減らしていった先に残る美学 「Answer」

 

曲の始まり、キーボードの音が鳴った。村上信五さんを思い浮かべた。

さらに聞こえるトランペットの音に、あっ、横山裕さんだと思った。

そこに重なるようにハーモニカの音が聞こえて、渋谷すばるさんだと確信した。

 

楽器の音だけで、誰かを思い浮かべる感覚は不思議なものだった。歌声を聴いたわけでも映像を目にしたわけでもないのに、はっきりと3人の顔が思い浮かんだ。

渋谷すばるさんは歌を歌う。それは関ジャニ∞をなんとなく見ていた時から知っていたけれど、横山裕さんがトランペットを始めたこと、村上信五さんがピアノやキーボードを弾くことは、興味を持ったその時知った。それがいつの間にか根強く自分の中で馴染んでいたことに、イントロを聴いて気が付いた。

 

渋谷すばるさんが作曲をして、作詞は3人がそれぞれ持ち寄る形で作られた曲「Answer」

少年隊を意識したと話していた音には、随所に黄金比率のようなエッセンスが散りばめられていて、指パッチンの音はその特徴の一つ。

私は指パッチンのある曲が好きで好きで。夏のリサイタルで少年隊の「君だけに」をこの3人で披露した姿をDVDで見た時は、ひたすら感動しきりだった。その指パッチンを今回、ユニットで自ら取り込んだと言う渋谷さんの言葉を聞いて、嬉しさゲージが振り切った。

音がするということは、振り付けもあるはずで。ライブでどんな演出になっているのか早く知りたくて、ソワソワが止まらない。

 

歌詞をそれぞれ書いてみたら、3人とも同じようなことを書いていたと話す渋谷さんの嬉しそうな声は印象的だった。同じ道を隣同士並んで進んできた3人だけが共有してきた感慨深さが、この「Answer」を通して伝わってくるようで、それを曲という形にして見せてくれることに感動した。そうできるのも、今ここまで歩いてきたからなんだろうなと思うと、大事な時間とプロセスを目の当たりにしているという実感に喜びが増した。

 

30代半ばになった3人の、今もっている思い。年代で言えば自分よりも年上ではあるけれど、それでもその歌詞に共感するところがあったことがうれしかった。

なかでも心に響いた歌詞があった。

 

プラスしか知らなかった 

知ってしまったマイナス美学

 

渋谷すばるさんが歌うパート。

“プラスしか知らなかった”と飾らず言える強さと、“知ってしまった”と表現する言葉選びにらしさを感じて、そこに心掴まれた。「〜してしまった」という表現になっていることで、喜んでいる感情だけでなく、ついに知ってしまったというような、ちょっとした悔しさみたいなものが滲んで見えて、そのあまのじゃくさが好きだなと思った。

 

足し算を覚えるよりも引き算を覚えることの方がきっと難しい。どんなことでもそれは当てはまる気がしていて、沢山のものを手に持っている人よりも、持つものは少なく身軽でいる人に憧れるのはそういうことなのかなと思った。

好きなドラマや映画を見ていても、惹かれるのは魅せ方に全力を注ぐ人より、フラットでいることが肌に馴染んでいる人で、ドラマ「カルテット」や星野源さんが好きな理由もそういうところにある気がしている。

だからこそ、守るべきもののため攻めの姿勢で前傾体制を保ってきたように思う3人が、今肩の力を抜いて、今の自分を見つめて、マイナスへの抵抗ではなく美学に気付いたということがうれしくて。どういう視点なのか自分でもわからないけれど、息苦しさや生きづらさを越えて、落ち着いて安らぐことのできる今を掴めてきたのかなと思うと、なんだか安心した。

 

過去に囚われ

嘘を着替え

手つかずの夢

という言葉も、すごい。

どこまで自分に正直であるかも、どこまでそれを見せるのかも選ぶことができるはずなのに、見せることを選んだ横山裕さんと村上信五さんと渋谷すばるさんの覚悟が、人生の先を歩く大人の姿として本当にかっこいいと思った。

「Answer」という曲全体が、ドキドキするほど正直な思いの丈として伝わって、取り繕わず鎧は着ていなくても、なにかのため進んで行くことができると、少し先の道から教えてくれているような気がした。

 

“手つかずの夢”という言葉を聞くたびに、気持ちがすこしギュッとなる。

そう感じていた時の渋谷さんのことを思って。そして、自分はどうだろうと考えて。夢に限らず、やってみたいなと感じていることを手つかずのまま置いておくより、可能な限り全力を尽くして実際に行動に変えていきたい。自分の中の感情だから、ちょっと待っていてねと言えば待ってくれるけど、そうしているうちにタイミングはどこかに流れていってしまう気がして。

