傾いたポストをそっと立て直すような。 映画「パターソン」

 

雑誌を読んでいて、ふと気になった映画のページ。

「パターソン」というタイトルの映画で、主人公であろう男性のなんとも言えぬ表情の写真に惹きつけられて、記事を読んだ。あらすじを読んでみると、バスの運転手をしながら恋人と暮らし、毎日詩を書いている男性の話のようだった。

一枚の写真から伝わる雰囲気と、“パターソン”という言葉の響き。そして大まかな映画の内容を読んで、これは自分が好きだろうなと思った。

 

観に行こうかなと思い調べてみると、上映されている映画館は極端に少ないようだった。行ったことのない映画館の名前が並ぶのを見て気後れしてしまい、観たかったけどDVDになるのを待とうかなと諦めかけていたら、不思議なことにお友達がすでに観に行っていたり、「パターソン」についての話題を目にすることが重なって、なんとなく、観に行った方がいい気がした。根拠はないけどなんとなくで気になっているものは、大概そのタイミングで行った方がいいなと感じていたこともあり、ここは踏み込むことにした。

 

観るため選んだ映画館は、新宿武蔵野館

ここに来るのは初めて。ミニシアターは2回目だった。前回東京に来た時、別のミニシアターを見かけて、いつかまたミニシアターで映画を観たいなとゆるく思っていたのがこんなにすぐ実現するとは思っていなかった。

迷いつつもたどり着き、おそるおそるエレベーターで3階へと上がると、ビルの1フロアが映画館になっていた。「パターソン」は席の埋まりが早いと聞いていたので早めに来たものの、観ようと思っていた回の残り席は残り1席。最前列ということに迷ったけれど、観たい気持ちが勝り急いで会計を済ませた。タッチの差で買うことができた最後の1席に、やはりなにか感じずにはいられなかった。

この映画館がとても素敵で、映画ごとの世界観を表したパネルやインタビュー記事の展示がされていて楽しい。落ち着いた雰囲気も居心地がよかった。この空間だけが別世界のような感じがして、何もかも好きだなと思った。

シアターに入ると、赤いフカフカの椅子、椅子の右上についているゴールドの番号。そして劇場のようなカーテンで閉じられているスクリーンに、新鮮なときめきがあった。上映前のアナウンスで、後方に映写機の窓があるためお気をつけくださいという言葉があるのも、頭の高さを気にすることもないほど広い映画館との違いを感じてわくわくした。

 

 

そして「パターソン」

やっぱり好きな映画だった。当たり前のことはない日々のこと。

私は“生活”というものが好きになれなくて、直視したくない要素のはずなのだけど、気がつくと人の日々というものに惹かれている。この映画は何も起こらないという見方もあるかもしれないけど、充分なほど様々なことがパターソンの周りで巻き起こっていて、その日常のユニークさを彼自身が楽しんでいる。

パターソンは物静かで、積極的かと言えばそうではないかもしれないけど、“外に出る”ということを習慣にしていて、一人の世界に引きこもらない。毎日のなかで、自分が嬉しくなることをちゃんとどこかに置いている。

仕事の前に詩を書き、仕事の休憩時間に詩を書き、愛犬の夜の散歩に行って、途中でバーに寄る。ビールを一杯飲んで、ベッドで眠る恋人のもとに帰る。

詩を書くということも、内にこもらず外との繋がりのなかで書いている。それが素敵だなと思った。何かに没頭することは一人の世界に傾きやすいような気がするからこそ、パターソンの好きなものへの向き合い方が魅力的だった。

 

自分ではない誰かの視界を見ることは、現実ではできないけど、この映画はまさにパターソンの頭のコックピットに入ったような感覚で、パターソンの目に見えている景色を感じることができる。バスの窓から見える景色、聞こえてくる音、誰かの話し声。自分ではない人になったような、不思議な気持ちだった。

 

パターソンの笑顔はかわいい。基本の表情は、なんとも言えない真顔が多いので、笑った…!というギャップがある。バスを運転しながら、聞こえてくる会話につい口角が上がる表情や、ハッハと声を出して笑うところ、バーで笑いが止まらなくなってしまうのを堪えようとするところなど、パターソンの示す反応ひとつひとつに釘付けだった。

