アンナチュラルとLemon

 

夢ならばどれほどよかったでしょう

未だにあなたのことを夢にみる

 

感じる痛みと心細さが音になるとしたら、こういうメロディーになるのだろうかと感じたのが米津玄師さんの歌う「Lemon」だった。

 

ドラマ「アンナチュラル」にはこの歌しかなかったと思うほど、曲と映像の空気感が一つになっていた。言いようのない脱力感と内から湧き上がるやるせなさが、掴むことのできない煙のように漂っている。

どうしてなのか「Lemon」からは悲しみだけでなく、怒りの感情も伝わってくる。この感情を怒りと言い表すことが適切なのか分からないけれど、アンナチュラルの中にも流れている感情だと感じていて、言葉にするならそれは全てに通ずる不条理さへの怒りだと思う。

ミコトは第1話で、中堂に敵は何だと聞かれ、「不条理な死」だと答えた。死に対してだけではなく、なぜ、どうしてと考えても考えても答えの無い問いが、鉛の層になって沈んで重なっていく温度は、ドラマと曲に共通していると感じた。

 

石原さとみさんの演じる三澄ミコトの心境に溶け込んでいくことができるのは、この歌だけだと思った。共感を寄せつける余地のないミコトの過去に寄り添うことが出来るのは「Lemon」で、終盤にそっと流れてくるたび、この歌をミコトが耳にできているとしたら、どれほど救われているだろうと思い浮かべずにはいられない。

降っては肌の温度にあたり溶けていく雪の結晶のように、ミコトだけではなく、中堂も、六郎も、このドラマに出てくる人たちに、この歌は浸透していく。

それでもなぜか、絶望だけではなく、希望を感じずにはいられない。アンナチュラルも「Lemon」も、シリアスで、明るくはない雰囲気の作品だと思う。なのに不思議と、暗さの後に残るのはすうっと胸を通る清々しさで、空が開けていくイメージが広がる。

アンナチュラルにおいても、「Lemon」においても、そこに鍵があると思う。

 

あの日の悲しみさえ あの日の苦しみさえ

その全てを愛してた あなたとともに

 

胸に残り離れない 苦いレモンの匂い

雨が降り止むまでは帰れない 

 

「雨が降り止むまでは帰れない」という言葉が浮かび上がるように耳に残る。

この一行から感じる、途方も無い淋しさは何なのだろう。“雨が降り止むまでは”と言っているのに、雨は降り止まないと思ってしまう。もう帰ってこない気がする、そんな物悲しさ。

もう一度会えるかもしれない、と、もう二度と会わないかもしれない、の境はひどく曖昧で、それが嬉しいのか悲しいのかもわからない。

“雨”というものに色々な意味合いがあるようにも思える。阻むもの、何か起こるかもしれない気配、そして涙も、雨から連想するものだった。自分は聴いているといつも、“雨が降り止むまでは帰れない”という言葉に、泣き止むことができなくて、涙が止まるまでは帰れないというニュアンスを重ねている。

 

 

“酸っぱい”ではなく。

“苦い”と言い表したレモンの匂い。

レモンを、明るくフレッシュなイメージを抱かせるこの果物を用いて、全くの反対とも言えるような空気感を当てはめたことに驚いている。

味ではなく匂い。それを苦いと言う。この言葉を聞いて、そうだったと固定概念を覆された感覚がした。確かにレモンは苦さがある。イメージで持つ酸っぱさや爽やかさとは別に、皮の渋みや酸っぱさの後味には苦さがあった。

子供の頃、料理についてくるレモンが何だかもったいなくて口に含んでみると、口の上の方がイーッとなるほどの酸っぱさと、レモンの皮の苦味が一緒になって、思っていたのと違う…とショックだった。見た目はオレンジと似ているし、黄色くて美味しそうだけど、レモンは目で見た通りの味ではないのだと、その時思った。

 

 

医療ドラマやサスペンスの怖さが耐えられない自分は、アンナチュラル放送開始前の宣伝を見た時、興味はあるけれど見られないだろうと思っていた。けれど、解剖シーンのさじ加減や表現方法のおかげで、見ることができている。

ムーミンが大好きな臨床検査技師の坂本さんや、ミコトと絶妙な同僚としての距離感でいる東林海さんなど、ひとりひとりのキャラクターにとても愛着が湧く。個人的に、葬儀屋の木林さんの飄々とした口調と佇まいに、キュンときてる。刑事の毛利さんも好きだ。

 

“何があったのか”

ひたすらにその疑問を投げかけ、徹底的に調べていくUDI。善悪を裁くためではなく、その人がどんな時間を生きて、なぜ死ななければならなかったのか、人の身体からその人の人生を読み解こうとする。