これから何かを決める時、自問自答していたいと思った。

 

 「Answer」は歌う声のキーが高い。渋谷すばるさん自身もギリギリと話していたくらいのキーにした理由が、簡単に歌える感じにはしたくなかったという理由だったところに、また心奪われてしまった。

もはやどれだけあっても足りないくらいに心ごと持って行かれているので、一個持って行ったら一個返すシステムにしてほしい。

歌詞と曲だけでも充分に伝わるものがあるのに、楽に歌えるようにしたくないと考えることがすごい。音程にさえも気持ちが出ると感じているのは、渋谷すばるさんがそれほど歌と向き合っているからだと思った。

胸が熱くなるほど正直に綴られた「Answer」

3人が余裕を無くして歌うその全力の思いを、一呼吸も洩らすことなく見ていたい。

 

私にとっての音楽は

 

朝起きるとまず、イヤホンを耳につける。

聴く曲をセットリストの中から選択して、再生。それがいつもの日課。朝ごはんの用意をして、食べる直前になってようやくイヤホンを外す。一人でいる時の音楽のノリ方は、とても他の人には見せられない。完全なるソロミュージカル状態。

電車に乗る時にiPodは必須で、電車に乗るのが苦手だった頃からなくてはならない物だった。出掛けてから忘れたことに気がつくと、とにかくテンションが下がった。

いつからこんなに音楽なしでは生活できないまでになったんだろうと思う。

 

貪るように音楽を求めるようになった理由の一つに、聴くことができなかった期間が長かったという点があると思う。娯楽にシビアだった教育方針で、慎吾ママが流行り、みんなしてマヨチュチュをしていた頃、私は何のことだかさっぱり分からなかった。なぜ、みんなしてマヨネーズを吸っているのかと唖然と見ていた。

その反動で、ギリギリまで乾燥したスポンジが勢いよく水を吸い上げるような、そんな状態に。

TUTAYAでCDを5枚選んで借りるのが嬉しくて嬉しくて、この中から5枚選んでいいの…!?と楽しくて仕方なかった。その感覚は今でも変わらず、そわそわしてしまう。

聴きたかったアーティスト、テレビで見て気になった曲。アルバムには知っている曲だけじゃなくて、何曲も入っていて。それを初めて聴いてビビッときた時の楽しさは、ほかの何にも代えがたいものだった。

 

CDは時々TUTAYAで借りられるもの。という認識が変わったのは、NEWSのCDを買うようになってから。

タワレコに行って、ドキドキしながら予約をした。フラゲ日というシステムに緊張しながら、火曜日を待って、本当に発売日の前日に受け取っていいの…?なんで…?と戸惑いながら受け取った。

黄色の袋に赤い“タワーレコード”の文字が嬉しくて、未だに手に持つとまじまじと眺めてしまう。

 

レンタルが中心だった頃は、それが“通常盤”と呼ばれるもので、CDショップに並んでいるものとはまた違うということを知らなかった。レンタルは取り込んだらすぐ返す、という習慣でいて、歌詞カードを改めて見返すということもできなかった。

好きなものから好きなものへと派生して、部屋に少しずつCDが増えていって、気になると感じたものは積極的にCDとして買い、手元に置くようになった。

 

私は自分の感情を察することがヘタで、曲を聴いてそれに気づくこともあった。

悲しい時に悲しい曲を聴くとは限らないこと、明るいはずの曲を聴いて泣きたくなることもあるということを知った。言いようのない感情が渦巻いた時、妙にしっくりくる曲に気づいたり。苛立ちもなにくそという思いも、自分の中に溜めているだけでは鬱屈とするだけの感情を、曲を聴いて発散することで原動力に変えることができた。

話し相手がいなくても無音のなかに居なくてすむようになったのは、好きな音楽に出会えたからで。曲に背中を押されて踏み出せた一歩は大きかった。

もう再起不能、這い上がる力も持っていないという状況に陥った時も、本気で引っ張り上げてくれたのは歌だった。

 

歌は本当に凄い。人の声と、楽器の音と、歌詞の言葉。

胸まで真っ直ぐ届く歌に出会えて、好きになれてよかった。好きになろうと頭で考えて選んで好きになれるものではないとわかっているから、見つけて、好きになれたことさえも嬉しい。曲を聴くという世界が自分のなかに無かったら、心はポッキリと折れていた。

