、前の家でどんな思いをしていたのかわかった。

元々ついていた名前があった。その名前で呼んでみた時の、怯えきった目と止まらなくなった震えを忘れることができない。前の飼い主の顔を見つめる表情だった。二度とその名前では呼ばないと決めた。

その時から、ルカという名前が、チワワの彼の名前になった。

 

飼い主と似るのか、飼い主が似ていくのか、その性格が自分とそっくりで、犬と飼い主というよりも、同志。こんな関係性が成り立つのだなと不思議な思いだった。

普段、周りの人に写真を見せたり話をしたりすることもなかった。可愛いし、可愛がっているけれど、ルカに話しかけるのにもどこか恥ずかしさが捨てきれなくて、人に話しかけるのと変わらないトーンで話しかけていた。

嬉しさが顔に出なくて、寡黙なチワワ。

あまのじゃくで、甘えてくる時も静かに黙ってぴとっとくっついて来たり、私のことが視覚に入る範囲で伏せをして、一定の距離を保ったままいたり。だから始めの頃は、懐かれている自信がなかった。でも、帰ってくると狂喜乱舞して駆け回っているところを見ると、ああ愛されてるなあと思った。

どこにも行く気になれず家にずっと居た時も、家の中で心休まらなかった時も、10代の一番困難だった時間を乗り越えたのがルカとの時間だった。

 

 

ドラマ「カルテット」を見ていた頃、わかるようでわかっていなかった言葉がある。

「居なくなるのって、消えることじゃないですよ。

 居なくなるのって、居ないってことがずっと続くことです。」 

巻さんが言ったその言葉の意味が理解できたのは、しばらく経ってからだった。

いつかくるとわかっていても、いつかを想像することができず、それでもやってきたその時。本当にそうだった。パチンと存在が消えるのとは違うこと。地続きの時間の中で、“居ない”という時間が続いていくのだということ。受け入れないとかじゃなく、そういうことなのだと実感した。

 

関ジャニ∞の「青春のすべて」を初めて聴いたのは、そんな時期のことだった。

 起きがけのニュースで知った いつの間にか桜が咲いたと

という渋谷すばるさんの歌う歌詞が耳にずっと残っていた。

去年一緒に見られた桜を、今年は見ることができない。どんな気持ちになるのだろうと、その季節が来るのを待ちながら、でも怖かった。

人それぞれ、心の中にイメージを重ねていけるのが「青春のすべて」だと思う。自分にとっては、今はこの思い出に深く重なっている。先日、満開になった桜の並ぶ公園で、散歩をしながら「青春のすべて」を聴いた。それが自分なりの整理のつけかただった。

夕日の沈む空で、オレンジがどんどん桜色のピンクになって、桜が空に溶け出したみたいだった。涙はそんなに、でなかった。もっとどうにもならなく溢れてしまうかと考えていたけど、それとは違った。静かで、厳かだった。

 

「青春のすべて」は、自分の中にある自分との別れの歌でもあると思う。“カバンを手にして部屋を出て行く この春に君はもういない”という歌詞を聴いていても、外側にある存在というよりも、時間の経過と共に置いてきた自分との別れのように聴こえる。

いつの日にかまた春がきたら

来年、ではなく、“いつの日にか”という言葉を聴くたび、そんなに急がなくてもいいかもしれないと思える。

居なくて大丈夫なわけがないし、一人で大丈夫なんて言えるわけないけど、家に連れて帰ると決めたあの日から、ちゃんと一緒にいられたこと。前の家の思い出など塗り替えてしまえるだけの思い出をつくれたこと、よかったと思えた。

なにか一つ、私に守る存在をくださいと願ったその答えのような存在を、私なりの仕方で愛することができて、よかった。