私にとっての音楽は

 

朝起きるとまず、イヤホンを耳につける。

聴く曲をセットリストの中から選択して、再生。それがいつもの日課。朝ごはんの用意をして、食べる直前になってようやくイヤホンを外す。一人でいる時の音楽のノリ方は、とても他の人には見せられない。完全なるソロミュージカル状態。

電車に乗る時にiPodは必須で、電車に乗るのが苦手だった頃からなくてはならない物だった。出掛けてから忘れたことに気がつくと、とにかくテンションが下がった。

いつからこんなに音楽なしでは生活できないまでになったんだろうと思う。

 

貪るように音楽を求めるようになった理由の一つに、聴くことができなかった期間が長かったという点があると思う。娯楽にシビアだった教育方針で、慎吾ママが流行り、みんなしてマヨチュチュをしていた頃、私は何のことだかさっぱり分からなかった。なぜ、みんなしてマヨネーズを吸っているのかと唖然と見ていた。

その反動で、ギリギリまで乾燥したスポンジが勢いよく水を吸い上げるような、そんな状態に。

TUTAYAでCDを5枚選んで借りるのが嬉しくて嬉しくて、この中から5枚選んでいいの…!?と楽しくて仕方なかった。その感覚は今でも変わらず、そわそわしてしまう。

聴きたかったアーティスト、テレビで見て気になった曲。アルバムには知っている曲だけじゃなくて、何曲も入っていて。それを初めて聴いてビビッときた時の楽しさは、ほかの何にも代えがたいものだった。

 

CDは時々TUTAYAで借りられるもの。という認識が変わったのは、NEWSのCDを買うようになってから。

タワレコに行って、ドキドキしながら予約をした。フラゲ日というシステムに緊張しながら、火曜日を待って、本当に発売日の前日に受け取っていいの…?なんで…?と戸惑いながら受け取った。

黄色の袋に赤い“タワーレコード”の文字が嬉しくて、未だに手に持つとまじまじと眺めてしまう。

 

レンタルが中心だった頃は、それが“通常盤”と呼ばれるもので、CDショップに並んでいるものとはまた違うということを知らなかった。レンタルは取り込んだらすぐ返す、という習慣でいて、歌詞カードを改めて見返すということもできなかった。

好きなものから好きなものへと派生して、部屋に少しずつCDが増えていって、気になると感じたものは積極的にCDとして買い、手元に置くようになった。

 

私は自分の感情を察することがヘタで、曲を聴いてそれに気づくこともあった。

悲しい時に悲しい曲を聴くとは限らないこと、明るいはずの曲を聴いて泣きたくなることもあるということを知った。言いようのない感情が渦巻いた時、妙にしっくりくる曲に気づいたり。苛立ちもなにくそという思いも、自分の中に溜めているだけでは鬱屈とするだけの感情を、曲を聴いて発散することで原動力に変えることができた。

話し相手がいなくても無音のなかに居なくてすむようになったのは、好きな音楽に出会えたからで。曲に背中を押されて踏み出せた一歩は大きかった。

もう再起不能、這い上がる力も持っていないという状況に陥った時も、本気で引っ張り上げてくれたのは歌だった。

 

歌は本当に凄い。人の声と、楽器の音と、歌詞の言葉。

胸まで真っ直ぐ届く歌に出会えて、好きになれてよかった。好きになろうと頭で考えて選んで好きになれるものではないとわかっているから、見つけて、好きになれたことさえも嬉しい。曲を聴くという世界が自分のなかに無かったら、心はポッキリと折れていた。

肯定してほしい時、肯定して!なんて言えない。虚しさが押し寄せてきた時、助けてほしいとは言えない。でも音楽は、やさぐれていても素直じゃなくても、どんな感情の時もそばにあった。歌詞だから、素直に聞ける言葉があった。人からかけられる言葉をすんなり聞くことができない時も、音楽には、私のなにが分かるのなんていう感情的な思いは通用しない。だから心地よかった。

 

