2017年のご挨拶

 

年末のざわざわとした雰囲気は、何度経験しても慣れることがない。何かやり残したことがあったような、まだまだ何もできていないような気がして、誰に言われた訳でもないのに気持ちばかりが焦る感覚。

12月31日から1月1日になると、ここまで一年かけて積み上げてきた出来事すべて、リセットされてしまうような気がして、もう少しこの余韻の中にいたいのにと思う自分の気持ちだけが、置いていかれる感じがする。せっかく積み上げた積み木を、時間がきたから新しいものを作りましょうねと片付けられてしまうような。

 

そんな駄々をこねたところで、年は越える。

心残りというよりは、一年間を生きた2017年にそれなりの愛着が湧いているということなのだと思う。

一年の始まりになるといつも、この手帳が嬉しい出来事で埋まるように、スペシャルな一年にすると決意する。そんなこと起こる?!と驚くような、面白い出来事を起こして自分をビックリさせたい。いいことあるといいなーと期待するための種まきを物凄く頑張っている。

2017年も、想像もしていなかった出来事が色々あったと、ノートに箇条書きにしてみて思った。

 

1月は大阪と京都に2泊3日で行くことが出来て、関ジャニ∞のライブを観るという、夢をかなえた月だった。

1年前に来た場所に、もう1度来ることができた。それが嬉しかった。たこ焼きの味も、大阪の景色も、嵐山の雪景色も、今も鮮明に思い出す。

 

今年はライブに最も行った年だった。関ジャニ∞のツアーは2度もあったし、高橋優さんのライブにも、Nissyのライブにも行くことが出来た。様々なライブを観ることで、それぞれの演出の個性や見せ方の違いを感じた。

嬉しいこともあったけど、別れの重なる年でもあった。ずっと一緒に過ごしてきた愛犬との突然の別れがあった。飼い主に似たのか無口なポーカーフェイスで、テンションは基本低いけど嬉しい時はなぜか尻尾を縦に振る、大きいチワワだった。もう会えない、ということの意味、途方もない心細さを知った。

このままの気持ちで一年を過ごすのだろうかと思ったけど、それでも嬉しくなれることはあった。舞台を観に行くことが出来たことも、浮上していく大きな力になった。大倉忠義さん出演の「蜘蛛女のキス」安田章大さん出演の「俺節」2つの舞台を観て、揺さぶられた感情を言葉に変えて、文章にするという意味でも大切な課題になった。

 

夏にリリースされた関ジャニ∞のアルバム「ジャム」には、沢山の刺激を受けた。音楽の楽しさを味わうための感性を、このアルバムと関ジャムから教わった。

「今」という曲に感銘を受けた気持ちをどうにも伝えたくなって、スバラジに送ったメール。それがラジオ内で読まれた。自分で送っておきながら、本当にメールは届いているんだと驚いて信じられなくて。渋谷すばるさんにメールを読んでもらえるなんて奇跡だと思った。

この時、何が何でも書くことだけは続けると、心に決めた。ステッカーは一生の宝物にする。

丸山隆平さんの主演映画「泥棒役者」の公開もあった。映画館にこんなに通ったのは久しぶりで、雑誌のインタビューを読むのも、映画について考える時間すべてが楽しかった。

 

目標にしていた通りの変化があったかと考えると、地道な一歩ずつの変化だった気もする一年だったけど、一貫して続けることが出来たのは、書くことだった。

それだけは、どんなことがあっても続けてくることができた。文章を書くためにノートパソコンを買ったのも、今年のことだった。自分なりに課題を見つけて、これは書くのが難しそうだから…と避けたくなるようなことも、挑戦してみることができたと思う。

 

「宛名のないファンレター」を今年一年、読みに来てくださったみなさんがいてくれたから、書くことへの気持ちを保ち続けることができました。

読んでくださってありがとうございます。コメントをいただいたり、メッセージをいただいたり、星を押してもらえること、何よりの原動力になっています。

どんなきっかけでこのブログを知ってもらったんだろう、どんな時間の合間に読んでくれているのだろうと、この画面の向こうを想像しながら、いつも書いています。

決意はしたものの、このまま書き続けていく意味とは。と考えて葛藤することも変わらずあって、書くことそのものよりも気持ちを保ち続けることのほうが難しいのだと実感した一年でもありました。それでもきっと読んでくれている人がいて、届いているという実感を時折感じられることで、励まされていました。