第7話でミコトは、いじめを行なった人物への復讐、そして自分自身への復讐を実行しようとした男子学生の白井くんに向けて、その行動によってこの先に起こるのはどんなことなのかをはっきりと口にした。

まだ終わってない

あなたが命を差し出しても、あなたの痛みは、けっして彼らに届かない。

あなたの人生は、あなたのものだよ

自らの結論に希望すら見出していたかもしれない白井くんにとって、ミコトの伝えた事実は酷なものだったかもしれない。でも、それは事実だった。

生きている、だから出来ることがある。どんなことが過去にあるとしても、ミコトが今を普段通りにすごしていることはとてもリアルだなと見ていて思う。どんなことが自分の身に降りかかっても、今日は今日、明日は明日の自分が生きている。

 

なくしても、暮らすこと。

悲しくても、食べること。

生と死の境は思うよりずっと近く、どこにその境があるかなどわからない。だから、アンナチュラルが描こうとする人間として生きることの意味に、心揺さぶられ目が離せなくなる。

 

「Lemon」の歌詞の意味がどんなものであるかは人により様々で、誰に向けたものであっても、どんな景色が重なるとしても、それでいいんだろうなと感じられる。

どんなことが起ころうと、ミコトは黙々とご飯を食べる。人と会話をして、同僚と笑い合う。

アンナチュラルを見るたびにきっと自分も、その在り方に励まされていくのだろうと感じている。悲しくても怒っていてもお腹が空くことに情けなくなりながら、ご飯を食べて、明日の自分を守ることを選ぶのだと思う。

 

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このCDジャケットが好き ー 関ジャニ∞編

 

ジャケット写真が解禁されると、いよいよ見えてきた全貌にテンションが上がる。

CDリリースを知って予約をする時に、ジャケット写真はまだ分からない。それでも曲への期待で予約をするから、どんなデザインであっても家に来ることは決まっているけど、そのデザインが好みだった時、CDショップで受け取るのがもっと楽しみになる。

あまりに気に入ったデザインだと、そのCDが並ぶ様子が見たくて、CDショップの棚を通りがかりに覗きに行ったりする。

 

初回限定版A、初回限定版B、通常盤、と大まかに分けてジャケット写真は3パターン出ることが多い。

通常盤は特に通年棚に並ぶCDなので、これなんだろうとつい手に取りたくなるジャケット写真であることは大切だなと思う。ジャニーズというとやはりメンバーの顔が写った写真のイメージで、自分がCDを買うようになった最初の頃は、そこに若干の照れがあった。誰のCDか分かりやすいことも大切だけど、通常盤は目を引いて部屋に置きたくなるようなデザインだといいなと感じることがある。

関ジャニ∞のCDのなかで、自分が特にいいなと感じたデザインを3つ挙げてみると、最近のものが多かった。

 

 

「強く強く強く」初回盤

丘を歩いて行く7人。緑が生い茂っているわけでも青空が広がっているわけでもない、黄味がかった景色と茶色く枯れた草木のなかを並んで歩いている7人の立ち姿が、どうしてか強烈に頭に残った。

身長差がそれぞれある7人だけど、大倉さんを真ん中にしてひとりひとり取られたバランスが、パッと見て同じような高さで並ぶ景色になっている。

みんなで踏み出す右足。大きめの一歩を踏み出す村上さんと、小幅で踏み出す横山さんのバランスは意図したものではないだろうけど、自然と全体の空気感を生み出していると思う。

CDを開けた右側の写真も、枝だけになった木が並ぶ茶色の景色。どこか懐かしく、哀愁漂う景色になっている。語らないシンプルさと情報量の少なさから、余白の魅力が生まれているデザインだと思う。

 

確か通常盤の歌詞カードには、7人が並んでいるシルエットが線になったモチーフが使われていて、それがとても好きだった。映像作品「8UPPERS」の冊子でも、7人が並んで歩く姿が影のように切り取られているモチーフがあって、シルエットだけで表れるそれぞれの個性に惹かれていたのを思い出した。自分はどうやら簡素化されたモチーフに弱い。

関ジャニ∞を意識する前だった頃、新曲のジャケット写真を見て、直感で欲しいと思ったのが「強く 強く 強く」だった。急いでと戦々恐々お店に向かい、それが初めて買った関ジャニ∞のCDになった。

手元に欲しい、部屋に飾りたいと思ったのも、このCDが初めて。100円ショップで小さなサイズのイーゼルを用意して、机の上に飾るようになったのはこの時から。今でも、新曲が出ると置き換えたり、時期や気分に合わせて飾ったりしている。