これまで、感情の沸点を通り越して起こる、あまりに理不尽な出来事に潰されそうになることが何度もあった。

私は小学6年生で学校に行かなくなった。理由は学校だけではなく、家族のこともあった。絶対に出るものかと思っていた卒業式にはなんとか出たけれど、再スタートだと意気込んで臨んだ中学校生活は、わずか2ヶ月で行けなくなった。そのため、私はほとんど中学時代を過ごしていない。

フリースクールに通い、出席日数をもらい卒業はできたけれど、流れについていかなくてはと無理やり決めた高校も長くは続かなかった。

それからしばらく経ち、通信制の高校に行こうと決めた。自分で決めた。丸々抜け落ちた中学の勉強をすっ飛ばし、高校から覚え直すという無茶をした。勉強は楽しくて、難しいと分かっていながら、こんな機会はそうないと敢えて数学や物理を選択した。自分で決めた通信制の学校生活を思い切り楽しもうと、行事にも別人のように積極的に参加していった。提出期限を守って、体調不良や外せない予定があった時に大丈夫なようにと提出物は1ヶ月前倒しで進行していくようにした。

そうして、卒業することができた。自分は何も続かないというコンプレックスが、わずかに解けた瞬間だった。

どんな時も自分の心境に寄り添う歌があるということが、なによりの生活の支えだった。

 

関ジャニ∞という存在に出会ったのは、それから数年経ってのことだった。

当時も壁にぶち当たっていた。家庭のこと、自分の将来、考えることばかりで、それなのに自分を最優先に考えることができない状況だった。勉強が楽しくて、本当はもっと専門的な勉強をしてみたかった。映画専門学や、心理学、講義を聞いて、知りたいことがいっぱいあった。思うだけは嫌だったから、とにかく調べて情報を集めてオープンスクールにも足を運んだ。けれど、どうにもそれが叶わないと分かった時。

大学進学を断念した。悔しかった。自分にどうにか出来るだけの力があったらと思った。それが私の踏ん張りどころだった。

あの時に、関ジャニ∞の歌があってくれてよかったと心から思う。自分であることを諦めかけた時、踏みとどまらせてくれたのは関ジャニ∞の歌だった。

誰かのために生きるのは簡単で、いつも誰かを優先していることが日々になっていた。だからこのまま、抜け出すことも考えず生きていくしかないのなら、それはそれで仕方ないのだと諦めはじめていた。

 

それでいいのかと、言われている気がした。

「象」を聴いて、それは嫌だと目が覚めた。

若さを重ねて、30代になり始めた関ジャニ∞の7人を見ていて、いつか私も歩いて行った先に、こんなふうに笑える日々があるだろうかと想像した。生まれもっての家族じゃなくても、いびつさを持ち寄って共に過ごしていく時間のなかで家族のような関係性を築いた7人の姿に、なによりの希望を見た気がした。

そんな人間関係がこの世界のどこかに存在するなら、自分のこれからをもうすこし信じてもいいかもしれないと思った。

 

今でも揺らぐことはある。それでも自分の人生を絶対に手放すなと怒ってくれるのが、私にとって関ジャニ∞の「NOROSHI」になっている。

渋谷すばるさんが、ラジオで「生きろ」を作詞作曲した思いを話していた時、ブルーハーツとかヒロトマーシーの曲に何回も助けられた。その時に生きろって言ってくれたら、もっと俺ものすごい救われたやろなぁと思うと話した、その言葉がずっと胸に残っている。今もその思いを持ち続けることの凄さと、今度はそれを伝える側になる、今なら伝えられると考えた渋谷さんの覚悟が。

自分にとっては、今こそ必要、というタイミングで届く関ジャニ∞の歌こそが、渋谷さんが思っていたあの頃の存在そのものになっている。

届いています、ありがとうと伝えたい。

 

 

私にとっての音楽は、生きていくための原動力。

歌がなくては、色彩を失った景色のようで、希望のない、ただこなすだけの日々になってしまう。感情を揺さぶられることもない、胸が熱くなることもない。それはあまりに寂しい。思い込んでつくったルールで枷をつけることが得意な自分にとって、自分を解放する唯一の方法が、音楽に触れることだから。まだ経験したことのない感情を、いつかわかるかもしれないよと教えてくれる音楽が私は好きだ。

