ヴァレンティンの無垢さとモリーナの献身「蜘蛛女のキス」

 

大倉忠義さんの演じるヴァレンティンと、渡辺いっけいさんの演じるモリーナ。

二人の存在が、思っていたよりもずっと奥深くに住みついたままでいる。

 

「蜘蛛女のキス」のなかでモリーナが語って聞かせた黒豹女や、ヴァレンティンが想いを寄せたマルタ。誰かが誰かに想われているというのは、どういうことなんだろうと考えるきっかけになった。愛される形とは。想うということとは。

どんな関係が正解であるかではなく、視覚的に見ることができない人と人との繋がりを、目に見えているかのように感じられたのが「蜘蛛女のキス」だった。

 

いつだって舞台を観る前は尋常じゃなく緊張するけれど、今回は必然的に神経が研ぎ澄まされていく舞台だった。

 

まず舞台を見ていて驚いたのは、照明さんの技術。

モリーナがカーテンを閉めるタイミングに合わせて、シャッと閉めたらスッとスポットライトを消す、そ瞬発力が凄かった。しかもその場面が何度かあり、渡辺いっけいさんとの息が合っていて、照明さんがどれほど役者さんの動き一つに全神経を集中させているかが伝わった瞬間だった。

 

牢獄であっても終始明るく振る舞うモリーナの様子が一変するのが、所長室の場面だった。

看守にモリーナが呼ばれた時の尋常ではないうろたえ方、所長を目の前にして震えが止まらない姿を見ていると、圧力をかけられているだけではない、もっと卑劣なことがモリーナの身に起きているのではとよぎった。

このモリーナが呼ばれるシーンでの扉の変わり方は一瞬で、マジックのようだった。すごいセット展開だと感動した。味気ない木製の扉から、きらびやかな金の装飾が付いた重厚な扉に変わる変化が、明らかな二つの空間の違いを表しているようで、それが観ていてつらかった。自由への希望に近づく空間であるはずなのに、怯えているモリーナの姿と所長の不気味なあっけらかんとした声に、違和感ばかりが増幅していった。

 

モリーナの話を聞きながら、「スパンコールってなんだ!」とぶっきらぼうに言うヴァレンティンに、「知らないの?ガラスに似てキラキラと光るものよ」と教えるやり取りは、眠る前に絵本を読んでもらう子供のように見えた。ヴァレンティン自身が、そういうものに触れない生活をしてきたのかもしれない。だから、上流階級の彼女に惹かれる自分に嫌悪感を持っていたのでは?とも思った。

その後のシーンでも、「スパンコール…」とモリーナが言いかけて「スパンコールはもういい!」と大きな声を出すヴァレンティンが大人げなくて可愛く見えてしまった。

「ヴァレンティーナ」とふざけて言ったモリーナに、「俺は女じゃない」と怒るヴァレンティンも可愛らしくて。“怒る”感情の中にも、本気で怒っている時、ムキになっている時、動揺している時など色々な変化があるように感じた。

(台詞については正確なものではなく、ニュアンスで記憶しているものです。)

 

ヴァレンティンが話の邪魔をして遮るので、物語の佳境を再現して話すものの「驚いてハッと振り向いた!ハアーッ!」を何度も繰り返す羽目になるモリーナ。毎度全力なのが面白くて、この瞬間は少し気を緩めて笑顔で観ることができた。

しくしくと泣きだすモリーナに、なだめる言葉をかけるヴァレンティンの声は優しくて、聞いているこちら側が動揺するくらい穏やかだった。後のヴァレンティンの台詞で、何度も自分の前でそうやって泣くじゃないか。と話すような台詞があり、これまでもそういうことがあったんだなと読み取れるその会話が好きだった。


二人の話し声に集中しているからこそ、それ以外に聴こえてくる音がやけにくっきりと耳に届いた。遠くから聞こえる犬が吠える声や、看守が音楽を流しながら鼻歌を歌って、上司に怒られている声。音数が少ない分、音からの情報を得ようと耳が全力で稼働する初めての経験だった。

みんな女だったら拷問する人間はいなくなるというモリーナにバレンティンは「女だけになったら男が好きなアンタは困るんじゃ?」と言う。このやり取りは中々に核心をついていていじわるでもあるけど、ヴァレンティンの声でいたずらっぽく言われると、モリーナも「一本取られた…!」と素直にくやしがるしかないのも分かる気がした。

 

