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3月、書くことについて考える。

思うこと 映画感想

 

ノートパソコン、買いました。

一大決心の買いもの。初めての投稿は「カルテット」について書いた昨日の記事になりました。 そわそわと落ち着かない感じ。慣れて馴染むくらい使い込んでいけたらと思う。

 

そして、3月になった。

12ヶ月で最も好きな月であり苦手な月。街の空気が新生活へと準備を始めて、なんとなくいつも通りでは無い、ざわざわとしだす頃だからだと思う。それに影響されてなのか、毎度なんだか葛藤の最中にいるような気がする3月。しかし4月には高橋優さんのライブが待っているので、いつまでも潜っているわけにもいかない。

 

書くことについても例外なく悩んでいる。

作品を見た時、何かを経験して感情が動いた時に、書きたい!という衝動から書いているその時間は他になにも考えてはいないけど、もっと真剣になりたいからこそ、ここのところ考え込んでしまう。

私がここに投稿を始めたのは、これまでずっとノートに書き続けていたことを、ノートで留めておきたくないと考えるようになったからだった。自分だけが持っていて自分だけが読めるノート。それがもったいないような、つまらないような気持ちになった。

思っていることは山ほどあるのに、持て余して表現の仕方が分からなくて、いろんなことを試してみた。でもどれも形としてしっくりくるものがなく、なにを用いてなら表現したいことが表せるのかと探し続けて見つけたのが「文章」だった。

本を全く読まなかったわけではないけれど、習慣だったわけでもない。小さい頃に絵本が毎月3冊ほど届くのがお決まりではあったけど、年齢と共に字の多い“読む”本に変わってきたあたりで、その定期便もやめてしまった。それでも表現方法というものには興味があって、ドラマや映画、歌の歌詞に出てくる言葉の繋ぎ方には関心が強かった。だから高校での教科「国語表現」は、あまりの抽象的な質問になんて面倒なんだとうんざりしながらも結局面白いと感じるようになり、なんだかんだ国語表現に取り組んでいる時間は楽しかった。

 

ここで書き始めた時、自分でもどんなことなら書けるのかが分からなかったから、ものすごく抽象的な挑戦をこれから始めるぞという気持ちのなか初めて書いたのが、NEWSのライブ「White」についての記事だった。

文章を書くと言うなら「小説」が書けなければ。と思い込んでいたから、小説は書けなかった自分は何が書けるんだろうと模索しながら、書いた。最初のころは自分でも何に挑戦しているのか、これが何かになるのか、形の無いものを形作ろうとしているようで漠然としていた。周りに“こういう事をしている”と説明しても、理解してもらうのは難しかった。

まずは分かってもらえなくても、とにかく続けてみようと自分で決めた。それからおおよそ2年。まだ2年。それでも、始めた時よりも書くということを具体的な形として考えられるようになった。

コラムなのかレビューなのか。今でもわからないところではあるけれど、“いいと感じた物の、なにがどういいのか”を伝えられる文章を書きたいという動機だけは変わらずはっきりしている。

作品のどこがどう良く、どんな楽しみ方もあるのか、答えではなくきっかけになるような文章を書きたい。

 

一つの映画に専属のライターがつくように、新曲リリース時の紹介文、ホームページに載っていたりラジオでの曲紹介に使われる文章。ライブレポートとして載る文章なども書く仕事なのだと、意識して見るようになってからは目指す形が見えてきて、そして増えている。

自分が目指していることは作品あってこそのものだと覚えていたいと常に思うのは、2007年に公開されたディズニー映画の「レミーのおいしいレストラン」で、評論家であるアントン・イーゴーが物語の中で語った、言葉の影響が大きい。

“評論家というのは気楽な稼業だ。危険を侵すこともなく、料理人たちの必死の努力の結晶に審判を下すだけでいい。

辛口な批評は書くのも読むのも楽しいし、商売になる。だが、評論家には苦々しい真実が付きまとう。たとえ評論家にこき下ろされ、三流品と呼ばれたとしても、料理自体の方が評論よりも意味があるのだ。”

映画館でこの言葉を聞いた時、胸にきた。本当にその通りだと思ったからだ。そのとき自分はまだ書くことを始めてはいなかったけれど、評論家に限らず、なにかを観る側でいて、それについて語ることのある人全てに当てはまる言葉だと感じたからだった。

