熱を持って実直に今を歌う。リーマンズロックに見た高橋優さんの強み

 

高橋優さんのライブに初めて行ってきた。

ライブツアー「来し方行く末」

 

直接歌を聴きたい一心でチケットを取って、ついに迎えた当日。

けれど、当日になって浮かんだ一つの不安があった。音楽をジャンル関係なく聴くようになったけれど、ライブとなると空気は違うのではないか、その空気に自分はついて行くことができるだろうか?

ライブハウスには行ったことがない。フェスにも行ったことがない。ファンの人たち、ライブでのお決まり、何も知らない私がこの場にいていいんだろうか。楽しみな気持ち半分、おじゃまします…という神妙な面持ち半分で会場へと入った。

 

グッズのツアーTシャツを買った。黒にブルーの映えた2017年通年Tシャツ。シンプルなデザインで、普段も着られそうなところがいいなと気に入ってこれに決めた。プリントTシャツはきっちり四角に貼り付けられてしまうと、作りました感が出すぎて自然に見えないので敬遠していたけど、このTシャツはプリント部分の角や中側にもダメージ加工が施されていて、そこがすごいなと思った。

グッズはアリーナ内で販売されていて、アリーナに入った瞬間から大音量でかかるアルバム「来し方行く末」の曲にわあっと包まれた。

その時に流れてきた曲が「君の背景」で、好きだと思った曲の最も印象に残っていた歌詞のフレーズが流れてきたことにまず最初の感動をした。

 

高橋優さんのライブが始まって、一曲目が「TOKYO DREAM」だった。

音楽がドッっと押し寄せてくる、漫画みたいに文字が大きく太字で見えるような感覚だった。歌声、楽器の音の厚みに圧倒された。

お客さんのボルテージの上がり方、なにもかもが初めて見る空間。

暗転して楽器が鳴るたびにドキドキして、セットリストも何も知らず、次の曲がわからない状態でライブを観る新鮮さがあった。アルバムで聴いていた曲も、そうだこの曲!ってなる曲も楽しくて仕方なくて、なんというか映画「SING」を観ていた時に近い感覚だった。全身で音楽を浴びる快感がわかった気がした。

 

ステージに立っている高橋優さんを見るのか、スクリーンに映る表情を見るのか迷うほど、どちらも魅力的だった。どうして表情を見られることに感動するのだろうと考えたら、アルバムを聴いている時にはまだわからない、“この歌詞を歌う時の高橋優さんはどんな表情をするのだろう”という知りたかったことが一つずつ埋まっていくのが嬉しくて、ワクワクしたからだった。声だけで伝わることもあるけれど、表情はさらに曲に込められた意図を受け取るのに大切なものだと感じることができた。

 「拒む君の手を握る」の《愛してる》と「君の背景」の《愛しているよ》

その温度の違いも、声と表情、あの場の空気が揃って伝わるものがある。

それで気づいたのは、音楽番組で見ることができるのはそのアーティストのごく一部分であること。ライブに足を運ぶことで初めて一歩踏み込んだ面を知ることが出来るということだった。一曲を切ることなくフルで歌っていて、曲数が多いのもいいけれど二番の歌詞が好きな人もいるわけで、一曲しっかりと聴ける満足感もあった。アルバム丸ごとの空気感を体感するための場所がライブなんだと腑に落ちた。

 

ライブに行って驚いたことがもう一つある。バンドにバイオリンを弾く男性が一人いたこと。

オーケストラではなく、一人でバンドのなかにバイオリンがいる。新鮮だった。ロックなバイオリンを初めて聴いた。

高橋優さんの曲に感じる軋んだ強さと繊細さは、バイオリンとエレキギターの象徴的な二面性からくるのかと、ハッと気づくことができたような気持ちになった。

バイオリンはクラシックのためだけの楽器ではないんだと体感できたことも、なんだかとても嬉しかった。演奏をされていた須磨和声さんはどんな経緯でこの道を歩いたのか、どんな人なのか、とても知りたくなった。

 

カメラの使われ方も手拍子をする手にピントを合わせてステージを向こうに映していたり、客席全体を広く映していたりするところに特徴があると思った。特にカメラの角度で好きだったのは、高橋優さんの斜め後ろからライトの当たる背中を映していて、背中越しに横顔が見える角度。暖色のライトが夕暮れ時みたいで、いい景色だった。