沢山の二人の会話のなかで、個人的に好きだったのは

突然、腹が痛みだしたモリーナに、話していれば気が紛れるとヴァレンティンがあたふたと提案する場面。うずくまり悶えているモリーナに寄り添って、矢継ぎ早に話し続けるバレンティンに「うるさいっ!」とモリーナが言い放って、「うるさい?!」と面食らうバレンティン。初めて二人の関係性が形勢逆転した瞬間を見られたような嬉しさがあった。

 

序盤は完全に分けられた空間だった牢獄と所長室の部屋が、ある時を境に終盤2つのシーンを同時に見ているかのように重なる。

同じ空間の中で二つのことが進行していて、一方ではモリーナが所長と話をしていて、ヴァレンティンは投げてしまったフルーツケーキを片づけ、モリーナがさっきまで居た方を見つめたりしている。一人寂しげに残ったヴァレンティンの様子は儚げで、本当にモリーナがここを出て行ってしまったらどうなるのだろうとヴァレンティンのこれからを想像させた。


モリーナが上からの圧力をかけられていて、バレンティンが狙われていると分かったシーンで1幕は終わった。原作を読んでいなかったから、この展開に心底驚いた。
まさかの裏切りに、どこまで本心から所長と手を組んでいるのかと疑心暗鬼になりながらモリーナの台詞を聞いていると、所長にこのままでは戻れませんと言い、母からは差し入れをいつも貰っていると話すモリーナ。

気が動転しているなかで懸命に知恵を絞って頼む物は、ミルクやマーマレード、ビスケット、鶏肉など、よく聞けばバレンティンの身体を思っての食べ物ばかり。聞いているうち、それに気付いた時の安堵は言葉に変えがたいものだった。心の底からの裏切りではなく、ヴァレンティンに対する思いやりが残っていて、そこに嘘がなくてよかったとホッとした。

あの時代を考えると、モリーナが頼んでいる物は一般階級でもそう食べることができないのではないかと思うような贅沢品ばかりで、砂糖漬けのフルーツもおいしそうだなと印象に残った。

 

今度はヴァレンティンの体調が悪くなり、腹が痛くなる。お願いだから手を握っていてと懇願する声は、か弱くて素直だった。
身体中が痒いと訴え、あるだけの水を使い切りタオルをお湯で濡らすモリーナ。背中を拭くとモリーナが言い、ゆっくりと後ろを向いたバレンティンの背中には大きな痛々しい傷が残っていた。赤茶色く、何本もの線の跡がある。その傷が見えた時、これまでどれほど恐ろしいものを目にしてきたのだろう、何度もそういう目に遭っていたのかと考えて胸が苦しくなった。

一瞬黙り込むモリーナだけど、間を置いて、声をかけてからゆっくりと背中を拭く。ふふ…と小さく笑うバレンティン。どうして笑うのと尋ねるモリーナに、「もう背中が痒くないからだよ」と答えてから、また力無く小さく笑うバレンティンの声。ご褒美をもらって喜ぶ子供のように無垢だった。

 

彼女の話を「今日はここまでだ」と止められ、「仕返しされた…!」と悔しがる場面と、ヴァレンティンが話す24歳の彼女の話しを聞いて「私より14も下。…16も下」と年齢のサバを読み自己申告で戻す場面は、モリーナに可愛らしさを感じずにはいられなかった。

モリーナの苦しみの意味に気づかないバレンティンにはいつも焦れったかったけど、ベッドに座っているモリーナに近づき、「なにか隠していることがあるのか?」と尋ねるヴァレンティンを見ると、悪気があるわけではなく、物事を多面的に見ることが得意ではないんだなと感じられた。

 

元気づけようと懸命に世話をするモリーナの気持ちを考えず、紅茶とフルーツケーキをテーブルごと投げ飛ばしてしまうヴァレンティン。呆然と立ち尽くすモリーナ。一瞬にして変わった空気に、あれは駄目だ…と思った。些細なことではなく、モリーナにとって決定的だと見ていて分かる空気。
なのにすぐに謝るヴァレンティン。「こっちを見てくれよ」と言うヴァレンティンも印象的で、劇中、何度か「こっちを見てくれ」と言っているシーンがある気がした。ヴァレンティンにとって、目線を合わせることが重要なことだと考えているとしたら、荒さの中にそんな繊細さはずるいだろうと思った。

 

明らかな八つ当たりをされたのに、モリーナは結局本気で怒ることはせず「今日は扱いにくいっ」と言って受け止めていたのも印象的だった。

そこで許すことができる度量の大きさ。扱いにくいとは言いつつも愛想は尽かさず、バレンティンの気まぐれを受け入れている様子を見て、これまでもそうして狭い空間で距離感を保ってきたのだろうと感じた。