特に“たとえ評論家にこき下ろされ、三流品と呼ばれたとしても、料理自体の方が評論よりも意味があるのだ”という言葉には、感想を簡単に発信できる今だからこそ、より強く肝に命じなければと感じることがある。私は書くことで評論をしたいわけではないけれど、料理を必死で作る人たちがいるからこそ、評論家たちは書くことができるという関係性にはきっと重なる部分がある。創り出す苦労に比べたら、出来上がったものにあれこれ言うのは簡単で、しかし、ゼロからそれを創り出している人には到底かなわない。だから、その敬意を忘れないでいたい。 

 

そしてイーゴが続けて言ったこの言葉が、ずっと心に残っている。

 

“誰もが偉大な芸術家になれるわけではないが、誰が偉大な芸術家になってもおかしくはない”

 

続けていきたいと思っていること。終わらせることもまた始まりで、変えようと決めたこと。

3月は多くのことが自分にとっても実際に変わることになる。どんな心境で4月の高橋優さんのライブを聴きに行くことになるのか、今は想像もつかないけど、逃げても隠れても4月は来るし夏には関ジャニ∞の夏のツアーが待っているのだから、やれることをやっていこう。

「カルテット」第3話 −印象に残った言葉 すずめちゃんについて−

ドラマ感想

 

「じゃあ…そうだね…ずっと一生、一緒にいてねって、約束しました。」

すずめちゃんが第3話で車の中、チェロとの出会いを真紀さんに話す。「じゃあ…そうだね…」と言うすずめちゃんの声が、耳に馴染んでリフレインするようで、しばらく忘れられなかった。感傷的でもなく、無感情でもない。でもチェロとすずめちゃん、二人きりの約束だったんだなと、再現シーンが合間にあるわけではないのに、その頃の空気が真紀さんとすずめちゃんの乗る車内に蘇っている気がした。あの言葉の間が、ぽつりぽつりと日々を生きてきた彼女のこれまでを物語っていた。

 

ドラマ「カルテット」今夜放送になるのは第7話。今夜見てからでは、なんだか見え方が変わってしまいそうな予感がしたので、その前に書いておきたかったすずめちゃんについてのこと。

 

3話の始まりからしてすずめちゃんはマイペースで、布団からやっと起きてきたと思ったらお昼ご飯を食べてまた寝てしまって、別府さんの残した書き置きの“雪が降るそうなので午前中のうちに洗濯物をしまっておいてください”というお願いも寝過ごし、気づくと洗濯物には雪が積もっていて。

二度寝してしまったなと起きた時と外の洗濯物を見た時、「はっは」と声を出す、すずめちゃんのあの感じが好きだった。面白くて笑っているのかと言うと、そういうことでもなくて。自分自身への嘲笑に近い雰囲気。はたから見たら、グータラな人に見えるかもしれない。でも彼女なりにこつこつ生きている。洗濯物が濡れたなら、薪ストーブの前でもう一度干せばいい。家森さんのパンツは暖炉の中に放り込んでしまったけど、ま、燃料にしちゃえ。

布団が好きで寝てばかりいて、テトラパックのコーヒー牛乳が好きで。よくわらう。形容しがたい愛らしさのある役柄で、もうすずめちゃんが好きなのか満島ひかりさんが好きなのか区別がつかない。

 

しかし、一面的ではない彼女のさらなる面を掘り下げたのが、第3話だった。

お父さんが危篤だと伝えに来た彼に、「家族でしょう?」と言われた時の彼女がまとう空気の変わりよう。「はい」という答えの言葉までは平常心を見せていたけれど、バッと頭を下げて、上げた時の目。怒りを彼にぶつけるのは理不尽と分かっていて懸命に堪えている表情。

 

別府さんからもらったドーナツを、バス停のベンチで取り出して食べているところも、それだけのことなのにそれだけのことではなく。そのドーナツの袋を開ける時も、器用にではなく、食べやすいようには開けられなくて、ほんとに鳥がついばむようにちまちま食べている様子が、あぁすずめちゃんだなぁとじんわりきた。食べ終わって、やって来たバスには乗らずそのまま。食べ終わった袋を丁寧に畳んでポッケにしまう。雑に押し込むのではなくて、しまっておく感じがいい。