迷うこともあるだろうけど、それでもやっぱり楽しくて、書かずにいられないので、来年も書き続けていこうという心持ちです。

 

文章を読んでいてくださるみなさん。今年一年、ありがとうございました。

来年もどうぞ、よろしくお願いします。

 

言葉や仕草から思う、大貫はじめ。映画「泥棒役者」

 

「待とうと思って」

天ぷらを揚げてくれている美沙を待って、正座でちょこんと座るはじめくんは堪らなく可愛くて、始まってすぐのこのシーンに二人の空気感が表れていた。

温かいの食べてほしかったのにー…とシュンとする美沙に、「やっぱり待とうと思って」とはじめくんは答えて、「うん、それ二回目」と美沙が言う。短いやり取りだけど、ああこういう空気が好きだな、この二人ならきっと大丈夫だと感じた。

ここにはじめくんのすべてが集約されている気がして、最も好きなシーンだった。

あの時、唾を飲み込んで神妙な面持ちでどこか緊張している様子だったのは、この時にもう打ち明けようとしていたからなのだろうか。これまでも、何度も何度もそうして、だけど言い出せずにいたのかなと思う。

 

もう書くことができないと、ひとりきり大きなお屋敷で暮らしていた絵本作家、前園先生のところへやって来たひとりの泥棒。

それぞれがひとりぼっちで、お屋敷で出会ったことから始まる繋がりは、“知らない”から“知ってる”になって、段々とそれだけではない縁になって。いつの間にか他人ではなくなって、それぞれの人生に関わっていく。

映画「泥棒役者」は、ひとりひとりが抱える不器用をすくい上げて、誰かと補い合うことができるということを見せてくれた。

西田征史監督の作品はいつもどこか、小さい頃に感じていた言葉にはならない気持ちを、自分でも気づかないところに置いておいた気持ちを、ツンとつつかれるようなくすぐったさと懐かしさがある。不器用でも生きていく登場人物たちの姿は、自分の感じてきたものと重なるがゆえに、ヒリヒリ痛むこともある。それでも最後に残るのは、誰かが見ていてくれることへのあたたかさで、いびつささえもおもしろがっていく強さだった。

 

はじめくんに魅力を感じたのは、自分の人生をずっと暗い人生だったと語りながらも、今の自分がいる場所の大切さを知っていて、それを噛み締めているというところ。 

「タマとミキ」に出会って、また一人になって、だけど美沙と出会った。自分の境遇を恨んで、自分なんかこんなもんだと自暴自棄にはならず、それでもそばにいてくれる人のありがたさを受け止めながら日々を生きている。それを大切にすることができたから、工場長ははじめを雇い続けてくれて、美沙と出会うことができた。偏見を越えて自分を信じてくれる人がいるということを知ったはじめはどんな気持ちだっただろう。

世間は冷たいと言った泥棒の則男は、確かに冷たい風当たりを実感してきたのかもしれない。けれど、最後にはじめが則男にかけた言葉は、はじめ自身が感じてきたことだからこそ、伝えることができた言葉だと思う。

 

映画の中で3度出てくる「そうですー」のシーンはどれも好きで、その間合いと「…っ」と小さい「っ」が入る言い方が絶妙だった。一番好きなのは、奥さんに言われて「そうですー」と答えるときのあのトーン。背を向けながら半泣きなのがいい。

ひょいひょいと平気で嘘がつけるわけではなくて、「ごめんなさい」とすぐ謝りがちなはじめの性格は可愛らしく見えてしまって、泥棒に来てるのに「お邪魔します」と言ったり、靴のまま家に上がりはするものの靴の砂を落としてから上がったりと、はじめくんの人の良さが要所要所で隠しきれない。

 

 

こぼれたワインを拭こうと、ポケットティッシュをジャケットの胸ポケットからサッと取り出し、しゃがんでペタペタと拭く。その一連の動作がなんだか好きだった。

普段からポケットティッシュを持ち歩いているんだ…というところとか、こぼれているワインのわりにティッシュが足りていなくてひたひたになっているところとか。はじめの日常の空気が強く感じられて、いいなあと思いながら見ていた。

ツボだったセリフで言うと、轟さんの名探偵もびっくりな推理についていけなくなったはじめの「えーっと どうしよう」は最高だった。声のトーンと、冷え切った温度が素晴らしい切れ味だった。