自らに降りかかる理不尽さをかわすしなやかさをモリーナは持っていて、それが素敵だと思った。そしてきっと、気難しいヴァレンティンの扱いを誰より分かっているのはモリーナだった。

 

あれほどモリーナに辛辣な言葉を投げたり、モリーナの苦悩に気づかず、空気を察することなどしなかったヴァレンティンが、最後に「いまキスしてほしいのか?」と言葉をかけた。

無言でいたモリーナに不意をついたその言葉は、そのあとのキスよりもロマンティックにみえた。

 

まとめた荷物を持って、しゃんとした姿勢で扉の向こうへと歩くモリーナ。

これまでは看守に呼ばれてヨタヨタと歩いていたモリーナが、ラストでは気高くしっかりとした足並で歩いて行く姿は優美だった。扉の向こうは真っ白な景色。モリーナを黙って見送るヴァレンティンの背中。その背中は、見送ると言うよりただ立ち尽くしているようにも見えた。

 

そんなヴァレンティンの前で、バタン!と大きく音を立て、扉は閉じた。

その瞬間に暗転。その暗転が、この後の全てを物語っているようで苦しくなった。

不安な気持ちでいると暗転が開け、いつものように二人があの空間に居る。よかったとほっとしていると、二人が明るく話し始める。

保釈されたモリーナのその後を語るバレンティンモリーナが聞いている。そして立ち替わり、モリーナがバレンティンのその後を語る。話の続きを聞かせてくれよと言うバレンティンに、いつものように語り聞かせてあげるモリーナ。
モリーナは革命を志す仲間に会いに行き、警察に取押えられる。逃げた仲間がモリーナを撃った。モリーナ自身が、“その時は”と仲間に頼んでいた。
バレンティンは尋問を受けた。短いけれど幸せなマルタとの夢を見る。
開かないはずだった扉が二人の前に開き、扉の向こうは真っ白で。出ていく二人。

そして舞台が終わった。

 

あまりに楽しそうにヴァレンティンとモリーナが話しているから、つられてつい笑顔になりながら聞いていたのもつかの間、その後の話を二人が語っているのだと気づいた時の哀しさは言いようのないものだった。これからの話ではない。あれほど聞かせてくれた映画の話でもない。

別れ別れになったヴァレンティンとモリーナを幻想のなかで再開させ、二人に語らせると言う演出は、究極に切なく優しかった。

セット展開をせずに、二人芝居でその後の場面をどう見せるのだろうと思っていたら、そういうことになるのかと圧倒される演出だった。シンプルだけれど、他の誰に語らせるよりも胸を裂く哀しさがあり、そこが二人きりの空間だったということが感じられた。牢獄の中だけで起きたことで、ヴァレンティンとモリーナの会話は外の世界に繋がってはいなかった。

 

会話劇だからこその魅力、二人芝居というものの魅力、「蜘蛛女のキス」は自分にとって初めてのものに触れることの楽しさを知る舞台になった。

やっぱり舞台は楽しい。実体のあるものとして、そこで起きている事を自分の目で見られるからこそ、感じ取り信じられるものがあると思える。どうしても、観たい気持ちのままに公演している舞台の全てを追いかけることはできないけれど、だからこそ観に来ることができた舞台には誠意をつくして向き合いたい。

これからどんな舞台に出会うのかを楽しみにして、観ることができた作品を、ひとつずつ本棚にしまうように記憶に置いていきたいと思う。

ついにかなった「味園ユニバース」復活上映

 

いつか、かなうなら映画館の大きなスクリーンで観たいとひそかに思っていたことが、まさかこうしてかなうとは思いもしなかった。

味園ユニバース」復活上映。

6月2日の一夜限り、大阪・東京・川崎・名古屋で19:00〜の同時上映。

上映期間中に映画館に行っていたにも関わらず、なぜ観なかったのか悔やんでも悔やみきれなかったこの作品を観ることができるチャンスがやってきたと知り、今度こそ逃したくないと必死でチケットを取った。とにかくこの空間に居たい一心で、取ったことがないほどスクリーンに近い未知の座席をなんとか押さえ、その日を心待ちにしていた。

何も考えず、味園ユニバース!!観る!!という感情だけで動いたため、この日は「蜘蛛女のキス」昼公演を観てからの「味園ユニバース」というこれ以上ない濃度のスケジュールになった。こんな贅沢なことをしたことがないので、朝から動機が止まらなかった。舞台を観て感情のビックウェーブが押し寄せるなかで息つく暇なくポチ男を観るなんて刺激の過剰摂取でオーバーヒートするのではないかと心配もあった。

