2017年に「ばしゃ馬さんとビッグマウス」を映画館で観た。

 

今年、「味園ユニバース」を映画館で観て、「ばしゃ馬さんとビッグマウス」を映画館で観た。

「ばしゃ馬さんとビッグマウス」は、2013年に公開された作品。公開期間をとうに過ぎて、映画館で再び上映される。そんなことが一年のうちに二度もかなうとは思っていなかった。

この二つの映画は、関ジャニ∞を知り始める前からどこか心惹かれていた不思議な距離感の映画で、それでもあとわずかに間に合わず、映画館で観ることができなかった。観に行けばよかった、映画館には行っていたのにと後悔していた。

あまり映画やドラマのDVDを買う習慣がないけれど、この映画だけは迷いなく手元に欲しかった。レンタルでは足りない、必ず元が取れるほど繰り返し観るからと、確信を持てたので購入を決めた。

どちらも何度も観て、未だに飽きることがない。

 

そんな「ばしゃ馬さんとビッグマウス」が映画館で観られるまたとないチャンスとなれば、逃すわけにいかなかった。

何度も観たはず。けれど、映画館で観るものはやっぱり別物で、この新鮮な驚きはなんだろうと考えた。普通は映画館で観て、それからDVDが出て。映画館での迫力や音の記憶を人は無意識のうちに投影して観ているのだと思う。だから多少の物足りなさはあっても、馴染みやすいのかもしれない。

ところがこの復活上映という特殊な状況は、インパクトの大きさでいくと、テレビスタジオから東京ドームレベルの迫力の差があって、大きいものから小さくではなく、小さいものから大きくなるので、何倍もの衝撃になるのだと思う。

 

映画館の全体を包囲される音の力はやっぱり凄かった。プリンターが動く音、シナリオの紙をめくる音、キーボードをカチカチと押すタイプ音。音数の少ない作品だからこそ、その静かな中にある小さな音が耳に届いて、まとう空気を増幅させていた。

 

天童くんの可愛らしさにも再び気づいてしまった。やたらとオレンジの服を着ていることが多くて、似合っていて彼らしくていい。

馬淵さんの誕生日を祝うためカラオケに向かう途中で、馬淵さんと2人並んで歩いているシーン。告白しようとする天童くんの行動は突然に思っていたけれど、わずかなカット割りで馬淵さんを見つめる天童くんの横顔にふっとピントが動いた瞬間の目を見て、天童くんの心が動いた瞬間を目撃できた気がして、ここで彼のスイッチが入ったんだと感じ取れた。

 

天童くんのクラゲのような掴めなさは、魅力ではあるけれど、身近にいたとしたら信用するのは難しい…と思っていた。でも、双子の姉の方か妹の方かどっちでもいい天童くんや、居酒屋では馬淵さんの前の席をキープしている健気さを見ると、チャラいのではなくて、馬淵さんのことが、好きなんだなと伝わってくる。

天童義美という役を安田章大さんが演じていなかったらと、ふと想像した。考えられなかった。普通に考えたら、こんなにいい加減で口ばっかりな人に愛着を抱いたりしない。なのに、本来の安田さんから滲み出る人懐こさや柔和さが天童義美という人を魅力的に表現していて、好きになってしまう。

何度見てもなんとも言えない表情で見てしまう落選のシーンも、ああああー!!と雄叫びを上げる声の大きさに驚き、右から左のスピーカーへと移っていく声の奥行きが流石の映画館だった。声の高さも物凄くて、走りながら2度ほど息継ぎをしているのも聞こえた。息継ぎしてまで叫びたい天童くんの衝動が可愛い。

 

可愛い繋がりでいくと、ワンさんがあんなに枝豆を食べていることも知らなかった。居酒屋でもカラオケでも、なかなかの大きさのお皿を抱えて枝豆ばっかり食べている。日本の分け合って食べる文化を知らないまま、それを天童くんと亀田くんは許している感じが、ワンさんは枝豆好きだもんなと黙認している空気が好きだった。

カラオケが終わり、明け方になって男性陣はこっち、女性陣はこっちと別れて帰るあの空気に物凄く胸が締めつけられる。マスクをして帰る双子のリアリティも情緒を増していて、こんな楽しい時間がまた過ごせたらいいけど、同じような時間はもうこないんだろうなとなんとなくわかっている切なさがある。

 

ラストシーンで、書いていることの象徴だったはずのタイプ音が消え、音楽だけが聞えるようになる。2人が本気を出す勢いのあるシーンで、そこまで使っていたタイプ音を消すというところに、監督の思いを感じた。 

何も書かなければ白紙の画面が続くだけという状況は、自分も意識して書くようになって感じるようになった。パソコンの前に座っているだけでは、何もならない。その恐怖と可能性の表裏一体な感情は、今の自分で観たから理解できたことなのかもしれないと思った。

すべてを注ぎ切った清々しい表情の天童くんと馬淵さん。スクリーンいっぱいに映し出される“了”の文字と点滅するアンダーバーはなんとも言えない力強さがあった。たった一文字、“了”を打ち込むまでに、どれだけの時間と神経を注ぎ込んできたかは、台詞のないあの2人の活き活きとした表情でわかる。

 

馬淵さんのした決断になんとも言えないのは、自分ではないその人が、決めたことだからだと思う。

「ばしゃ馬さんとビッグマウス」を観て感じるのは、夢と向き合うことはいつでも自己責任という現実だった。どんな決断もその人が考え抜いて決めたことで、その決断はその人が持つものだと突きつけられる。

これからも馬淵さんは、自分で決めた道を歩くだろうから、天童くんは天童くんで歩みを進めて、もしまだ好きでいたとしたら本気で迎えに行ったらいいなと思う。

 

 

エンドロールで出演者の名前がずらっと並んでいるのを見て、夢について描くこの映画もまた誰かにとっての夢なのだなと実感した。

1人1人の夢がここにもあって、映画のエンドロールに名前が載ることがどれほど嬉しいことだろうかと考えた。

映画を観終えた後の余韻は明るいものとは言えないかもしれないけど、希望がないとも思わなかった。「ばしゃ馬さんとビッグマウス」を観ると、夢に対してどんな姿勢で自分が立っているのかを再認識できる。

この映画をスクリーンで観たいと思っている人が集まって、エンドロールが終わるまでしっかりと席に座り、明かりがついてから立ち上がる客席の空気が居心地よかった。