 

「侍唄」初回盤

ドラマ「サムライせんせい」で錦戸亮さんが武市半平太を演じた。そのドラマの主題歌で、作品のテーマと曲のテーマがしっかりと噛み合い、ジャケット写真のデザインにもそのコンセプトが組み込まれているところに魅力を感じた。

武士のような気概が表れているメンバーそれぞれの立ち姿。表情。関ジャニ∞と和の相性の良さが、ここでも発揮されている。

CD本体のケースとは別に、初回盤には紙のケースが付いている。紫と白の細かい正方形が並んだ小紋柄がとてもいい。

紙質も薄いものではなく厚紙でデコボコがあり、和紙の質感。紙のケースにCDをしまうと、小紋柄の窓の向こうにメンバーの写真が見える。窓枠が四角の窓ではなくて左上と右下に2段、ガタガタっと段がついているところがさらに和の雰囲気を増すアクセントになっていて、障子窓のように見える。

右上に掲げられた曲名とグループ名。右上に配置されていることで、古文のような風情を醸していて素敵だった。使われているフォントも独特で、縦長でハネのないバランスでありながら存在感のある“侍”の字も、小判みたいにも見える“唄”の字も可愛らしく、漢字・ひらがな・カタカナ、そして記号の“∞”という、縦書きではとくに統一感を持たせるのが難しそうな表記を、ごちゃごちゃっとせずにまとまりを持たせているところがすごいと思う。

背表紙にいたるまで、古書のような風合いは統一されていて、棚に縦で並べた時もパッと目を引くデザインになっていると感じた。

 

「ジャム」通常盤

 イチゴ、オレンジ、キウイ、ブルーベリーと、並ぶ果実がめいっぱいジャケット写真になっている。

これがCDショップに並ぶ!最高!と思ったのがこの「ジャム」のジャケット写真の印象だった。初回盤のAがオレンジ、Bがイチゴで、通常盤になってフルーツ勢揃いというところに気持ちが高まる。果実の中にメンバーの顔が隠れているというところには、なぜ…と不思議な気持ちになったものの、目立ってメンバーの顔写真を使うのでは無く、色使いで目を引いて手に取りたくなるCDになっているのがすごくいいと思った。

ジャムの瓶ではなく、みずみずしい切りたての果実。それが初回盤ではダンボール素材の箱に入って届くという、産地直送なコンセプトが素敵だった。

 

 

いいなあと思えるデザインに当たると、きた!!とガッツポーズしたくなる。本の表紙やお菓子のパッケージと同じように、中身の顔となるジャケット写真の大切さを思うからこそ、そのこだわりや探究心を感じる作品を見ると楽しくなる。

歌詞カード内の写真では「イッツマイソウル」の写真がすごく好きで、メンバーがそれぞれ思い思いの花束やプレゼントを持って押しかけている感じにとてもときめく。追いかけた女性は…というオチも含めて、関ジャニ∞らしさが盛り込まれていると思う。

「奇跡の人」初回盤では、メトロック直前の円陣の写真がジャケットに使われていて、合わされた手だけが写っているけれど、衣装でその手がメンバーであることが分かる。その一瞬を写した写真が印象的だった。もともと使用するつもりで撮ったのか、後から採用されたのかは分からないけれど、いい写真だった。

 

自分の好みの傾向として、にぎやかなデザインや合成されているものよりも、情報量の少ない、静かなデザインが好き。曲が主題歌になっている場合は、その空気感と地続きでコンセプトが統一されていると、いいなあと嬉しくなる。

好みのものが続くわけではないし、選べるものでもないけれど、デザインは大切。曲の魅力とグループの勢い、そしてCDのコンセプトの息が合った時に大きな波は生じると感じるからこそ、これからもCDというひとつの作品に期待を寄せて、ドキドキしていたい。

 

ごはん行こうって言われると嬉しい

 

日が沈んでから待ち合わせをして、ごはんを食べに行く。 それがこんなに楽しいことだとは。

駅の改札前で待ち合わせをして、相手を見つける瞬間も、少し待ちぼうけをして立っている時間も、今日の私には会う約束をしているひとがいるという確かな嬉しさが何度経験しても心をくすぐる。

大人と言える歳になって、何が楽しいかと考えると、この時間を過ごしている時だなと思う。

 