今回の文章で、気がついたらこの「宛名のないファンレター」で書き始めて100個目の記事になる。どの文章も、1つ目のときから全て、全力で書いてきた。手探りで始めた好きな曲についての文章も、いつの間にか色々な曲について書くことができた。

とにかく書いて、たくさんの文章をつくることで進歩することがあればと続けてきて、悩むのは100個書いてみてからにしなさいと自分に言い聞かせてきたその100個目がこんなに早くやって来るとは、予想外だった。

これからの形がどうなっていくのか、どうするのか、それはまだ見えないままだけど、仕事にする。という決意は変わらない。

いつか紙面に載る文章を書くという目標もできた。

まだまだ続けていくと思います。いつも読みにきてくださっている方、星をつけてくださる方、コメントをくださる方、初めて見たという方、ありがとうございます。

これからも読みにきてください。

 

感受性ごと虜に。Nissy「SUGAR」

 

ひらめきこそ inspiration

夢中になるものができた今「SUGAR」を聴いたら、新たな一面を見つけたような気がした。

初めはMVの印象が強く、アバンチュール的な曲だと思って聴いていたけれど、曲だけを聴いていてふと“SUGAR”は一面だけの意味合いではないような気がしてきた。

“SUGAR”がもし、アイデアを女性に例えたものだとしたら。心奪われて逃れられない夢で、好きで仕方のない何かだとしたら。それは恋に限らず、人によって様々なものに変化するのではないかと思った。そう考えて歌詞を聴くと、共感してしまうところが多くあることに気がついた。

 

目と目が合うわけはなぜ

その気にさせてるだけ? 

という歌詞も、そう思いながら聴くと不思議と“SUGAR”という存在が、ただ女性としての形容詞としてではなくて、奔放にひらりひらりとかわして行ってしまう頭の中のアイデアそのもののように感じる。

走り出す imagination

同じものを見てる

その手に導かれるまま

Real な visionになる 

聴いていて思い浮かぶのは、ひとり机に向かい作業をしている様子に、どんどんと溢れ出てくるアイデア、というイメージ。

特に、“その手に導かれるまま Real な visionになる”の二行は、ファンとの関係性のようにも取れるし、ひとりで向き合っていたとしても、思い描いたビジョンがリアルになるという歌詞にはリアリティがあると思った。

 

君は sugar まさか本気?

OH MY GOD たまらないな sugar 

この歌詞がすごく好きだ。振り回されている感じも、わかっていながらそれに乗っている感じも。

“たまらないな”の、“ない”で思い切りがなりを効かせるところも凄くいい。“OH MY GOD”は大文字なのに、それでも“sugar”は小文字になっているところにも惹かれる。歌詞の中で“sugar”は随分自由奔放な印象を受けるのに憎めないのは、どこか可愛らしい華奢なイメージがその言葉の響きにも表れているからだと思う。

困り顔をしながら、実は手の内で遊ばれてあげているだけかもしれない。上手なのはどっちかわからなくなるような心理戦がいい。

 

曲名は全て大文字の「SUGAR」表記だけど、歌詞では“sugar”となっていて、全部が小文字。頭文字さえ小文字になっている。意図していることがあるのだろうなと考えてしまう。Nissyのことだから。

 

MVが魅力的なのは勿論のことで、始まりのクッと上がる口角、“君は sugar”で砂糖をひとつまみ落とす振り付け、そして口を拭う仕草と、ドキッとさせる気しかないなと分かっているのに、その意のままドキッとしている自分がくやしい。

 

“チョコレートキャンディ”の歌詞に合わせて、キャンディが口に入っているみたいにほっぺを舌でポコッとさせるジェスチャーが最高にいい。

海外のような照れてしまいそうな演出も、Nissyならやって様になる格好よさがある。

“Yah Yah sugar”で入る、ショーの空気たっぷりなメロディーの盛り上がりとリズム、トランペットの音に、ラスベガスのようなギラギラとした雰囲気を感じて、そのイメージが実際にライブでは演出としても表現されていたところに感動した。