鍵を開ける2つのシーンも印象的で、金庫を開ける時の、目を一瞬細めて頬がクッと微かに上がる表情に心を掴まれた。ほんわかした雰囲気を終始まとっているはじめが、唯一別の顔を見せる瞬間で、わずかに残っていた過去の顔を見てしまったような緊張感があった。

 

そして、則男に「おい!」と大きな声で呼ばれてビク!!と肩をすくめる様子から、これまでもどれだけ怯えてきたのかが分かる。かつては先輩に言われるがまま、そして今もまた、脅されるがまま屋敷に忍び込んでしまったはじめ。どんな時も流されるがままになってしまうはじめだけど、則男に殴られた時、殴り返すことをしなかった。自分の保身のために殴り返さなかったのではなく、あの時はじめは「タマとミキ」の原画を引き渡したくない一心で、それしか考えていなかったのだと思う。

不自然ながらも築いてきた屋敷の中での関係性を、よりによって則男の口から雑にバラされ崩されてしまい、一瞬動きが止まって背中の視線を思うはじめの表情は切なかった。すべて終わった、もう意味がないと寝返ってもおかしくなかったのに、黙々と金庫を開けたはじめは一途にも前園先生のためだけを考えていた。

 

前園先生は、はじめの正体を知り過去を聞いた後、奥さんと轟さんに対して見せしめのように嘘を暴いたりはしなかった。はじめはそれをどう思っただろう。

むしろ自らの過去を話して、正直な胸の内を語って見せることで、はじめへの助言を送った。こっそりと隣にいたはじめの方を向き、奥さんと轟さんには聞こえないようにはじめに話し、そうしてまたクルリと奥さんと轟さんの話題に入っていく前園先生は本当にかっこよくて、正義感だけを振りかざすのではない語りかけ方を見せてもらった気がした。

正直に話して美沙に別れを切り出されたら…と煮え切らないはじめに、「それは受け止めるしかないだろう」とはっきり言った前園先生の言葉には重みがあって、当たり障りない励ましではなく、自分がしたことの報いは負うしかないというどっしりとした構えが、人生経験の深さを感じさせた。

 

隣の家から窓越しに楽しそうに話す4人の様子を見たユーチューバーの高梨。

彼の目が印象的だった。驚いているような、怒っているような、様々な感情が入り混じる表情だった。仲間に入れて欲しいならそう言ったらいいのに、と見ている側としては微笑ましく思ってしまう。

理不尽なクレームを言いに訪れた高梨に、奥さんが英語でまくし立てるシーンがある。そのシーンでのBGMと奥さんの英語のテンポが合っていて、歌っているような滑らかさがあって、いつも惚れ惚れと聞き入っていた。奥さんを演じる石橋杏奈さんの声は、音がとても柔らかくて耳に優しい。

英語で言っていることは、“見て、謝ってるでしょ。これ以上できることはないの。あなたに割く時間も無いの。”というようなニュアンスで、かなり辛辣なことを言っているのに、綺麗な声と流暢な発音で一気に言われると聞き入ってしまう。

劇中でアニメーションの吹き替えをしているのを聞いて、はじめとしての発声の時の丸山さんと石橋杏奈さんは吹き替えに声が合うのではないかと感じた。丸山さんには「うん」というセリフが2度あって、その2回目の「うん」が特に良かった。

 

 

ようやく家に帰ると、そこには待ちくたびれた様子の美沙。

こんな可愛い彼女がいたらすぐさま抱きしめるわと思った。カニクリームコロッケ全部食べてやろうかと思ったって、可愛すぎる。

不機嫌さは隠さず、可愛らしく正直に見せる美沙。それでも引きずることなく「今あっためるから」とキッチンに向かう美沙に、はじめは話を切り出した。

その切り出す瞬間にも、決心をしたのに言葉に詰まるリアルな間があって、言わなくちゃ言わなくちゃと思うのに言えない葛藤はひしひしと伝わってきた。心に引っかかっていたことをようやく伝えられた時、予想していた最悪の反応ではなく、拍子抜けするほど大丈夫だった時の安堵がどれほどのものか。