高橋優さんが時折、右、左と客席のアリーナやスタンドに向けて指を差す仕草も印象に残っている。嬉しそうで、笑顔なのが遠目でだって分かる動き。「センター!アリーナ!スタンド!」に合わせて声を上げるあおりも楽しくて、「君たちが横浜アリーナです」とアリーナ席を指差して言う高橋優さんもよくわからなくて好きだった。

ラスト、バンドメンバーと一緒にあおる時も、バンドメンバーが体の動きで観声を表現していて、声が湧き起こる感じを全身使って。センター!でワー!っと両腕を上げて、アリーナは足を前に踏み込んで、ワー!スタンドはより一層下から持ち上げて、ウゥワー!っとみんなで動いている様子が楽しそうで面白かった。

セットはシンプルだけど変化があって、「光の破片」では万華鏡の中に入ったような光をミラーボールの使い方で表していたことに驚いた。映像を映し出すのも、スクリーンとプロジェクションマッピングを使い分けていて、画面に映すのではなくてプロジェクションマッピングで壁に映すからこその自由度を活用している演出がすごいと思った。

 

どの曲も聴けて嬉しかった曲ばかりで、「BE RIGHT」も「パイオニア」も、やっと聴くことができた。そしてアリーナ編では、リクエストを事前に募ってその中から二曲歌うことになっていて、この日は「少年であれ」と「現実と言う名の怪物と戦う者たち」だった。聴いていた時はこの二曲が日替わりであることを知らずにいて、一日違えばこの曲はセットリストになかったのだと後で知った。

高橋優さんのライブに行けることになって、聴けると良いなと思っていたのが「少年であれ」だった。本当に嬉しくて、この日に来ることができてよかったと心から思った。

「TOKYO DREAM」や「BE RIGHT」の息つく暇もない歌詞のリズムを、ピッチ狂わさずに保ったまま歌い切る姿は圧巻で、曲が終わった時の熱気はそこへの感動も含まれている気がした。あの熱量で3時間歌い切ることも、一つずれたらどんどんと追いつかなくなる難しさのある曲を歌いこなすのも並大抵ではないと思う。

曲でそれぞれの台詞のようになっているところでは、変わるがわる人が話しているみたいに表情や声を変えていて、曲の世界観をつくる表現力にも圧倒された。

 

あっという間だったライブの中で、タイトルは知っていたけど初めて聴く曲が一曲だけあった。

「運命の人」

その一曲に心を掴まれた。タイトルでイメージするような甘いものではない。こんがらがってて、ややこしくて、でも切実で。交差しない線の上で見守る距離が苦しい。

“僕でよければ側にいるよ”をちょっと鼻の下伸ばして得意げに言う表情に、らしさがあって、“友達でいなきゃいけない苦しみなら 僕もよく知ってるよ”という歌詞で切なさが破裂する。

高橋優さんが歌う姿を直接見られたから、表情も込みで好きな曲になった。

 

挨拶や曲と曲の合間に話している高橋優さんは、ラジオと印象が全く違った。やっぱり一面しかまだまだ知らないのだなと思った。今は今。そう話す高橋優さんが頭に残っている。

ライブを観ていると、今、自分の憧れがどこにあるのか何が頭のなかにあるのかがストンとわかる。余計な考えが振るい落とされて、浮かび上がる感じがする。

 

「来し方行く末」というタイトルでツアーを回りながら作ったと話していた曲「ロードムービー」は、言葉の通りにツアーで高橋優さんが見てきた景色を垣間見ているようだった。そして、どこかで誰かがこちらのことを思っている時間があるかもしれないというメッセージは、そう思えたならと幾度も想像してきた“もし”で、そのことに大きく心を揺さぶられた。

 

アンコール、バンドメンバーがライブTシャツを着て出てくる中、高橋優さんは白シャツを着て黒のスキニーで出て来た。なぜだろうと思っていた謎はライブ最後の曲を聴いた時に解けた。

「リーマンズロック」だったからだ。白シャツを着て歌う姿は、勇ましくて力強かった。ライブのセットリスト最後に、現実を表している「リーマンズロック」を歌うことが出来るのが高橋優さんの最大の強みだと思った。思いっきり現実。でも、確固とした力になる。

 

ライブが終わって、アリーナから出て電車に乗っていると、聞こえてくる会話が政治や会社の話ばかりだった。たまたまなのか、高橋優さんの歌を直に聴いて耳が感化されているのか分からないけど、高橋優さんは本当に今を歌っている人なんだと実感しながら家路に着いた。