 

魅了され、翻弄され、それでも追いかけて。“sugar”に夢中で、導かれるまま振り回されながらも、それをどこかで楽しんでいるような不敵な笑みを感じられるこの曲が、好きで仕方ない。

 

色もタイプも様々な扉、開くと広がる世界。いしわたり淳治さんの著書「うれしい悲鳴をあげてくれ」

 

こんなに面白くて不思議な気分になる本には出会ったことがない。

初めての体験だった。色もタイプも様々な扉がたくさん並んでいて、それをひとつずつ開けていくみたいだと考えていたら、思い浮かんだのはモンスターズインクのあの扉がずらっと目の前に現れるシーン。

 

関ジャムを見ていて、いしわたり淳治さんがアーティストの曲について紹介をする時のストンと落ち着く言葉の選び方と表現方法、“好き”を動機に話しているところ、その紳士さが素敵だなと思った。

それから何度か関ジャムの楽曲紹介の企画が続いて、変わらずその席にいしわたり淳治さんが座っていてくれたことが嬉しかった。

 

言葉が好きなんだなと伝わる言葉選びが、何度見ても魅力的で、どんな曲を紹介するのかというよりも、どんな言葉で表現するんだろうということに興味を惹かれるところさえあった。

気になるなあと思いながらも、関ジャムで見られるだけで満足していたある日、ネットのインタビュー記事に出会った。いしわたり淳治さんが「flier」というサイトで読み応えのあるインタビュー。質問の一つ一つが濃く、それに真摯に答えるいしわたり淳治さんの言葉がまた私の心を掴んだ。

その記事を読んで初めて、いしわたり淳治さんが本を出版されていることを知った。

ちくま書房から「うれしい悲鳴をあげてくれ」というタイトルで。

 

いしわたり淳治さんはSUPERCARというバンドを解散後、作詞家・プロデューサーとして活動をされている。雑誌「ロッキング・オン」で連載として2004年から5年半続いた作品が、2007年に単行本化。そしてボーナストラックとしていくつか収録作品を増やし、文庫本化。それが2014年のこと。

初めの文章が書かれた年から数えると、13年前。

読んでいて不思議な感覚だった。それは自分も書いて残すということを意識してするようになったからなのかもしれない。

言葉は新しいまま今の私に届いているのに、書かれている所々に現れる時代背景や流行りの物は、確かに年月を重ねている。きっと今読んでいるこの文章を書いたこの人は、今はそのままでは居ない。

その感覚がおもしろかった。変化があることを先回りしたように知っているからなのかもしれない。タイムスリップをして過去のいしわたり淳治さんを覗き見させてもらっているみたいな。

 

本とは本来そういうものだと分かっているつもりだった。つもりだっただけで、知らずにいたんだなと、この本に出会って気がついた。

文章というのは本になると、形がついて手に重みとして実態を伴う。発売されてからも何年経ったとしても、そのままの状態で残り続けるんだと感動した。本のあとがきでいしわたり淳治さんは、本を読み返してみて、恥ずかしさを感じたと書かれていた。

けれど読んだ私の感想は、この本があの時の時間のまま残ってくれていてよかった。という感情だった。恥ずかしいからと無かったことにはされずに、始まりの頃の空気をそのまま読めるようにしてくれていてよかったと思った。

悩みもがいて足掻く時期を脱した人は、涼しい顔をしてさも以前からスマートに進んできましたよという感じの空気を作り出して、あの頃どうだったかを詳細には教えてくれない印象があったから。

 

肝心な本の内容についての感想はここから。

私にとっていしわたり淳治さんの第一印象は、関ジャムに出ていた作詞家さん。歌詞を書く人、という頭で読んだからか、小説もエッセイもどこか歌詞のようで、簡潔で、短いセンテンスのなかで情景が浮かぶ。歌になりそうな文章という新鮮な感覚を覚えた。