 

映画館に着くと、今夜限りでモニターに映された“味園ユニバース 19:00”の表示を感慨深く写真に収める人が何人も。

本当に観られるんだなあと実感が湧き、なんとも言えない緊張感を感じた。観に来ている人それぞれが心なしかソワソワと、でも静かにその時を待っていて、この映画への一人一人が静かに大切に持っている、並々ならぬ思い入れが伝わってくるようだった。

味園ユニバース、入場を開始します」というアナウンスがかかり、ドキドキしながら上映スクリーンへ。

前から二列目の驚くほど近いスクリーンにおお…となりながら、椅子に沿って全力で見上げる姿勢。心待ちにしているからなのか、実際長かったのか、始まる?と思うたびに次のCMが流れ、なんとなくその都度起こる緊張と緩和。会場全体の一体感がすでにあった。

 

何度も観たはずの、刑務所から出て行くポチ男の背中。刑務官の姿。道路を渡る前に後ろを少し見た横顔にかぶるように映る“味園ユニバース”の文字。

つい先日も家で見た同じ作品が、こんなにも違って見えるのかと圧倒された。

 

DVDでは聞き取りきれていなかった台詞や言葉の語尾、音が意外と多くあることに気づいて、事細かに聞こえてくるその音を一つも聞き落とすまいと必死だった。やっぱり映画館で聴く音は凄い。私が映画館の音が好きな理由に、空気の音が聴こえるからということがある。物を動かしたり、擦れたりして聴こえてくる音から空気を感じる。テレビでは聞き逃してしまうような紙の音でも、映画館ではとても印象的に聴こえる。

ポチ男が出所してすぐ入った店で、レジにライターを置く音。店主がタバコを置く音も、こもった砂埃の混じるような空気を含んで聴こえた。

何度も観ていたのに気がついていなかったシーンや、こんな印象だったっけと思うような新鮮さがあったことが驚きで、あれ…?こんなカットあった…?と思ってしまうほど、違う景色に見えた。目線ひとつのわずかな動きや瞳に入る光の変化も、小さな画面では見きれなかったようなところが大きな映画館のスクリーンではしっかりと見えた。

 

大きなスクリーンに映すほどポチ男の小さい背中が切なかった。

記憶を無くし何も分からないまま、吠えるようにぶつけて歌う「古い日記」

息を止めて聴き入るほど突き刺さる歌声に、涙さえ出なかった。それはまさに音の洪水で、耳だけでなく全身が音で覆われた。

家では聞けない大音量で「古い日記」「チェリー」「あなたに」「赤いスイートピー」「ココロオドレバ」を聴ける嬉しさはひとしおで、音楽のいっぱい聴こえてくる映画なんだなとやっと体感することができた。

特に「ココロオドレバ」をリハーサルするシーンはグッとくるものがあった。打楽器担当のグッチさんがボソボソ話しているのを今回初めて聞き取ることができたし、キーボードのオカPさんの笑い声からセッションが始まる空気感も鮮明に感じることができた。

 

 

なんにもないとこで転んだ 泥だらけで濡れて帰った

 

その言葉を聞いた瞬間に、これまでこの曲を聴いていて感じたことのなかった感情が押し寄せてきた。

“なんにもないところで転ぶ”ということの意味が、初めてちゃんと心にしみたからだった。頭で分かっているつもりでも、それがどんな気持ちなのか心で感じたことがないことは、やっぱり理解しきれていなかったんだなと最近は度々思う。だからこの時初めて、実際に今の自分がそういう状況にあると気がついた。

  

大きなスクリーンで観て気がついたポチ男の可愛いシーンがいくつもあった。

まず、ポチ男をどうするかという話になって赤犬たちが帰って行ってしまうシーン。この後にポチ男が寝てしまっていることにカスミが気づくシーンがある。今までこのシーンは赤犬とカスミに注目して観ていて、今回はそのシーンでじっとポチ男に注目してみた。そうしたら、ポチ男が左端で眠たそうにして、ぐーっと後ろに倒れこむ様子がちゃんと映っていた。カスミが気づくシーンの前から、細かくここで演技をしていて、次のシーンに繋がっていたんだと感動してしまって、視点を変えるとまだ気づくことがあるんだと楽しくなった。

「ユニバース抑えたから、ワンマンやるで」とカスミが言ったのを聞いた時のポチ男も可愛くて、そわそわと手に持っているほうきをワサワサと振っている動作をしていた。その後に「僕も?」とポチ男が聞くから、それを気にしていたのかと可愛くて仕方がなかった。