チケットを取って、足を運んでよかったと思う。アンコールに応えて出てきた後に、最後スタンドマイクからマイクを握り取って「明日はきっといい日になる」のインストに合わせてワンフレーズ歌った高橋優さんが印象的だった。

また私はこの空間に来るだろうか、来れるだろうか。分からないけど、少なくともこの日、目の前で観てきたものは今必要なものだった。そう言える。

関ジャムの縁を形に。アルバムタイトルは「ジャム」

 

先週の関ジャムで、次のアルバムタイトルとその詳細が発表された。

メンバー揃っての改まった発表。なんだろうと戦々恐々としていると、ドドーンと次から次に追いつかないほどのサプライズ。

 

次のアルバムタイトルは「ジャム」!!

「関ジャム 完全SHOW」からの影響をもろに受けた、“音楽”ぎっしりのアルバム。

関ジャムで関ジャニ∞が得たものと繋がった人との縁が、形になってアルバムになる。そんなことがあったらと想像したことはあっても、こんなに早く見られるとは思っていなかった。

番組に講師としてゲストに来ていた岡崎体育さん、蔦屋好位置さん、BEGINさん、いきものがかり水野良樹さん、ユニコーン、そしてまだ何かある…とそれはもう盛りだくさんで。

なぜこんなに嬉しいんだろうと考えると、アルバムを作るにあたり企画が立てられて、依頼があって、楽曲提供。という枠組みから一歩踏み込んだ、3年間積み重ねてきた番組での経験と、番組内だけで終わらず共演する方々やプロデューサーの方々に一緒に仕事をしたいと思われる関係性を築いてきたということをこうして知ることができる。番組で得たものを形にする、それが実現する凄さ。

番組での共演をして、そこからさらに縁を繋いだのは関ジャニ∞ひとりひとりが真摯に音楽と向き合ってきたからこその結果だと感じるからこそ、嬉しい。何も知らずに新曲を新曲として聴いていた時よりも、どんな人がどんな思いで、どんなふうにして曲が作られているのかを、番組を見てきて知った今の方がずっと濃く音楽を楽しめる気がしている。

 

そしてまずアルバムに入るシングル曲が好きで仕方ない曲ばかり。

ドラマの「サムライ先生」主題歌で、レキシの池ちゃんが作ってくれた「侍唄

夏のハイテンション男前ソングとして欠かすことができない「罪と夏

アニメの「モンスターハンターストーリーズ RIDE ON」主題歌「パノラマ

映画「土竜の唄 香港狂騒曲」主題歌「NOROSHI

映画「破門 ふたりのヤクビョーガミ」主題歌「なぐりガキBEAT

 

ここに関ジャムでの共演での繋がりで提供される曲が収録されて、

初回盤Aには新曲(1)のMVとユニット曲の片方( A )とドキュメント映像の「フトコロノカタチ」

初回盤Bには新曲(2)のMVとユニット曲のもう片方( B )と番組「関ジャニ∞クロニクル」とタッグを組んだ映像

通常盤はシングル曲とアルバム曲のみの収録で、ユニット曲を聴くにはAとBどちらも必要なよう。アルバム発売は6月28日。

 

同時期にスタートして続けてきた番組、「関ジャム」と「関ジャニ∞クロニクル」の要素が色濃いアルバムこそが「ジャム」

今明かされているのは一部で、交渉中とされている楽曲提供についてもユニット曲についても楽しみはまだまだある。アルバムを手に取って、歌詞カードのクレジットを見る時が本当のサプライズになるのではと思うくらい、アルバム「ジャム」の発売日が楽しみで仕方ない。

カルテットに届けられた手紙

 

ドラマ「カルテット」全10話を見終えた。

気がつけばずっと、脚本の坂元裕二さんのドラマに惹かれ続けて、「それでも、生きていく」も「問題のあるレストラン」も「いつかこの恋を思い出してきっと泣いてしまう」も見ていた。

 

「カルテット」は、他者と他者との関係がどこまで強くなり得るかというテーマを持っていると思った。そして好きなことを仕事にするのか、趣味にしていくのか。

サスペンスだと聞いた時は、怖いのも不気味なのも苦手としている自分には大丈夫だろうかと見ることを迷いもしたけど、結果やっぱり見てよかったと、1話から高画質で録画していて良かったと思った。 