そして、本の構成も独特で、小説とエッセイが交互に配置されている。

それも、小説といっても何百ページに渡る一冊という形ではなく、短い小説。ここまで短い小説というものがあるんだと、目から鱗だった。

私は小説が書けない。そんな苦手意識がすこし解放された。短くてもいいんだ、こういう表現方法もあるんだと嬉しくなった。文章は自分が思うよりも自由だった。

 

文庫本のあとがきで鈴木おさむさんが、好きだった物語ベスト5を書かれていたので、私なりのベスト5という形で感想を書くことにした。

 

  1. 待ち合わせ
  2. NEW MUSIC
  3. 第一印象を終わらせろ
  4. イメージと未来の話
  5. 真面目なプレゼント

 

このうち小説は1と5、エッセイは2と3と4。

エッセイといっても不思議な文章で、現実かフィクションか、読んでいくうちに境が曖昧になっていく。それが心地よくて、私はこの本を松田聖子さんの曲を流しながら読んだ。するとますます自分がどの年代に居て、いつ書かれた、どの世界のお話を読んでいるのかわからなくなっていくおもしろさがあった。

物語の世界観も独特で、え!?と驚き固まる展開や、そんなページの使い方ありですか…?!と驚かされる表現方法も。えええ…とか、うわぁ…とか、後を引く物語もあり。思いがけない方向で、ドキッとさせられる体験が段々と楽しくなっていくのがこわいような、未知の感覚だった。感性として、加藤シゲアキさんと距離が近い部分もあるかなと思ったので、ぜひ加藤シゲアキさんの本がツボな方におすすめしたい。

 

 1.「待ち合わせ

出会いのタイミング、恋人になるタイミング、“タイミング”ってなんなんだろう。全ては確率か?たまたまその時、近くに居たから?ともやついていた思考で求めていた答えが、ここにあった。

80ページの9行は、何も言えぬほどその通りで。切実だけど、どこか割り切っているようなはっきりとしたものを感じて、“だいぶ早く着いてしまった僕”をどんな気持ちで見ていたらいいのかわからなくなった。わからないのは多分ウソで、わかってしまったんだと思う。

シンプルで、だからこそ、物事は単純で時に鋭利。

たぶん僕は“待ち合わせ”にちょっと早く着いてしまっただけなんだろう。

その言葉の意味を理解した時、希望なのか悲しみなのかどちらとも取れない感情が湧いた。

 

 2.「NEW MUSIC

ビーチボーイズが自分も好きだからだろうか、この気持ち、とてもわかる。

感覚で感じるもので、他の誰かも感じているものだとは考えたことがなかった抽象的な“空気”を、いしわたり淳治さんが言葉に変えてくれたと思った。

それまでのあの感じはもう手に入らない。

本当にそうだなと思う。一度変わってしまったその辺を漂う空気は、もう戻らない。私はこの、あーあと言いたくなるような残念さがとても苦手だ。 戻らないことを割り切って、次の気分を作り出せない自分の幼さが透けて見えるからかもしれない。

 

 3.「第一印象を終わらせろ

そういうこと!!と思わず声に出したくなった。そのもったいなさについて、いつもいつも考えていた。

“先入観”というのはどんなことにもついて回るけど、“第一印象”を終わらせずに、知ったつもり見たつもりになってしまうことは本当にもったいない。自分の好きなものについて誰かに話す時、「ああ、あれね」と分かっているかのように、見ていない想像の第一印象で色を付けられてしまって寂しい思いをしたことが誰にでもあると思う。

「自分から何かアクションを起こす時は、第一印象を終わらせてからでないといけない」 

そんな人たちにとって、この文章はきっと心強い。

 

 4.「イメージと未来の話

“怖い”ってなんだ。どこからくるんだ。

そんな疑問はついに解けた。無敵になるための方法も。

イメージはとても重要だ 

信じているつもりでも、心の奥の奥のホントのトコロ。そこがどうあるかで、現実は本当に変化する。良い時も悪い時も、意識の範囲を超えて、いつのまにか引っ張られているものなんだと思う。だから深層心理はおそろしい。

けれどそういうことなら、物事を動かすのに大切なのは、自分の思いひとつということになる。

イメージが未来をつくるんだ!