はっとしたのはカラオケ屋さんの手伝いをするポチ男が重たいジュースのビンが入ったケースを運んでいるのを見た時。働き手として頼りにされていることがこのシーンで分かって、カスミとおじいの暮らしには無かった男手があるという感慨深さがあった。お父ちゃんの店は潰さないと決めたカスミは、これをいつも自分でやっていたんだなと思った。

 

ハーモニカの音が聞こえて来て、ポチ男を見たカスミの表情は何度観ても切なくて、「おかえり」とポチ男に言われて「ただいま」と返すやり取りだけで、カスミにとってポチ男は必要な存在だということがわかる。

ポチ男を連れて帰るためにカスミが持って行ったバッドはどこから手に入れたんだろうと思っていたけど、今回観て納得がいった。バッドはもともとカスミの家に傘と一緒に傘立てに刺さっていて、別のシーンでさりげなく写っていた。

カスミの書いていたポチ男ノートには、「ココロオドレバ」のCDジャケット写真の案が貼ってあっておもしろい。ポチ男がジャンプしている写真で、イメージ以上にポップなデザインであるところにカスミの気合を感じて、嬉しくて楽しかったんだろうなと思う。

赤犬の左で並んで立っているコーラスの3人が好きで、これまではヒデオさんのキャラクターの濃さに惹かれていたけど、実はクセが強いのはロビンさんなのではないかと気になりだしてから目が離せなくなった。 

 

息子に会いに行き、話を聞いてもらうこともできず、姉に「死んでくれ」とまで言われたポチ男が帰ったのはカスミの家で、その家にショウがいた感情がどんなだったか、観ていてやるせないシーンだった。あのまま失踪したっておかしくなかったポチ男がはじめに帰ってきたのは昔の仲間の所ではなくてカスミ達の所だった。

「俺は変わったんや」という言葉に嘘はなかったと思う。それを崩したのは、単純な悪意でもって近寄ったショウだった。

はじめの方のポチ男を乗せた車内のシーンの時から、運転しているショウに感じるこの薄気味悪い違和感はなんだろうと思っていたけど、会話が成立してないからだと気づいた。誰も答えていないのに、話し続けるショウが怖かった。

なぜ、ショウがカスミの家に一人で来て、居座ることができたのかについて、DVDのメイキングで山下敦弘監督とショウ役の松澤匠さんが話していたけれど、結局はっきりとした筋書きは分からないままで話は終わってしまっていた。でも車内のシーンでの感じを見ていると、理屈どうこうよりも、この人なら興味本位でやりかねないという、むしろ説得力さえ感じた。

 

ポチ男に対してだけでなく、カスミにまで悪意を向けたショウに対し、始めは懸命に堪えていたポチ男の表情が、ガッと変わった瞬間。記憶の戻った彼は茂雄であって、ここまでのポチ男のままではないんだと理解した。“記憶”が戻った頭を透視することはできないなかで、その変化を表現するのは難しいことだろうと思うからこそ、このシーンの意味の深さを感じる。

自分に帰る場所がないと思ってしまい、元の生活に戻ろうとするポチ男。記憶が蘇ってからのポチ男が鏡を見て、顔を下げてもう一度顔を上げた瞬間から人相が違う。

顔を下げてから上げるとか、目を閉じて開けるとか、そういうシーンは演じる本人の意識で成り立つのか演出によって変わるのか、いつもそういったシーンがある度に考えていたけれど、雰囲気さえも切り替わる瞬間をポチ男には感じて、凄いと思った。

 

ポチ男の前にカスミが現れる公園のシーン。

このシーンも、大きなスクリーンで観ると一層強く記憶に残った。

無言で拳から一つずつ指を広げて、4本上げてからゆっくりと広げた5本目の指。

「私の世界は4本で足りんねん」と話していたカスミの世界が5本になった。

開いたその手のひらに胸が締め付けられた。悔しそうに力を込めて握りしめる手。何も言えないカスミが、力任せに振ったその拳を握りしめて止めるポチ男の手。

 

気がつくと、あっという間にユニバースでのラストシーンになっていた。

ポチ男が歌い出してから、見ている自分の心臓が明らかに早くドッドッっと脈打ちだしたのは驚いた。エンドロールが終わるまでずっと続いた。

映画館のスクリーンに流れるエンドロールと「記憶」

ポチ男がいた味園の風景が、時の流れを感じさせることなくそのままの温度で蘇った瞬間を目に焼き付けることができたことに、嬉しさが募った。孤独と隣り合わせで生きながら、そばにいる人との繋がりを握りしめて生きている、味園に暮らす人達がやっぱり好きだ。この人達に会いたくなる度、私はまた「味園ユニバース」を観るのだと思う。