子供の頃、大人の言う「ごはん行こう」って何だ?大人ってそんなにごはん好きなの?と不思議に思っていた。

ごはんはあくまでエネルギーチャージのピットインタイムで、学校の給食でも、休みの日のお昼ごはんでも、早く食べ終わって遊びに行きたかった。ごはんと遊びは別もの。だから、ごはんが遊びのような位置付けになっていることの意味が分からなくて、1日遊ばないの?ごはんがイベントのメインなの?と不思議は深まるばかり。

子供ながらに想像を膨らませて、こんなに大人たちがこぞってごはんに行くのだから、何かしらの隠された楽しさがあるのではないか…と考えたりして、お酒か…?でもお酒だけでそんな面白いか…?と、結局は“ごはん行こう”の楽しさについて、納得できる答えを導き出すことはできなかった。

 

自分が経験してみて思うのは、1日会えるのも嬉しいけど、仕事終わりや時間の合間に会おうと時間を用意してくれるこの感じがじわじわ嬉しいということだった。

飲み歩くわけではないけれど、美味しくて落ちつけるお店を探して、そのお店で2、3時間ごはんを食べながらおしゃべりをして、ほどよい時間に帰る。

ベタベタでもなくあっさり過ぎもしない、そんな距離感でごはんに行ける相手がいることも、毎度当たり前になることはなく、特別なことだなと実感している。

 

あの頃不思議で仕方なかった“ごはん行こう”は、働きだすと丸一日の時間を作れないとしても、一日のうちの何時間かを誰かとすごすための口実にもなり、いわば誘うための決まり言葉なのだとわかった。

ごはんを食べることが第一目的というより、この人と時間を過ごす、会話をしたいという意思表示が“ごはん行こう”に込められている。そう考えると、子供の頃の自分が思っていたよりも大人は人に関心を持っていて、誰かと一緒にいたいという感情が強いのだと発見だった。

 

以前の自分は、人前で食事をすることが苦手だった。

緊張するし、会話をしながら食べるのか、食べてから会話をするのか、そのさじ加減が全くわからない。けれどいつしか、このひととなら緊張せずに一緒にごはんを食べられると思える相手がいることに気づいた。その時初めて、ごはんに行きたいという感情を知った。

仲の良さに境界線が必要かはわからないけれど、言葉にするなら“一緒にごはんを食べられるかどうか”は、自分のなかで大切なリラックスの境界線になっていると思う。

 

モットーとして、自分の話を聞いてほしいからという理由では誘わないようにしようと心に決めていたものの、ある時、一人黙って抱えられない出来事があり「会いたい!ごはん行こう!」と連絡をしたことがある。

送った後で、やってしまった…相手の都合を考える前に…と悔やんでいると、すぐに返事が来て「いいよ!明日会おう!」と言ってくれた。うれしかった。

なにか状況が解決するわけではないとしても、すぐに駆けつけてくれて、時間を割いてくれたことがうれしくて、一人じゃなく二人でごはんを食べる時間は何よりも安堵できるひとときだった。

ライブ終わりや旅行先での食事も、日常には無いドキドキがあって、鮮明に記憶に残る。あの時食べた串カツ。あの時食べたオムレツ。ドラマ「anone」を見ていても、映画「南極料理人」を見ていても、一人で食べる食事とテーブルを囲んで食べる食事は大きく違うものだと感じる。どんな表情でどんなものを食べたか、記憶に残り、あの時間の空気の温度がそのまま思い出せる。

 

単純でありふれていることのようでいて、大人のごはん文化は奥が深い。気軽に会うためのきっかけでもあり、時にピンチの拠り所にもなる。

会話のコミュニケーションが、子供の頃で言う遊びになっていると思った。歳を重ねて当時者になれることが増えて、話題に現実味と幅が増えるからこそ、会話に面白みが出てくる。

子供の頃にする会話は、どこか自分ごとではなかったりずっと先の事で、自分だけでは決められないガラスの壁を感じていた。今は、どんな話も関係のある事として話すことができる。空想ではなく、現実として起こせる会話をしていることが嬉しい。

 

最近は理想の野菜のピクルスを探してお店を回るのが楽しい。とにかくメニューにあれば頼む。うずらの卵と大根が入っているお店は分かっているなと思う。ピクルスはいつも少量だから、瓶ごと持ってきて!と言いたくなる気持ちを抑えて2度頼む。いつか理想的なピクルスを見つけることを目標にしている。

ごはんに行く日は、帰りの時間もすこしゆったりになる。暗くなったら帰らないと、と思っていた子供時代を思うと、この時間に外でごはん食べてるなんて大人になったんだなあと感慨深くなる。

こんな時間はいつまで続けられるだろうかという切なさもありながら、それでも今は心癒されるこの時間を大切にすごしていたい。

 

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