一番大切だから一番失いたくないと、悩みつづけたはじめの美沙への思いを映画のなかで感じてきたからこそ、その悩みはもう自分ごとのようになっていて、美沙の言葉を聞いて、なんだ…知ってたんだ…というふうに眉を下げて泣き笑いの表情を見せたはじめに胸が締め付けられた。

 

でも僕は…とまだ自信を持てずにいるはじめに美沙は、私が、決めて、ここにいる。というシンプルな伝え方をした。あなたがこうだからどう。ではなく、私が決めた。と言ってくれることが、どれだけはじめの心を軽くしただろう。

 

何度目かに観た「泥棒役者」で、ラストシーンで太陽くんのマスコットが映った時、客席からふふっと笑いが起こった。ふとした瞬間に溢れた、温かいその空気が今でも印象に残っている。そのままプレゼントにしてしまう、はじめのキャラクターもなにもかもをひっくるめて、観客から愛されている空気があった。映画を観ているうちに、気弱で引っ込み思案だった大貫はじめは見守りたくなる愛すべき人になっていた。

口元のケガを見つけた美沙に、どうしたのと聞かれて「ぶつけちゃって」と答えたはじめ。はじめが最後についたあのうそが本当の最後のうそになるといいなと思った。

 

 

映画「泥棒役者」には、小林賢太郎さん主催の演劇ユニット「K.K.P」で西田征史さんと片桐仁さんが共演していた平田敦子さんもセールスを断る主婦役で出演されていて、あ!と嬉しくなった。

さらにサプライズだったのは、西田監督の前作「小野寺の弟・小野寺の姉」のより子とのぞむが「泥棒役者」にカメオ出演したこと。二つの作品の世界が繋がって、同じ世界線にはじめも前園先生も、より子ものぞむも生きていることを想像できたのがうれしかった。

泥棒役者」はエンドロールも含めて、大好きな映画になった。主題歌である「応答セヨ」が流れて、そのまま終わる心構えでいたら、まだ物語がつづいていた時のうれしさ。歌が一瞬止まる演出と、再び流れ出すタイミングが素晴らしくて、本編でがっしり心を掴まれていたのに、エンドロールでさらに物語の深くへと引き込まれた。

 

舞台から映画になった「泥棒役者」は、なんと来年4月に再び舞台化が決まった。

お知らせのメールを見た時、デジャヴか目の錯覚かと、まず自分の目を疑った。舞台版のDVDでこの作品を知って、数年越しで映画化が決まり、その盛り上がりを初めから見続けることができたと充分に喜んでいたところに、丸山隆平さんが主演となる「泥棒役者」を舞台で、劇場の生の空気のなか観ることができるなんて。夢だと思った。

映画だけでもない、舞台だけでもない。どちらもつくってもらうことができる。舞台は映像に残らなくても、映画が残る。そんな贅沢なことが叶うのかと、信じられない気持ちでいる。

 

映画のDVD発売をあとは待つだけかなと思っていたら、来年へと続いて行くことになった「泥棒役者

舞台で、というのが本当に嬉しい。舞台ではどんな変化があるのか、わくわくに胸膨らませながら、2018年の春を心待ちにしたい。

 

Hey!Say!JUMP「White Love」9人だからこそのフォーメーション、振り付けの魅力

 

Hey!Say!JUMPの新曲「White Love」が堪らなく好きだ。

White Love」に感じるのは、120%の幸福感。映画館の予告で流れてきた時に、この曲好きだなと感じたのが最初の印象だった。映像とセリフの後ろで微かに聴こえるメロディーだけで、惹かれるものがあった。

 

ひたすらに甘いラブソングに時折胸を打たれるのはなぜなのか。あまりにマイワールドなラブソングに全く心が動かないこともあれば、毎朝起きてすぐに再生するほど好きになる曲もある。

White Love」もまさに甘い言葉のオンパレードなのだけど、それが爽やかで軽やか。そうした印象を持つのは、歌詞の言葉選びとHey!Say!JUMPだからこそ見せられるダンスの振り付けに鍵があると思う。

 

Hey!Say!JUMPはメンバーが9人で、ジャニーズのグループの中でも人数が多め。

その特徴を「White Love」では存分に活かしていたところに感動した。人数が多いと視点が散らばりがちなところを、巧みなフォーメーションダンスで見事に視線を誘導していて、視線が迷子にならずに、どこに注目するといいのかがわかる。

 