 

舞台「蜘蛛女のキス」ヴァレンティンとモリーナを見て私が思ったこと。

  

東京グローブ座で公演している「蜘蛛女のキス」を観た。

大倉忠義さんと渡辺いっけいさんの二人芝居。歌もなく台詞のみのストレートプレイで、若き革命家バレンティン大倉忠義さんが演じ、モリーナを渡辺いっけいさんが演じる。

 

言葉には簡単にすることができない、静かな力のある舞台だった。

目には見えない“なにか”を手繰り寄せるように積み上げて築いていく繊細な二人の関係性を、第三者がまとめて言葉にしてしまえば容易に壊れてしまう気がして、ためらうほどに。

しかし書き留めて忘れたくないので、どうにか書きたいと思う。

 

歌のない舞台は観たことがあったけれど、二人芝居というものを観るのは初めて。

2時間35分もの時間を二人だけ見ているというのはどんな感じなのだろうと思っていた。始まってみるとそんな心配は全くいらず、あっという間に過ぎてしまう時間が名残惜しかった。セット展開をほとんどせず、二人だけ。この舞台の出演者が二人だけで良かった。正確にはもう一人いるけれど、今回それは省略しておく。バレンティンモリーナの会話を聞いて、二人が持つ背景を想像するだけで頭は精一杯で、フル活動状態だった。

今回、自分が座ったのは3階席。見切れることもあり、細かな表情や目線の動きは見えない状況だった。見え方が分かって即座に、ここでどれだけ楽しむことができるかということが醍醐味だと思い、ヴァレンティン側のベッドが見えないことを利用してモリーナに注目して観ることで、モリーナの心情を通したヴァレンティンを見ることができた。神経の研ぎ澄まされた状態の耳に聴こえてくるヴァレンティンの声が、一層強く記憶に残った。

声だけに、充分すぎるほどの表情がある。怒り、弱り、悲しんで、生きていた。

むしろこの席で良かったかもしれないと思ったのは、モリーナ側のテリトリーに入ってきた時のヴァレンティンがよく見えることだった。それによって、難しいのではと思っていたモリーナへの感情移入が自然とできた。

照明と同じ高さから観られることも嬉しくて、照明さんの仕事を意識しながら照明の展開も観ていた。牢獄でありながら、朝の強い明るい日差し、夕暮れ、夜。様々な表情を見せる光が差し込み、小さな部屋に表情をつけていた。じわじわと落とす暗転も、思わず目を凝らしたくなるさじ加減で徐々に見えてくるモリーナの姿も、光の演出によって幻を見ているようなミステリアスさを感じた。

モリーナのスペースには、ポスターや写真立て、棚に掛けている可愛らしい布など、随所に彼女のセンスが表れていた。ベッドにはカーテンが付けてあって、いくつかの布を繋ぎ合わせてある。青色などの布の中でピンクの布がアクセントになっていて、そのピンクの布がキラキラとしているのがよかった。

 

高い壁のもっと上、天井にわずかな光が差す格子の付いた窓。その窓からの影が夜になると象徴的に床に写り、光の変化で大きくなった床の格子の影は、捕らえられたヴァレンティンとモリーナの居る場所と現実をいつまでも突きつけてきた。

レンガの壁にはヴァレンティンとモリーナの影がはっきりとよく写り、影で見るヴァレンティンの横顔が印象深かった。壁が上に行くにつれて横幅が斜めに広くなっていて、視覚効果を考えられているようなセットの作りにも感動した。

大きな壁を下から見上げるように見れば、上へと遠い威圧感のある壁に見えるのだろうなと想像しながら観ていた。1階から観ていた訳ではないので確実なことは分からないけど、ヴァレンティンは特にベッドに寝転んでいるシーンが多いため、ステージそのものにも傾斜が掛かっているのではと思いながら観ていて、斜めっている床での芝居は、そこに立っているだけでも体幹を使って大変そうだなと思った。

 

黒い幕が閉じた状態からの、舞台導入の引き込み方が凄かった。

フラメンコギターの音が聴こえ始めるとじわーっと暗転していき、何も見えない暗闇が作りだされ聞こえてくるのはモリーナの声。モリーナの話しの合間に茶々を入れるヴァレンティンの声が聞こえる。