肯定してほしい時、肯定して!なんて言えない。虚しさが押し寄せてきた時、助けてほしいとは言えない。でも音楽は、やさぐれていても素直じゃなくても、どんな感情の時もそばにあった。歌詞だから、素直に聞ける言葉があった。人からかけられる言葉をすんなり聞くことができない時も、音楽には、私のなにが分かるのなんていう感情的な思いは通用しない。だから心地よかった。

 

これまで、感情の沸点を通り越して起こる、あまりに理不尽な出来事に潰されそうになることが何度もあった。

私は小学6年生で学校に行かなくなった。理由は学校だけではなく、家族のこともあった。絶対に出るものかと思っていた卒業式にはなんとか出たけれど、再スタートだと意気込んで臨んだ中学校生活は、わずか2ヶ月で行けなくなった。そのため、私はほとんど中学時代を過ごしていない。

フリースクールに通い、出席日数をもらい卒業はできたけれど、流れについていかなくてはと無理やり決めた高校も長くは続かなかった。

それからしばらく経ち、通信制の高校に行こうと決めた。自分で決めた。丸々抜け落ちた中学の勉強をすっ飛ばし、高校から覚え直すという無茶をした。勉強は楽しくて、難しいと分かっていながら、こんな機会はそうないと敢えて数学や物理を選択した。自分で決めた通信制の学校生活を思い切り楽しもうと、行事にも別人のように積極的に参加していった。提出期限を守って、体調不良や外せない予定があった時に大丈夫なようにと提出物は1ヶ月前倒しで進行していくようにした。

そうして、卒業することができた。自分は何も続かないというコンプレックスが、わずかに解けた瞬間だった。

どんな時も自分の心境に寄り添う歌があるということが、なによりの生活の支えだった。

 

関ジャニ∞という存在に出会ったのは、それから数年経ってのことだった。

当時も壁にぶち当たっていた。家庭のこと、自分の将来、考えることばかりで、それなのに自分を最優先に考えることができない状況だった。勉強が楽しくて、本当はもっと専門的な勉強をしてみたかった。映画専門学や、心理学、講義を聞いて、知りたいことがいっぱいあった。思うだけは嫌だったから、とにかく調べて情報を集めてオープンスクールにも足を運んだ。けれど、どうにもそれが叶わないと分かった時。

大学進学を断念した。悔しかった。自分にどうにか出来るだけの力があったらと思った。それが私の踏ん張りどころだった。

あの時に、関ジャニ∞の歌があってくれてよかったと心から思う。自分であることを諦めかけた時、踏みとどまらせてくれたのは関ジャニ∞の歌だった。

誰かのために生きるのは簡単で、いつも誰かを優先していることが日々になっていた。だからこのまま、抜け出すことも考えず生きていくしかないのなら、それはそれで仕方ないのだと諦めはじめていた。

 

それでいいのかと、言われている気がした。

「象」を聴いて、それは嫌だと目が覚めた。

若さを重ねて、30代になり始めた関ジャニ∞の7人を見ていて、いつか私も歩いて行った先に、こんなふうに笑える日々があるだろうかと想像した。生まれもっての家族じゃなくても、いびつさを持ち寄って共に過ごしていく時間のなかで家族のような関係性を築いた7人の姿に、なによりの希望を見た気がした。

そんな人間関係がこの世界のどこかに存在するなら、自分のこれからをもうすこし信じてもいいかもしれないと思った。

 

今でも揺らぐことはある。それでも自分の人生を絶対に手放すなと怒ってくれるのが、私にとって関ジャニ∞の「NOROSHI」になっている。

渋谷すばるさんが、ラジオで「生きろ」を作詞作曲した思いを話していた時、ブルーハーツとかヒロトマーシーの曲に何回も助けられた。その時に生きろって言ってくれたら、もっと俺ものすごい救われたやろなぁと思うと話した、その言葉がずっと胸に残っている。今もその思いを持ち続けることの凄さと、今度はそれを伝える側になる、今なら伝えられると考えた渋谷さんの覚悟が。

自分にとっては、今こそ必要、というタイミングで届く関ジャニ∞の歌こそが、渋谷さんが思っていたあの頃の存在そのものになっている。

届いています、ありがとうと伝えたい。

 

 