歌の始まり、山田悠介さんと知念侑李さんが歩きながらすれ違い立ち止まるところがとても好きで、知念さんの伏し目がちな視線の落とし方は特に美しいなと思いながら見惚れる。

2人が通り過ぎると、見えてくるのは中島裕翔さん。中島さんが中央に立つフォーメーションになるとふわっと空気は変化して、開けていく印象になる。手で蕾を作り花開く様子を見せる振り付けが綺麗で、手の動きだけでなく足のステップも含めてシルエットが美しい。

中島さんが歌う、“心に咲いた花を”というフレーズも“を”の一音の中で音程が移り変わっていて、このメロディーラインが素敵だと思った。続く“優しさで育ててゆこう”の歌詞での知念さんの手の振り付けも、指先まで神経を意識している繊細な動きで、手の振りひとつであっても丁寧に魅せる姿がカッコいいと思った。

 

たったひとつだけ 願いが叶うのならば 君が欲しいよ 

最初で最後の恋を始めようよLady

ただ一人だけ 愛する人に捧ぐよ 想いを込めて

 

“たったひとつだけ”というサビのフレーズに入る直前に、9人が一気に中心へと集まる。センターには山田さんが立ち、そのサビのフレーズと同時に放射状に前進して広がる動きは、この曲の見せ場だと思う。息を合わせて見せるこの動きは、9人いるからこそできるフォーメーション。バタバタとすることなく、軽やかなその動きは簡単にできるものではないと思う。

直前までスタンバイをする素振りを見せずに、さっきまで別の振りをしていたところからスッと形をつくって、フワッと広がる動きは、映像加工やカメラ効果を使わずに、人の動きだけでつくりだす躍動感という感じがして、見るたびに感動する。

 

サビの盛り上がりにぴったりと合ったその振り付けから、5人と4人に分かれ、直線に並びステップを踏みながら、時計の針のように斜め一列のラインをつくる。一本の線になったところで、奥から順に指を差して歩いていく。

この振り付けも、息つく暇なくさらっとやってのけてしまうけれど、美しく計算されたフォーメーションとステップに心動かされずにはいられない。

嵐の「愛を叫べ」を見た時にも感じたけれど、タイミングをずらして振りをするのは難しい。合わせることはできても、わずかにタイミングをずらして、自分の決められたタイミングを見計らいながら踊るというのは、音を聴いていてもこんがらがるのではと思う。

9人でその振り付けをするとなると、一人がずれるとそのずれはどんどん大きくなってしまう。最初のタイミングもきっとプレッシャーがあるはずで、よくこのタイミングを逃さずに入れるな…といつも驚く。

 

そして大サビに入ると、メンバーは再び中心に集まり、山田さんをセンターにして顔を外に向けつつ、手のひらで蕾をつくる。

“ただひとつだけ 願いが叶うのならば”と歌う山田さんの歌声に合わせるように、その蕾がひとつひとつ花開いていく様子は、まるでバラの園のなかに山田さんが立っているみたいで、こんなにも風景の思い浮かぶ振り付けがあるのかと目を奪われた。

常に個を主張するのではなくて、時に裏側に徹することで魅せることのできる美しさがあると「White Love」の振り付けから感じた。

 

山田さんの後に知念さんがセンターに入って、“最初で最後の恋を始めようよ Lady”というフレーズを知念さんが歌う。ここで、“Lady”と言いながら手招きをする知念さんのカメラアピールが素晴らしくて、見ていて思わず笑顔になってしまう。

そして最後の最後にある、指を差し出す振りをしながらのステップ移動。くるくると回るメリーゴーランドみたいで、その華やかさと温かさにうるっとくる。曲に合わせて小さなステップで時間内に移動し終えることも至難の技だと思う。

 

 

これまで自分は、あまり人数の多いダンスやフォーメーションが特徴のダンスに心惹かれることはなかったけれど、目で見て美しいというのはこういうことかと感じられたのが「White Love」だった。

そうしたダンスの美しさと、シンプルで真っ直ぐに表現された言葉に心を掴まれて、何度も何度も見たくなる。

こんなにストレートなラブソングをしっかりと歌ってくれるなんて、素敵だ。照れつつ歌われるラブソングは、あまり心にグッとこないけど、真正面から歌うラブソングはエンターテイメントとして成立する。アイドルだからこそ見せることのできる、甘いラブソングがこれからも増えていってくれたらいいなと思う。