この時にわかるのは声だけ。働くのは聴力だけで、しばらくの間なにも見えない。

それが舞台の世界観へと引き込む強い効果を持っていて、こうして始まるのかと感動だった。現実生活からグローブ座へと来た観客を、一気にその空気で覆うことは簡単なことではないと思うからこそ、この舞台をどう観たらいいのかを教えてくれる演出に驚きと感動があった。

ここがブエノスアイレスであること、刑務所の小さな牢獄に居ること。しっかりとした説明ゼリフがあるという訳ではなく、それが前提で話が進んでいくので、より作品の空気感を伝えるのは難しいことだと思った。しかしその導入のおかげで、本は読まずあらすじしか読んでいなかった自分でも、「蜘蛛女のキス」の世界に入り込むことができた。

 

大倉忠義さんも、渡辺いっけいさんも、なんとなくの固定されたイメージが自分の中でついてしまっている感じがしていて、ストレートプレイともなると本人がよぎる瞬間があるのではと心配があった。

しかしそんな心配は必要なかった、舞台を見ている間、自分はヴァレンティンとモリーナを見ていた。大倉忠義さんを、渡辺いっけいさんを見ていると感じる時間は無かった。舞台で生きている二人の時間をただ見ていた。

正直、渡辺いっけいさんがモリーナを演じると知って、紛れもない男性の風格がある渡辺いっけいさんが女性のように見えるのだろうかと思ったけれど、モリーナはずっとモリーナで、性別を越えて、“モリーナという人”が生きていた。

あからさまな好意を見せるようなアピールや色仕掛けをするのではなくて、自然と、必然のように目には見えないなにかが変わっていく。雑にしてしまえばすぐに壊れそうななにかを、舞台の中で丁寧に描いていた。

 

「蜘蛛女のキス」を観に行く前、テレビやメディアで取り上げられるポイントばかりに囚われて、先入観から本当にある奥底の意味を見失いたくないと思っていて、舞台を観ている間ずっと、このストーリーが伝えようとしていることはどこにあるだろうと探していた。

二人の結末や関係性についてどう考えるかは難しいことだと思ったけれど、実際に観てみて、これは人と人の話であり、愛の話であると感じた。複雑な心情と、揺れ動き。誰もが持つ様々なものに対する愛情を、複雑な状況に置かれた二人に語らせることで、自分自身にとって愛情とはなんなのか、愛情に自分が望むものはなんなのか。それを考えさせられた。

 

本来であれば出会うはずがなかったヴァレンティンとモリーナが、密室に閉じ込められたことで起こり始める心情の変化。モリーナにとってはきっと、そんなはずがないと思いながら、自らに言い聞かせながら、でも確かに感じるなにかにすがりたい衝動との葛藤だったのだろうと思う。二人に流れる空気の変化を信じていたい、モリーナの心の揺れが伝わった。

だからこそ、腹を空かせて気が立っていたのにやっとありつけるオートミールの多い方を「オートミール好きだっただろう」と言ってモリーナに譲り、ダメだと言っても聞かずに少ない方を食べきってしまったヴァレンティンの思いがけない優しさに戸惑っただろうなと思った。

渡されたその器には毒が盛られていることを知っていながら、ガツガツと食べきるモリーナ。捨てたって構わないはず、うっかりを装い、手元を滑らせて床に落としたってよかったのに、モリーナはそうしなかった。ヴァレンティンから受け取った優しさを平らげてしまいたかったのだろう。どれほどの愛か。

ヴァレンティンのモリーナに対する、はじめの雑な呼び方から、「きみ」になり「モリーナ」へと変化する。名前を呼ぶ声も段々と優しくなっていく。「モリーナ」と呼ぶヴァレンティンの声は、どきりとするほど穏やかで甘くて、砂糖菓子みたいだった。

 

大倉忠義さんの台詞を話す声が、良い意味で想像と違っていた。いつもよりさらに低く、声に波ができないよう一定に保っているような感じ。意図しているのか、どんな意図なのかは知ることができないけれど、低い声でヴァレンティンという役を作ったのはモリーナを演じる渡辺いっけいさんとのバランスを考えてのことなのかなと感じた。

渡辺いっけいさんはあからさまに声を高くしたりすること無く、いつもの声をわずかに語尾が上がるように話し女性らしさを表現していて、聞こえてくる二人の会話はつかみ所のないバランスを保っていた。

 

「蜘蛛女のキス」の演出をされた鈴木裕美さんは、丸山隆平さんの「マクベス」も横山裕さんの「ブルームーン」も演出されている。

鈴木裕美さんの演出する“情けない男”は、どう考えてもダメなやつなのに、どこか愛しどころを見つけてしまう。素直で幼く、これが母性をくすぐるダメな男というやつなのかと気付きたくない心情を知ってしまったような気持ちになる。マクベスの時もそうだった。