私にとっての音楽は、生きていくための原動力。

歌がなくては、色彩を失った景色のようで、希望のない、ただこなすだけの日々になってしまう。感情を揺さぶられることもない、胸が熱くなることもない。それはあまりに寂しい。思い込んでつくったルールで枷をつけることが得意な自分にとって、自分を解放する唯一の方法が、音楽に触れることだから。まだ経験したことのない感情を、いつかわかるかもしれないよと教えてくれる音楽が私は好きだ。

今回の文章で、気がついたらこの「宛名のないファンレター」で書き始めて100個目の記事になる。どの文章も、1つ目のときから全て、全力で書いてきた。手探りで始めた好きな曲についての文章も、いつの間にか色々な曲について書くことができた。

とにかく書いて、たくさんの文章をつくることで進歩することがあればと続けてきて、悩むのは100個書いてみてからにしなさいと自分に言い聞かせてきたその100個目がこんなに早くやって来るとは、予想外だった。

これからの形がどうなっていくのか、どうするのか、それはまだ見えないままだけど、仕事にする。という決意は変わらない。

いつか紙面に載る文章を書くという目標もできた。

まだまだ続けていくと思います。いつも読みにきてくださっている方、星をつけてくださる方、コメントをくださる方、初めて見たという方、ありがとうございます。

これからも読みにきてください。

 

感受性ごと虜に。Nissy「SUGAR」

 

ひらめきこそ inspiration

夢中になるものができた今「SUGAR」を聴いたら、新たな一面を見つけたような気がした。

初めはMVの印象が強く、アバンチュール的な曲だと思って聴いていたけれど、曲だけを聴いていてふと“SUGAR”は一面だけの意味合いではないような気がしてきた。

“SUGAR”がもし、アイデアを女性に例えたものだとしたら。心奪われて逃れられない夢で、好きで仕方のない何かだとしたら。それは恋に限らず、人によって様々なものに変化するのではないかと思った。そう考えて歌詞を聴くと、共感してしまうところが多くあることに気がついた。

 

目と目が合うわけはなぜ

その気にさせてるだけ? 

という歌詞も、そう思いながら聴くと不思議と“SUGAR”という存在が、ただ女性としての形容詞としてではなくて、奔放にひらりひらりとかわして行ってしまう頭の中のアイデアそのもののように感じる。

走り出す imagination

同じものを見てる

その手に導かれるまま

Real な visionになる 

聴いていて思い浮かぶのは、ひとり机に向かい作業をしている様子に、どんどんと溢れ出てくるアイデア、というイメージ。

特に、“その手に導かれるまま Real な visionになる”の二行は、ファンとの関係性のようにも取れるし、ひとりで向き合っていたとしても、思い描いたビジョンがリアルになるという歌詞にはリアリティがあると思った。

 

君は sugar まさか本気?

OH MY GOD たまらないな sugar 

この歌詞がすごく好きだ。振り回されている感じも、わかっていながらそれに乗っている感じも。

“たまらないな”の、“ない”で思い切りがなりを効かせるところも凄くいい。“OH MY GOD”は大文字なのに、それでも“sugar”は小文字になっているところにも惹かれる。歌詞の中で“sugar”は随分自由奔放な印象を受けるのに憎めないのは、どこか可愛らしい華奢なイメージがその言葉の響きにも表れているからだと思う。

困り顔をしながら、実は手の内で遊ばれてあげているだけかもしれない。上手なのはどっちかわからなくなるような心理戦がいい。

 

曲名は全て大文字の「SUGAR」表記だけど、歌詞では“sugar”となっていて、全部が小文字。頭文字さえ小文字になっている。意図していることがあるのだろうなと考えてしまう。Nissyのことだから。

 

MVが魅力的なのは勿論のことで、始まりのクッと上がる口角、“君は sugar”で砂糖をひとつまみ落とす振り付け、そして口を拭う仕草と、ドキッとさせる気しかないなと分かっているのに、その意のままドキッとしている自分がくやしい。

 

“チョコレートキャンディ”の歌詞に合わせて、キャンディが口に入っているみたいにほっぺを舌でポコッとさせるジェスチャーが最高にいい。

海外のような照れてしまいそうな演出も、Nissyならやって様になる格好よさがある。

“Yah Yah sugar”で入る、ショーの空気たっぷりなメロディーの盛り上がりとリズム、トランペットの音に、ラスベガスのようなギラギラとした雰囲気を感じて、そのイメージが実際にライブでは演出としても表現されていたところに感動した。

 

魅了され、翻弄され、それでも追いかけて。“sugar”に夢中で、導かれるまま振り回されながらも、それをどこかで楽しんでいるような不敵な笑みを感じられるこの曲が、好きで仕方ない。