10話を通して見て完結するというより、1話ごとに軸があるため、日によって今日は何話が見たいという見方ができる。

何話が好きだったかという感想は個々に分かれる気がした。全体に流れる空気は一貫しているけれど、真紀さんとしての妻の想い、夫さんを探すお母さんの想い、すずめちゃんの“子”としての思い、別府さんの“家族”としての思い、家森さんの“親”としての思い。

私は3話と10話が特に好きだった。リピート率も3話が断トツで多い。

 

最終話のなかで、手紙がカルテットの4人に届いた。

「カルテットドーナツホール様」と宛てた手紙。

ここへきて、脚本を書かれている坂元裕二さんはやっぱり手紙を大切にしている人だと感じることができた。それが嬉しかった。「いつかこの恋を思い出してきっと泣いてしまう」でもお母さんから音ちゃんへ宛てた手紙が物語を動かし、最終話での音ちゃんからお母さんへ宛てた手紙は忘れ得ない言葉の数々だった。

表現者とは、という問いに向き合い続ける人全てに宛てた、痛いほど突き刺さる疑問、苛立ち、惨めさが2枚ほどの手紙ひとつに込められていた。短い文であれほどまでに核心をついた問い掛けができるということに、文章を書くという意味でも驚かされた。

 

その手紙を聞いているカルテットのメンバーの表情は、ドラマのなかでそれほど映されない。感情的になるようなシーンがあってもいいはずなのに、それがない。家森さんが手紙を受け取り、初めに読み、カウンターに置いておく。手紙に気づいたすずめちゃんがそれを声に出して読む。

「あ、ちょっと読んだけど いいよ捨てて」と家森さんはすずめちゃんに言ったけれど、本当に手紙を読んで不快に感じ、みんなには見せられないと思うなら、家森さんが黙って手紙を捨てていたと思う。そこに、置いておいた。ドラマの終盤に出てきた「パセリ」のように、「パセリ、ありますね」と認識し合うやりとりのように、知っておくことは大切なことなのだと思った。

「読まなくていいって」と言う家森さんにすずめちゃんは「でもせっかくのお手紙だから」と自然に返す。この一言がとても好きだった。好意的な内容でないことは察しがついただろうし、読まない選択肢だってあったけど、すずめちゃんもまた手紙を大切に思っているのだということが伝わってくるこのシーンがいい。

この手紙は、ドラマを見ている人それぞれの置かれている状況によって、響く箇所も持つ感情も異なることが考えられているとしたら、あの手紙が読まれている時間どんな表情をしているかは自分自身に答えがあるのかもしれないと思った。

 

手紙を受け取ったカルテットの思いも、手紙を書いた“誰か”の思いも、どちらの立場も境なんてものは無くて、何かをつくり届けたいと行動する自らの中で湧き起こる感情だと分かるからこそ、見ていてなんとも言い難い気持ちになった。

手紙を送られる側だけの気持ちで居られるなら、それは怒りになるのかもしれない。なんて酷いことを、どうしてこんなことが言えるのか。そんなふうにして怒れるかもしれない。

けれどこの手紙はあまりにも切ない。

高みの見物をしているつもりで乱暴に連ねられた言葉は、次第に「なぜ」という問いに変わり、最後には「教えてください」と懇願になった。「煙の分際で」と言った、カルテットの4人に、自らでは解けなかった問いを託している。

手紙に綴った槍のような言葉は、書いている“誰か”自身に向けられた言葉でもあり、刺さって傷ついているはずだとわかるからこの手紙は切ない。

人に対して投げつけたつもりの罵倒の言葉は、自らをも傷つけているということを表しているようにも思った。

 

手紙を書いた“誰か”とカルテットが違うのは、今、続けていることで。

奏者をやめたことだってそれはその人の正解なのだろうけど、自分がやめたことを正しくするために、続けている人に向かって「どうしてやめないんですか?」と言わずにいられない時点で、悔しさ滲んでいるのが切ない。

この手紙は鋭利だったし、傷つけようという意図も含まれたものだったけど「将来があると思いますか?」の問いはきっと何かを続けたいと思っている人の心に常にあるものと思う。

 

届く人には届くんじゃないですか?

その中で、誰かに届けばいいんじゃないですか

1人でも、2人でも。

完璧じゃないし完全じゃない、ホールでの演奏だって興味の無い人はどんどんと出て行くけど、彼らが続けることを誰も止めることは出来なかったわけで、何をもって成功と呼ぶのかも趣味だと決めるのかも明確なところではない。そんなグレーさが素敵なドラマだった。