現実に身近にいたとしたら絶対に関わることはないような性格の持ち主でも、鈴木裕美さんの演出にかかれば一様に引きつけられてしまう。

 

内容は終始シリアスだったけれど、テンポよく進む会話に退屈せず、渡辺いっけいさんの戯ける姿にくすっと笑うこともあって、息が詰まりすぎることもなかった。

モリーナの話す映画の話を聞いていて、始めは知らない映画の話を人から聞いて関心が持てるだろうかと思っていたけど、話が進むうち映画の話を聞きたくなって、続きを聞かせてくれるのを待ちわびている自分に気が付いた。そこに関しては、ヴァレンティンと気が合った。

実際にそんな映画があるのだろうかと思いながら舞台を観ていたら、パンフレットに実在する映画についての解説が載っていて、本当にあるんだと嬉しくなった。モリーナが口ずさんでいた歌についても解説がついていた。舞台が気に入ったら、パンフレットは買って損はないと思う。

 

ヴァレンティンはすぐ怒り、一体いつ気が立っていないのかむしろ教えて欲しいほどすぐに感情的に声を荒げるけど、時折見せる無邪気さは幼い5歳児のようだった。

革命家を志す者として投獄されたヴァレンティン。革命とはなんだろうと劇中ずっと考えていた。一人で、革命を起こせると信じているの?と言ったモリーナの言葉に怒って叫ぶバレンティン。一人ではないんだ、仲間がいると自らに言い聞かせて、なだめるように話す彼の姿は悲痛だった。仲間たちは、本当に彼のことを考えているだろうか。いざという時、命がけで助けてくれるような関係性があるのだろうか。しかしあったとしたら、ヴァレンティンは一人投獄されることはなかったのでは。

時折、ははっと笑う声は無邪気で、そんな彼の無垢な心に“革命”という言葉は刺さってしまったのだなと切なくなった。手を握っていてくれないかとモリーナにお願いする場面などから、母性への渇望も感じられる。それでも、革命家を志す若き男という空気は身にまとったままで、繊細で感情が高ぶりやすく儚い。

 

モリーナが言った「私の人生はいつ始まるの?」という台詞を聞いた時、胸に重くのしかかる感覚がした。誰かのために生き続けてきたからこそ、今のモリーナの尽くし世話する性格が形成されたのだなと思った。

もう一つ胸にきたのは、モリーナの子供の頃の話を聞き、人形を大事にしていたと話すモリーナにヴァレンティンが反応を示すシーン。シンパシーを感じている自分に気付いたヴァレンティンが、戸惑いながら「俺が心理士だったら食っていけない」というような言葉を言った時だった。

受け取り方が合っているのかは分からないけど、これはなによりの愛の言葉ではないかと思ったからだった。愛なのか。陽性転移なのか。境が分からなくなってしまったという意味だとしたら、こんなに洒落た言い回しはないと思った。

このストーリーは愛ではないという考え方もあるかもしれない。確かにヴァレンティンは本当の意味でモリーナを愛してはいなかったと思うし、二人の思いは重なってはおらず、すれ違っていたと思う。聞きたくないと何度も拒否するモリーナに対し、きみの安全は保証するからと革命の手伝いをさせようとする。モリーナの保釈を喜んだのも、自らの計画が遂行できると真っ先に考えたからだった。

ヴァレンティンはモリーナの苦悩に気付かず、モリーナは最後まで本当のことを言わなかった。

極限の状態だったから生まれた感情、それでも、人と人としての愛で言えば、モリーナは甲斐甲斐しく世話を焼き続け、ヴァレンティンは自覚のないままにモリーナを思いやっていた。正しい形で愛するという尺度を捨ててしまえば、ヴァレンティンは不器用にもモリーナを人として愛していた。

 

モリーナの罪や、ヴァレンティンの思想など、共感できないこともあるけれど、舞台を観る上で何もかもを好きにならなくてもいいということを、今回学んだ気がしている。

丸ごと全部を好きにはならないとしても、むしろその部分にこそ意味があって、自分の感情がどう動くのかという新たな経験をできる機会なのだと感じた。

やっぱり舞台は楽しい。感情が揺さぶられ、飲み込まれて、溺れかけることもあるけれど、この感覚が好きで仕方ないのだと思う。

舞台「蜘蛛女のキス」はジワジワと心に広がりへばりつく、まさに蜘蛛の糸のようで。それ以外に言い表しようのない感情にさせられる舞台だった。