すずめちゃんはよく、物をポッケにしまう。よく着ているサロペットには胸のところに縦にチャックがあって、ポッケが付いている。

 

 

「カルテット」をここまで見てきて、最も印象に残ったのはカツ丼のシーンだった。

「怒られるかな…駄目かな…家族だから行かなきゃ駄目かな… 行かなきゃ」 

お父さんが亡くなったことを真紀さんから聞いて、「病院行こう?」と投げかけられた時には「食べてからで」と感情的に返したすずめちゃんが、自分に言い聞かせるように呟くセリフ。

普通に考えたら、行かなくちゃいけないことは頭では分かっている。幾つもの葛藤が一言一言に悲鳴のように表れていた。

「行きますね」「行かなきゃ」と自分で口にしながらも完全に追い込まれ、自分の気持ちにナイフを向けているすずめちゃんの異変に気がついて、真紀さんは目の色を変えた。

「いいよ」

と、病院に行こうと言っていた真紀さんが、考えを“常識”から“すずめちゃん”へと変えた。無責任に発する「いいよ」ではない。逃げるべき時があることを知っている人の声で、真剣な眼差しで、すずめちゃんを引っ張り戻した。

今考えれば、だからこそ真紀さんは夫さんのことも責めなかったのではと感じた。どうして!と詰め寄ることは容易くできたはずだけど、それをしなかった。

ご飯を食べ終わってから、無理をして病院へ行くことは出来たと思う。しかしきっと、それをするとどこかで歪みが生じて立ち直るのに時間がかかったかもしれない。親戚のこと、病院のこと、いろいろ考えて、無理なまま行くことも出来たけど、“今”でなければいけないという概念を捨てる方法を真紀さんはすずめちゃんに教えた。結果、お父さんの遺骨をすずめちゃんは受け取ったし、お母さんと同じように鍵を大切にしまった。

すずめちゃんがこのシーンで着ている赤いニットに赤のタートルネックという色には、精一杯の赤信号を発している彼女の心境も表しているのかなと思う。それに対比するように、真紀さんの着ているキルティングのコートの緑には安らぎがあって、俯瞰で見ているとお店の壁も緑なことに気がついた。赤い服を着たすずめちゃんの後ろに見えるのも緑の壁で、すずめちゃんが真紀さんの包容力に包まれているようだった。壁紙が緑ではないお蕎麦屋さんもあるわけで意図的に探して選んだ撮影地だとしたら、なんて細やかな演出なんだろうと思った。

 

 

「泣きながらご飯を食べたことがある人は 生きていけます」

 

真紀さんがそう言った。

“大丈夫”でも“幸せになれます”でもなく、「生きていけます」

この言葉の選択に真紀さんのこれまでがあると思う。

 

第1話の始まり、街中で、チェロしか弾けない。お金が無い。家族もという状況から声をかけられたことで、4人と出会うことになり手に入れた居場所、カルテット。

ぎこちなくても、“嘘”でも。同じご飯を食べて、おかえりって出迎えてくれる人がいて、ラブラブストロベリーとロックンロールナッツどっちがいいですかって選ばせてくれる人がいて。すずめちゃんいつも飲んでるからってテトラパックのコーヒー牛乳を買って来てくれる人がいる。

世間に許されるとかそんなところから隔離された、温かくも冷たい空間のカルテット。軽井沢の真っ白な景色はどこか浮世離れしていて、雪解けと共に彼らもいなくなってしまうのではとふいに心細くなる。

ノートパソコン買います。

思うこと

 

明日やっと。

ここまで62つの記事は、スマホを使って指一本で打っていて。それはそれで、どこに居てもすぐに書けるからいいと思っていたりもしたけど、やっぱり大事な道具。いつまでも手軽でいるわけにもいかないなと思った。

ぎりぎりな中だけど、今必要だと思うから今買うことを決めて、自分にとっては電子機器を新しく購入するということ以上に意味がある。

ちゃんと揃えるのだから、ちゃんと書いていく。と自分に約束する、形を持った決意表明。

続けていく先がどうなるのかは皆目見当つかないけど、今はまだ書いていたい。

 

手元に届いたら、マスキングテープを貼ってアレンジをするのが楽しみ。ステッカーも貼ろう。