彼の背中が映るたび、体格は大きいけれど引き締まった身体ではないところも情緒的だった。でも実は前髪が下りた時のパターソンは色っぽくてかっこいい。

 

セリフは英語だけれど、派手な身振り手振りがあったり、泣いたり怒ったり感情的な様子を見せるわけでもないところが新鮮で、だから日常としての空気を感じられるのかなと思う。感情で訴えるよりも心に届くものがある。パターソンは感性豊かで、些細で、小さなものを見つけだす目を持っている。いろんなものを見て、考えて、それが詩として形になる。

 

嬉しいことがあったからお祝いに出掛けようと、恋人と映画館に行くシーンがある。

映画のストーリーのなかで映画を観に行くというシーンを久しぶりに見た気がして、じんわり懐かしくて嬉しくなった。ポップコーンを買って二人で並んで同じ映画を観る。そんな何気ないシーンこそ憧れだったなと思い出した。

パターソンと彼女は噛み合っているようで噛み合っていないような気がして、これはうまくいっているのか…?と外から見ている自分は思ってしまうけど、二人には二人の何かがあるのだろうなとも思った。恋人が夕食に作った、チェダーチーズと芽キャベツのパイを頑張って食べようとするパターソン。見るからにパイとチェダーチーズはヘビーだと分かるのだけど、水を一気に飲んで流し込む様子が健気で笑ってしまった。そもそも夕食にパイはあまり食べないということも、この時のパターソンのリアクションで学んだ。

 

合間合間に綴られるパターソンの詩。真っ白のノートにボールペンを走らせて言葉が紡がれる。『Pumpkin』という詩が好きだった。

紙の上をペンが走る様子は見ていて楽しくて、人が字を書いているところを見るのが好きだなと思った。書いているのが英語なので、スルスルッと繋げて書く動きも良かった。

自分もノートを持ち歩き、日々なにかしらを書いている。3行日記のときもあれば、いいことノートにその日あったことを細かくすべて書いたりもする。思いついたことを書きとめるノートは常に手離さない。だからパターソンの日々にシンパシーを感じた。

 

あなたには才能がある、もっといろんな人に見てもらうべきよと恋人が懸命に訴えるけれど、彼は嬉しそうに笑うだけで野心のようなものを持たない。強く求めることなく、ただ書かずにいられないというシンプルな動機で書き続ける。だからこそ劇中に起こる悲劇はパターソンにとって何よりつらいはずで、取り返しがつかないのに誰も責められないという苦しさはリアルで、ヒリヒリと胸が痛んだ。

やるせない気持ちでいるはずのパターソンが静かに手に取った、尊敬している詩人の本。タイトルに書かれた“初期作品集”の文字が切なくて、憧れの人のようにはいかないとしても自分なりのペースで大切に書きためてきた詩を、もう同じように書くことはできないその時だけの詩を失った悲しみがどれほどかと思った。

「いいんだ、ただの言葉だ」というセリフがとても心に残る。言葉なんかという意味で言っているのではなく、大切に思っているからこそ淡々と受け止めているように見えて、そのパターソンの向き合い方に、自分は書くということにどんなふうに向き合っているだろうと思い返していた。

 

そんな喪失感のなか手渡されたノートと、「白紙に広がる可能性」という言葉が、書くことを日々にしているすべての人への静かなエールのような気がして、何のために書くのかという理屈ではないところで、書くことを生きがいにしている人の存在を認めてくれているように聞こえた。

パターソンが、自分が生活していくのに必要と判断したのは携帯電話ではなく紙とペンだった。もう書かなくなってしまうのではと思った時でさえ、外へ散歩に出掛けたパターソンはペンを自分で持っていた。

 

 

目が覚めて、眠たい目で時間を確認して、丸がいっぱいのシリアルを食べる。

バスの運転席を後ろからの視点で映しているシーンを見て、パターソンはそこから見えないけれど、こんなふうにして日々に馴染んでいる私にとっての知らない誰かも、自分なりの何かを重ねながら生活しているのだなと思った。

23 PATERSON

自分の世界があって、でも外の世界とも繋がっていて閉鎖的ではない。バスから見える景色や日々起こる出来事のなか、パターソンはそのペンでノートに詩を書き続けるのだと思う。