という言葉を、私は信じていたい。

 

「少年よ、大志をミシェれ!」の305ページで書かれていた、

自転車に初めて乗ったとき怖いからと足元を見ていたら、ふらつくばかりで思うように前に進めなかった。

という言葉も、ここに繋がっていると思った。

確かに実際そうだった。文字通りの意味でも、自転車に乗る練習をしている時、足元ばかりを見ているとちっとも進まなかったし、補助輪は邪魔で転びまくった経験がある。 

前へ進んでいくには、勢いよく漕ぎ出す意思と、時には必要過多になっている補助輪から卒業することも大事なのかもしれない。

 

 5.「真面目なプレゼント

頭の中でどれだけ思い描いても、考えていても、相手に伝えず言葉にして話さない限りは、何も起きていない。無いと同然なんだと、ヒリヒリする痛みと共に教えられているような気がした。

この物語の中の“僕”がどれだけあとから、こんなに考えていた、思っていたんだと話したとしても、それは相手に何一つ伝わってはくれない。頭の中で考えた100よりも、言葉にした1の方が、現実を動かす力を持っていると痛感した。

このまま待っててもチャンスは来ないよなぁ。自然な方法なんてないだろうな。

“僕”がついに起こした行動はあまりにも、あまりにもだった。ある意味では、彼の求めていた“俺、馬鹿だから”には一番近いのかもしれないけれど。

 

 

挙げた5つの他にも、「共通の敵」「ヒラメキの4B」「一時間、語れることはありますか?」が特に好きだった。

いしわたり淳治さんの文章が好きだと感じるのは、想い合うこと、愛について正面から向き合い、希望を抱いていることが文章から伝わってくるからだと思う。そんなもの無いのだと言ってしまった方が簡単な世の中で、信じてみることを選んでいるということに、希望を持てたから。愛は存在するといわれてうれしくなるのは、私自身が疑っているからだということもわかっている。

 

本のタイトルになっている、「うれしい悲鳴をあげてくれ」という言葉はどこから来ているのだろうと想像しながら読み進めて、186ページの「うれしい悲鳴」という物語を読んだ時は、ここから取られたのだろうか…伝えたいのはこういうことなのだろうか…と少し淋しくなりかけた。けれど本が終わる前に、「うれしい悲鳴をあげてくれ」というタイトルでエッセイが出て来た。読んで、とても嬉しくなった。ただ喜ぶのではなく、悲鳴をあげるほどのうれしさを体現していいんだと思えた。

しかしそれと同時に、私には出せない声。それが“うれしい悲鳴”なんじゃないかと、ふと頭をよぎった。

私はこれまで、はしゃぐということの経験が記憶に薄い。苦手としている自覚があった。我を忘れてしまうほど喜ぶって、どうやって…?と思っていた。

けれど、「うれしい悲鳴をあげてくれ」を読んで、今ならそれができるかもしれないと気がついた。これを喜ばなくてどうする!ということが起きた時に、素直にテンションが上がるようになってきている。

 

いしわたり淳治さんの本があると知って、書店にいた時に思い出し、あるのかなと機械で試しに検索をしてみたら在庫ありと表記されて、本を買いに来たつもりはなかったのに、そのままスーッと棚を探しに行った。手の届かない一番上の棚にタイトルを見つけ、書店員さんに取ってもらった。

ぱらっとページをめくり、最初の一文でああ好きだと購入を決めて、手から離さなかったあの選択は正しかったと読み終えた今思う。

先日、雑貨屋さんでもブックコーナーに平積みされているのを見て、これは…!と嬉しかった。重版、きっとかかると思っている。帯が書きたい!そう思うほど心が踊る本だった。

大好きだと思える本に出会って、それが自分の部屋の本棚にあるしあわせを噛みしめている。全力でおすすめしたい、いしわたり淳治さんの「うれしい悲鳴をあげてくれ」 をぜひ。